七日目の音
夏のホラー2026『音』をテーマに短編を描いてみました。
最初の異変は、耳鳴りだった。
高い音だった。
――キィィィィィン。
どこか遠くで、細い金属線を爪で弾いたような音。
それが、ずっと鳴っている。
午前二時十七分。
東京都内の古いアパートの一室で、三浦隆志は目を覚ました。
枕元のスマートフォンを見る。
午前二時十七分。
部屋は静かだった。
エアコンも、冷蔵庫も、止まっている。
それでも耳鳴りは消えなかった。
キィィィィィン。
「……うるさいな」
三浦は枕に顔を埋めた。
四十歳。
広告代理店勤務。
ここ数か月、毎日終電近くまで働いていた。
だから最初は、誰も気にしなかった。
本人も、妻も。
ただの疲労。
ただのストレス。
ただの過労。
そう思っていた。
翌日も耳鳴りはした。
その翌日も。
四日目になると、三浦は眠れなくなった。
目を閉じると、音が大きくなる。
キィィィィィン。
その奥に、別の音が混じっている。
何かを引きずる音。
……ずる。
……ずる。
そして、ときどき。
女の声がする。
『……たすけて』
五日目。
三浦は会社を休んだ。
六日目。
呼吸が苦しくなった。
胸が突然、早鐘のように鳴った。
救急車を呼ぼうとした。
だが、そのときスマートフォンから音がした。
着信音ではない。
録音された音声でもない。
ただの、
――コン。
という音だった。
三浦は画面を見つめた。
何も表示されていない。
もう一度。
――コン。
壁の向こうからだった。
隣室。
三浦は壁に耳を当てた。
すると、
――コン。
――コン。
――コン。
三回。
その直後。
耳鳴りが、ぴたりと止まった。
静かだった。
三浦は安堵した。
そして、初めて気づいた。
静かすぎる。
自分の呼吸が聞こえない。
心臓の音も聞こえない。
次の瞬間、三浦は床に倒れた。
死亡推定時刻。
午前二時十七分。
死因は急性心不全。
過労死と判断された。
*
その一週間後。
隣の部屋に住んでいた女子大学生が死んだ。
名前は佐伯美咲。
二十一歳。
死因は急性心不全。
彼女にも、持病はなかった。
ただ、死亡する一週間ほど前から、
「耳鳴りがする」
と友人に話していた。
「夜になると、変な音が聞こえるの」
「どんな?」
「……女の人が、泣いてるみたいな音」
友人は冗談だと思った。
美咲は笑って、
「でも、隣の部屋は空き部屋だから変だよね」
と言った。
その部屋は空室だった。
三浦が死んだあと、警察が調べた。
何もなかった。
家具もない。
生活用品もない。
誰かが侵入した形跡もない。
ただ、壁紙の一部が不自然に膨らんでいた。
そして、その部屋の壁の中から、
――三回。
何かを叩くような音が聞こえた。
警察官は、それを配管の音だと判断した。
*
さらに一週間後。
その下の階に住んでいた小学五年生の少年が死んだ。
名前は藤田翔。
死亡する三日前、母親にこう言っていた。
「ママ、夜になると、上から女の人が歩いてくるよ」
「上?」
「うん」
「誰も住んでないでしょ」
「だから怖いんだよ」
母親は笑った。
「夢でも見たんじゃない?」
「違う」
翔は首を横に振った。
「歩いてくるんじゃない」
「じゃあ、何?」
「音だけ」
翔はしばらく黙ったあと、
「足音が、上から降りてくるの」
と言った。
そして最後に、
「一階まで降りてきたら、今度はこっちから聞こえる」
と。
その三日後、翔は死亡した。
死因は不整脈。
その時点で、保健所が動いた。
*
「三人とも、同じ建物です」
保健所の職員である真壁は、調査資料を机の上に並べた。
「死亡間隔が七日ずつ」
「感染症ですか?」
「現時点では何とも。ただ、初期症状に共通点があります」
耳鳴り。
睡眠障害。
呼吸困難。
不整脈。
そして発症から約一週間で死亡。
「普通の感染症にしては、変です」
真壁はそう言った。
「何がです?」
「発症日が違うんです」
資料には三人の名前と日付が並んでいる。
三浦。
七月三日。
佐伯。
七月十日。
藤田。
七月十七日。
まるで、
誰かが一週間ごとに一人ずつ選んでいるようだった。
*
調査は二〇三号室から始まった。
三浦の部屋。
次に二〇四号室。
佐伯の部屋。
そして、その下の一〇四号室。
翔の部屋。
部屋そのものには異常がなかった。
空気。
水。
カビ。
害虫。
放射線。
電磁波。
すべて調べた。
異常なし。
ところが、一つだけ気になることがあった。
建物全体の騒音調査をしているときだった。
真壁の部下が首を傾げた。
「……これ、何ですか?」
「どうした?」
「音です」
「どんな?」
部下は測定器を見つめた。
「一定じゃないんです」
「?」
「三秒ごとに、低周波が入っています」
