【超短編】勝手に人を物差しにしないでくださる?
「北方のシグリット嬢なら、こんな顔はしないだろうね」
私、エルナ・グリーフェンスの婚約者であるギルベルト・ハルトマンがそう言ったのは、今夜だけで四百回目だ。
いちいち数えているのか、と笑われるかもしれない。
でも、殴られた回数を数えるのは殴られた側の癖なのだ。
——刺繍の糸を間違えれば、シグリット嬢は針を持たせれば右に出る者がいない。
——ドレス選びに半刻かければ、シグリット嬢は侍女に任せて一言も文句を言わない。
——黙っていれば、シグリット嬢のように穏やかならいいのに。
優しく、控えめで、決して不満を言わない、北方の公爵令嬢らしい。
それを五年もだ。会ったこともない令嬢の名前を出されては、私は比較され、下に見られてきた。
そんな生活も嫌気が刺してきていた頃だった。
◇
今年最後の夜会は数年ぶりに王都ではなく、北の地域で行われることとなった。理由は今年は雪が少ないから馬車も街道を通せるからだとか。
賑やかな会場で貴族たちが踊って、飲んでを楽しんでいる間、ギルベルトは私の手を引いて広間の端まで歩いていた。
「エルナ、紹介しよう。君もずっと会いたがっていただろう」
誰にも会いたがった覚えは一ミリもない。
ただ、そこに立っていた人を見て、私の足は止まった。
銀に近い金の髪を、飾りもつけずに束ねている。
北方の毛織りの裾は重く、この広間の誰よりも質素だった。
なのに、目が離せない。
背筋が、誰よりも伸びていた。
私は、この人のことを知っている、と思った。
見たこともないはずだけれど。
「シグリット嬢。私の婚約者のエルナです」
ギルベルトは、自分の持ち物をふたつ並べたみたいな顔をしていた。
その人は私を見下すように見た。
けれども、それからすぐにギルベルトを見て、心底わけがわからないという顔をした。
「知り合いのようにおっしゃっているところ、失礼ですが……」
澄んだ、少し低い声だった。
「私、あなたにお会いしたことはございませんよね?」
広間の音が、少しだけ遠くなった気がした。
「何を仰いますか。五年前の北方視察で、お茶をご一緒したではないですか。あの時から私は貴女様の立ち振る舞いに心を震わされ『理想の令嬢』として、うちのエルナにも貴女様の素晴らしさを毎日教えております」
「ああ、あれ」
その人は指を三本立てた。
「確か、三回でしたわね。挨拶と、天候の話と、退出のご挨拶。全部合わせて二十語くらいかしら」
「ええ、そうです。ですが、その短いお言葉にも温かなお心が滲んでおりましたし、令嬢の鑑とも申すべきご所作に感銘を——」
「あなた、おバカですの?」
言葉をまるごと切り落とすような言い方だった。
「バ、バカ……?」
「二十語くらいの会話で何が測れるというのよ。あの日、私、コルセットを締めすぎておりましたの」
「……は」
「背筋が伸びていたのは、丸めると苦しかったから。黙っていたのは、喋ると気分が悪くなりそうだったから。それだけですわ」
「そ、そんな。で、ですが、噂では、不満のひとつも言わない完璧なご令嬢だと……」
シグリットは目を丸くした。
「不満? 毎日言っておりますけれど」
「毎日、ですか」
「父にも、執事にも、御者にも。今朝は馬車の座面が硬いと三度申しました」
それから、その人の顔から表情が消えた。
怒りとは、燃え上がるより先に静かになるんだと、私はこのとき初めて知った。
「——ギルベルト」
「な、なんでしょうか」
「その『理想の令嬢』とやらを、五年間、この方に向けて使われてきたと言いましたね?」
「理想と言うか、その、規範として」
「私の名前で?」
「え、ええ」
その人は一歩だけ前に出た。
「私の名前で、五年間、この方を虐めていらしたというのね?」
ギルベルトは何か言おうとして、失敗した。
シグリットはようやく思い出したみたいに私に向き直って、きれいに礼をした。
「名乗りが遅れましたわ。シグリット・アウルバッハと申します」
「……アウルバッハ」
「ええ。北方辺境伯家の。見た目や立ち振る舞いだけで、公爵令嬢と呼ばれ続けて、訂正するのも面倒になっておりましたけれど」
ギルベルトの顔から色が抜けていった。
五年間、毎日みたいに口にしていた名前の家格すら、この人は知らなかったのだろう。
「そういえば」
シグリットが、今思いついたという調子で言った。
「ハルトマン家から北街道の敷設許可の申請が来ておりましたわね。三度目でしたかしら」
「あ、あれは——」
「判を押すのは父ですけれど、書類を選り分けるのは私ですの。父は文字を読むのが嫌いなものですから」
「シグリット嬢、あれは領地の生命線で」
「存じております」
シグリットは、手を静かに前で組んだ。
「ですから、よーく見て差し上げますわ。五年ぶん、じっくりと」
ギルベルトが何か言いかけて、シグリットが首を傾げる。
「だから、勝手に人を物差しにしないでくださる?」
その声は、広間の端から端まで通った。
「私、測られるのも、測らされるのも大嫌いですの」
気がついたら、私は広間の外の回廊に立っていた。
連れ出したのはシグリットで、私の手を引く力は驚くほど強かった。
「エルナ様、大変でしたね」
「は、はい」
「あなた、不満はおありですか?」
夜風が、北方の毛織りの裾を揺らしている。
私は五年ぶんの空気を吸い込んで、それから正直に言った。
「……そうですね。たっぷりと」
「正直でよろしい」
シグリットが、初めて笑った。
「北は夜が長いですから。いくらでも聞いて差し上げますわ」
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