用済みですか。では時計の合わせ表を置きます。冬、鐘がずれます
広間には十一の音があった。
ティルザは掌の中の脱進機を握り直し、自分を指す声より先に、十二を待った。暖炉の薪が崩れ、出入りの商人たちの靴底から溶けた雪が石床へ黒い跡をつけていた。
「ケイル。今日限り、時計番の手当は廃する」
ヒュー・マドックは手控えの一行へ定規を当てた。削る箇所はすでに赤で囲われ、脇にはひと月ぶんの額が、広間にいる誰からも読める大きさで記されている。
「毎朝、竜頭を巻く。それだけの仕事に、別の手当を出す理由はない」
オズウィン・ヴィックが壁際で鼻を鳴らした。隣の若い使用人と肘を触れ合わせ、柱時計の竜頭を回す真似をする。
「十四年もやりゃ、巻く手つきにも貫禄がつくってことですか」
「余計なことは言わんでいい」
ヒューはそう制したが、口元までは戻さなかった。広間の端で油の箱を抱えていたエイモス・サッチへ向き直ると、声だけを整えた。
「お待たせして申し訳ありません。納品については、後ほどわたしが確認いたします」
それからティルザを見る声は、また一段ぶん短くなった。
「以後は当番制にする。引き継ぎは今日中に」
掌の中で十二が鳴った。少し欠けた歯が次の歯を送るまでの間も、いつもと同じだった。
「時計は、巻けば動きますでしょう」
ヒューは赤線の上で定規を止めた。オズウィンが今度は声を立て、手控えを覗いていた二人も肩を揺らした。
ティルザは十三を聞いた。脱進機を布へ包み、両手でヒューへ差し出した。
「承知しました」
「話が早くて助かる。奥さまへの報告も簡単で済む」
広間の時計が時を打った。礼拝室の時計より、朝は三つ数えるぶんだけ早い。それを知る者の手当は手控えから消え、知っていることだけが、まだティルザの耳に残った。
* * *
ヒューは時計室へ入るなり、扉の裏に貼られた紙へ指をかけた。広間は朝に二つ戻す、食堂は雨の前に一つ進む、礼拝室は石壁が冷えた朝だけ耳で確かめる。その十四年ぶんのうち、今の季節に使う一枚だった。
「こんなものがあるから、仕事が大層に見える」
糊の乾いた端が裂れ、紙は斜めに剥がれた。ヒューは文字を読まずに二つ折りにし、机の隅へ置いた。
オズウィンは代わりに、太い炭で書いた当番表を廊下の柱へ貼った。月曜は広間、火曜は食堂という部屋の名と、竜頭を回す回数だけが並んでいる。
「これで誰でも回せる」
若い使用人が自分の名を見つけ、右手をくるくる回した。オズウィンはその手を柱へ押しつけ、剥がれかけた紙の端を掌で均した。
「回しすぎて折るなよ。折ったら、おまえの給金じゃ足りねえぞ」
「誰でもできるんでしょう」
「誰でもできるのと、おまえが加減を知らねえのは別だ」
二人の声を背に、ティルザは油差しを持って広間へ戻った。朝の務めはまだ終わっていない。新しい当番表が今日からだろうと明日からだろうと、今日の食堂が四半刻遅れてよい理由にはならなかった。
広間の長針を二つ戻し、食堂の振り子を見て、厩の小時計から埃を払う。礼拝室では戸を閉め、石壁に返る音が一つになるまで数えた。最後に暖炉棚の置時計を広間へ合わせると、屋敷の時は正午の一打へ揃った。
時計室へ戻ると、エイモスが油の箱を机へ置いて待っていた。ヒューから受け取った納品書にはすでに丸印があったが、老人は蓋を開けない。
「こちらの二本は、食堂には薄すぎます。寒に入るまでは厩と広間へ。濃いほうを礼拝室に残してください」
ティルザが瓶を明かりへ透かすと、エイモスはそこで初めて箱を奥へ押した。瓶同士が触れ、低い音を一つ立てた。
「家令どのには、お伝えになりましたか」
「紙は見せた。丸ももらった」
エイモスは裂れた表を見たが、拾わなかった。空いた箱を脇へ抱え、戸口で帽子をかぶる。
「なら、油は奥さんの言った棚に置く」
午後、ティルザは小さな紙を三枚切った。寒に入る週、朝の音が痩せたら、無理に針を進めないこと。それだけを書き、近隣の三家へ帰る荷車に一枚ずつ託した。
「ペンハロウ家からのお知らせですか」
御者の一人が訊いた。ティルザは三枚の宛をもう一度確かめ、紐を結んだ。
「いいえ。時計を傷めぬための言伝です」