画面には小さな波形が表示されていた。
――コン。
――コン。
――コン。
一定の間隔。
そして三回。
「配管じゃないのか?」
「調べました。でも、どこから出ているのか分かりません」
真壁は測定器を受け取った。
波形を見る。
そこで妙なことに気づいた。
音がするのは、二〇四号室だけではない。
二〇三号室でも。
一〇四号室でも。
さらに一〇三号室でも。
建物全体に、
同じ音が流れている。
――コン。
――コン。
――コン。
真壁は顔を上げた。
「……この音、誰か聞いたと言ってないか?」
部下は調査記録をめくった。
「一人だけ」
「誰だ?」
「二〇一号室の住人です」
「話を聞こう」
*
二〇一号室の老人は、最初は何も知らないと言った。
しかし真壁が音の話をすると、顔色が変わった。
「……またか」
「また?」
「昔もあったんだ」
老人は小さな声で言った。
「このアパートには、昔、女が住んでいた」
「何年前です?」
「十年くらい前だ」
「名前は?」
「確か……」
老人は記憶を探るように目を細めた。
「篠原……優子」
その名前を聞いた瞬間。
部屋の奥から、
――コン。
と音がした。
老人は黙った。
真壁も黙った。
部下が振り返る。
「今の……」
「聞こえたか?」
「はい」
――コン。
もう一度。
老人は震える手でテレビを消した。
「帰ってくれ」
「しかし――」
「帰れ!」
老人は叫んだ。
「その名前を口にするな!」
*
篠原優子。
当時二十八歳。
このアパートの二〇四号室に住んでいた。
職業は看護師。
恋人がいた。
だが、十年前。
突然、姿を消した。
失踪届は出されていない。
家族との関係が悪く、もともと連絡が少なかったらしい。
管理会社の記録には、
『契約解除』
とだけ残っていた。
理由は、
『本人都合』
だった。
ところが。
真壁が古い資料を調べていると、妙な記録を見つけた。
優子が住んでいた二〇四号室。
その部屋は彼女が退去したあと、一度も正式な入居記録がない。
十年間。
ずっと空室扱いだった。
「おかしい」
真壁は呟いた。
建物の所有者に確認すると、二〇四号室は、
「壁の中から異臭がする」
という理由で何度か修繕している。
だが、原因は分からなかった。
そして、その修繕記録の最後に、
『壁内部より空洞音あり』
という一文があった。
*
二〇四号室の壁を壊すことになった。
壁紙を剥がす。
石膏ボードを外す。
その奥には断熱材。
さらに、その奥。
空洞があった。
作業員がライトを入れた。
「……何かあります」
人の形をしたもの。
黒いビニールに包まれていた。
警察が呼ばれた。
鑑定の結果。
それは人間の遺体だった。
骨と皮膚がほとんど残っていない。
だが、身につけていたネックレスから身元が判明した。
篠原優子。
十年前に失踪した女性だった。
殺人事件として再捜査が始まった。
元交際相手が逮捕された。
彼は取り調べで、
「喧嘩になった」
「殺すつもりはなかった」
と供述した。
そして死体を壁の中に隠した。
誰にも気づかれなかった。
十年間。
その部屋は空室だった。
*
事件が解決した翌日。
真壁は、優子の遺品の中に一つのカセットテープを見つけた。
ラベルには、
『七月三日 午前二時十七分』
と書かれていた。
真壁は眉をひそめた。
優子が死んだ日は、記録上では七月三日。
午前二時十七分。
偶然にも、
三浦が死んだ時刻と同じだった。
古いカセットデッキにテープを入れる。
再生。
ザー……。
しばらく雑音が続く。
そして、
女の声。
『……もし、これを聞いているなら』
真壁は息を止めた。
『私は、もうここにはいません』
かすかな呼吸。
『でも、音だけは残る』
ザー……。
『お願いだから、最後まで聞かないで』
真壁の部下が言った。
「止めますか?」
真壁は答えなかった。
テープから、
小さな音がした。
――コン。
――コン。
――コン。
その直後。
女が泣きながら笑った。
『ねえ』
『聞こえた?』
テープはそこで終わっていた。
*
真壁は、その夜から眠れなくなった。
耳鳴りがする。
高い音。
キィィィィィン。
最初は気にしなかった。
しかし二日目。
呼吸が浅くなった。
三日目。
心臓が突然速くなる。
四日目。
夜中に目が覚めた。
午前二時十七分。
静かな部屋。
真壁は布団の中で目を開けた。
音がする。
隣の部屋から。
――コン。
――コン。
――コン。
真壁は起き上がった。
隣室は空室だった。
スマートフォンを手に取る。
保健所の調査記録を開く。
三浦。
佐伯。
翔。
三人とも、
死亡する前に同じ音を聞いていた。
そして一つだけ共通していた。
最初に耳鳴りを訴えたのは、
全員、
午前二時十七分だった。
真壁の背筋が冷たくなった。
その瞬間。
スマートフォンが震えた。
録音アプリが勝手に起動していた。
画面には、
『新しい録音』
と表示されている。
真壁は指を動かせなかった。
録音時間。
00:00:07。
誰が録音したのか分からない。
再生ボタンだけが表示されている。
真壁は、なぜかそれを押してしまった。
ザー……。
無音。
そして。
――コン。
――コン。
――コン。
女の声がした。
『次は、あなた』
真壁はスマートフォンを床に落とした。
その瞬間。
隣の部屋から、
女のすすり泣きが聞こえた。
壁を見つめる。
壁紙が、ゆっくりと膨らんでいる。
まるで、
向こう側から誰かが押しているように。
ぺたり。
白い手の跡が浮かんだ。
ひとつ。
ふたつ。
三つ。
真壁は後ずさった。
そして壁の向こうから、
今度ははっきりと声がした。
『痛かった』
真壁は耳を塞いだ。
それでも聞こえる。
『ずっと、痛かった』
耳を塞いでも。
目を閉じても。
音は消えない。
なぜなら、
音は外から聞こえているのではなかった。
頭の中で鳴っていた。
心臓の鼓動に合わせて。
――コン。
――コン。
――コン。
*
翌朝。
真壁は自宅で死亡していた。
死因は急性心不全。
発症から死亡まで、
七日間。
机の上には一枚の紙が残されていた。
紙には、震えた字でこう書かれていた。
『音は感染する』
その下に、
『違う』
と書き直されていた。
さらにその下。
『感染ではない』
『聞いた人の中に残る』
最後の一行だけは、何度も何度も書き直されていた。
『聞いてはいけない』
『聞いてはいけない』
『聞いてはいけない』
『聞いてはいけない』
*
篠原優子の事件から、三か月が過ぎた。
事件は解決した。
アパートは取り壊された。
二〇四号室の壁から見つかった遺体も、家族のもとへ帰された。
原因不明の死亡事件については、
「建物内の環境要因によるものではない」
と発表された。
感染症の可能性も否定された。
すべて終わった。
そう思われていた。
*
ある夜。
私はこの事件について調べていた。
古いニュース記事。
死亡者の記録。
保健所の報告書。
篠原優子の失踪事件。
そして、真壁が残した最後の資料。
その中に、一つの音声ファイルがあった。
ファイル名は、
『七月三日 午前二時十七分』
だった。
再生時間。
七秒。
私はしばらく迷った。
再生するべきではないと思った。
それでも。
指が再生ボタンに触れた。
ザー……。
何も聞こえない。
ただの雑音。
そう思った。
そのとき。
――コン。
――コン。
――コン。
私は思わずイヤホンを外した。
静かになった。
ほっとした。
……いや。
違う。
静かではない。
聞こえる。
小さな音が。
すぐ後ろから。
――コン。
私は振り返った。
誰もいない。
もう一度。
――コン。
――コン。
そして、
午前二時十七分。
部屋の中から、
女の声がした。
『ねえ』
『聞こえた?』
その瞬間。
私は気づいた。
耳鳴りがする。
キィィィィィン。
さっきからずっと。
ずっと鳴っていた。
そして今。
その音の奥から、
別の音が聞こえている。
誰かの呼吸。
すぐ隣で、
誰かが息をしている。
ゆっくり。
苦しそうに。
ひゅう。
ひゅう。
ひゅう。
私はイヤホンを床に投げた。
音声ファイルを削除した。
パソコンも壊した。
スマートフォンも捨てた。
それでも。
音は消えなかった。
だから私は、これを書いている。
これが誰かの目に触れることを願って。
そして。
誰にも読まれないことを願って。
もうすぐ七日目になる。
今夜も眠れない。
心臓が、ときどき止まりそうになる。
呼吸が苦しい。
耳鳴りがする。
そして。
さっきから。
部屋の壁を、
誰かが叩いている。
――コン。
――コン。
――コン。
……おかしい。
私は一人暮らしだ。
隣の部屋も空室だ。
だから。
これは隣から聞こえているんじゃない。
私の中から聞こえている。
いや。
違う。
もっと近い。
耳のすぐそば。
誰かが囁いている。
『次は、あなた』
……いや。
違う。
今、聞こえた。
『次は、あなた』
じゃない。
今度は、
『次は、あなたの隣』
だった。
――コン。
――コン。
――コン。
その音を聞いた人が、次に死ぬ。
一週間後に。
だからお願い。
この文章を読んでいるなら、
今すぐ画面を閉じて。
音量を下げて。
イヤホンを外して。
そして、
絶対に、
振り返らないで。
……。
……聞こえた?
今。
あなたの部屋で。
――コン。
――コン。
――コン。
と。
ご一読いただきありがとうございました。
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