日が落ちるまでに、広間、食堂、厩、礼拝室の時計をもう一度回った。どれも同じ時を指していた。最後の一日だからと余計に進めた針はなく、遅らせて残した針もなかった。
* * *
翌朝、ティルザは一番の外出着へ袖を通してから、道具を揃えた。襟の擦れた上着ではあったが、時計室へ入る前に釦をいちばん上まで留め、靴の泥も戸口で落とした。
机の隅には、ヒューが折った表がそのまま残っていた。ティルザは折り目を伸ばし、棚や引き出しからほかの紙を出して、年ごと、部屋ごとに重ねていった。
雨の多かった年には食堂が進み、厩の屋根を葺き替えた年には小時計が二度止まった。マレーナ・ペンハロウが長く客を招いた冬には、広間の時打ちを礼拝室より半呼吸遅らせてある。人が扇を閉じる間、給仕が皿を置く間、石の廊下を音が渡る間も、紙の余白に収まっていた。
ティルザは新しい紙を一枚取り、前日の値を記した。最後の行へ日付を入れ、机の中央に置く。十四年ぶんの合わせ表は、隠した一枚も、破った一枚もなく揃った。
油差しの口を布で拭き、細い針金を添えて棚へ戻した。鍵は磨耗した歯を上にし、いつもの釘へ掛ける。自分で買い足した布まで畳んで置くと、革袋に残ったのは、着替えと昼に食べるはずだった黒パンだけになった。
最初に直した時計は、奥の棚にあった。十四年前、館へ来たティルザが三日かけて音を拾った、小さな真鍮の置時計だった。
掌を外枠へ添える。ひとつ、ふたつと脱進機が鳴り、三つ目を送るところで、指が動かなかった。
窓の外を荷車が通り、車輪が凍った轍を砕いた。時計は四つ目を鳴らし、ティルザの指の下で五つ目を待った。
「十四年、わたくしの時だと思うて合わせておりました」
声は時計室の壁まで届き、そこで消えた。返事をする者はなく、棚の時計だけが五つ目を鳴らした。
ティルザは手を離し、扉を閉めた。鍵は内側ではなく、廊下の釘へ掛けてある。
広間を横切ると、ヒューが納品書を抱えていた。彼はティルザの外出着と革袋を順に見たが、合わせ表が机にあることだけを確かめると頷いた。
「不足があれば呼ぶ」
「全て、置いてまいりました」
「そうか」
ティルザは正面玄関から外へ出た。背後で広間の時計が鳴り、少し遅れて食堂が続き、最後に礼拝室の一打が石壁を抜けた。その朝も、三つとも同じ時だった。
* * *
春が過ぎ、夏が来ても、ペンハロウ家の時計は動いた。オズウィンの当番表には油の染みと指の跡が増え、名前の横に付けた丸は毎朝欠けずに並んだ。
広間が少し進めば、翌朝に巻いた者が長針を戻した。食堂が遅れれば、皿を運ぶ時刻を給仕が鐘に合わせた。礼拝室の一打が庭へ届くころには、先に鳴った時計の音など誰も数えていなかった。
「ほら、変わらん」
ヒューは出入りの者へそう言い、廃した手当の額を手控えの余白に書いた。ひと月、三月、半年と数字は縦に伸びた。
削れたのは手当だけだ、とヒューは思った。
一方、ティルザは近隣の女衆が空けた物置の窓を磨き、借りた机へ白い布を敷いた。最初に持ち込まれたのは、洗濯場で働く女の台所時計だった。次は産室で夜を測る置時計、その次は修道院の廊下で二度鳴って止まる時計だった。
エイモスは夏の終わりに、油を二本持ってきた。代金を受け取る前に、ティルザが修道院の時計へ耳を寄せるのを待ち、蓋を閉めてから瓶を机へ並べた。
「奥さん。おれたちはあの家に売ってたんじゃない。あんたの耳に売ってたんだ」
ティルザは油の色を窓へ透かした。以前ならペンハロウ家の棚に置かれていた濃さだった。
「お代は、わたくしからお支払いします」
「だから持ってきた」
その週、寒に入る週の言伝を受け取った三家から使いが来た。いずれも館を通さず、紙にはティルザ・ケイル宛と書かれている。修道院の時計も、修道院の名で預けられた。
昼になると、女衆がパンと冷めた豆を持って物置へ入ってきた。ティルザが机の脇で立ったまま包みを開くと、一人が足で木箱を寄せた。
「座りな。時計は逃げないよ」
「いま七つ目を数えております」
「じゃ、八つ目で座りな」
八つ目が鳴った。ティルザは木箱へ腰を下ろし、膝に包みを置いた。
* * *
冬の披露の日、ペンハロウ家の広間には、磨かれた食器と新しい絨毯が揃っていた。暖炉には薪が高く組まれ、マレーナは扇を半ば開いて、客へ改装した食堂の話をしていた。
広間の柱時計が時を打った。まだ四分早い。
一打目で話を止めたのは、遠くから来た客だった。二打目で隣の男が懐中時計を出し、三打目には向かいの婦人が同じように蓋を開けた。四分先を指す針と四分手前の小さな針が、暖炉を挟んで向かい合った。
「もう移る時刻でしたかな」
「わたしのほうでは、まだです」
マレーナは扇を開いたまま給仕を見た。給仕は廊下を見て、廊下の先のオズウィンが食堂を指した。
「広間が早いだけでございます。どうぞ、こちらへ」
ヒューは客へ整った声を向けた。客たちは懐中時計をしまわず、その声に従った。
食堂の時計は四分遅れを示したまま、振り子まで止まっていた。給仕の指が椅子の背に触れたきり動かず、客の一人が懐中時計と壁を交互に見た。
「朝は巻いたのか」
ヒューの声が給仕へ落ちた。
「当番はオズウィンです」
「巻きましたよ。いつもの回数、きっちり」
オズウィンは柱に貼った表を持ってきた。回数の横には、今朝の丸が濃くついている。
「なら、なぜ止まる」
「それを俺に言われても」
誰も席へ着かないうちに、礼拝室の鐘が届いた。広間より八分遅く、客たちの懐中時計より四分遅い。石の廊下を渡ってきた音が最後まで鳴り終えると、客の指が一斉に蓋を閉じた。
マレーナも扇を閉じた。要を打つ小さな音だけが、食堂で揃った。
「以前は、どなたが合わせておられたのです」
婦人の一人が訊いた。マレーナはヒューを見ず、止まった時計を見上げた。
「ケイルさんでしょう」
別の客が答えた。その客の懐中時計には、秋にティルザが結んだ灰色の預かり札がまだついていた。
「今朝も、わたしの時計はあの方が見てくださいましたよ」
客たちはそこで互いの顔を見た。ペンハロウ家の時計ではなく、誰がそれを見ていたかを確かめる顔だった。マレーナの扇は閉じたまま、膝の上へ置かれた。
披露が終わった翌朝、食堂の時計がティルザの仕事場へ運ばれてきた。使いの者はペンハロウ家の名を告げ、修理を頼む紙を机へ置いた。
ティルザは布を外した。止まった文字盤を見たときだけ、机の上の脱進機を数えていた指が動かなかった。
使いの者が紙を押し出す。ティルザは一拍遅れて手を戻し、布を元どおり時計へ掛けた。
「お預かり主のお名前が、わたくしの手控えにございません」
「ペンハロウ家の時計です」
「存じております」
紙も時計も、その日のうちに館へ戻った。
* * *
翌週、ペンハロウ家の招待へ届く返事が減った。年明けの会食を知らせる紙からは、ペンハロウ家の名だけが抜けた。理由を書いた者はいなかったが、約束の時刻を二度確かめる客は、あの冬から増えた。
ヒューはエイモスの店先へ出向き、四十年の付き合いを口にした。ティルザへ渡したものと同じ油を求め、代金は倍でもよいと付け足した。
「長くお世話になっております。今後も変わらぬ品をお願いしたい」
エイモスは注文書を畳み、ヒューへ返した。背後の棚には瓶が並んでいたが、箱へ詰めようとはしなかった。
「あれは今年の時計には向かん」
「館には何台あると思っている。必要な量を言ってくれればいい」
「量の話はしてない」
ヒューの指が注文書の折り目を潰した。店を出るまで、エイモスは棚へ背を向けたままだった。
マレーナは初めて時計室へ入った。机の中央には十四年ぶんの合わせ表が積まれ、いちばん上にはティルザが最後の日に記した値がある。横の棚には拭かれた油差しが置かれ、鍵も釘に掛かっていた。
マレーナは一枚ずつ表を読み、冬の頁で手を止めた。広間、食堂、礼拝室。それぞれの進み遅れの脇に、油の濃さと石壁の冷えが、小さな文字で残されている。
その日の午後、マレーナは客の家を自分で回った。玄関先で扇を開かず、時を違えたことだけを詫びた。ティルザの名を言い訳には使わなかった。
館へ戻ると、ヒューを広間へ呼んだ。卓上には家令の鍵束と、館の印が置かれている。
「鍵を」
「奥さま、冬の一度だけで判断なさるのは——」
「鍵を」
ヒューは腰から鍵束を外した。金具が卓へ落ち、マレーナはその上へ手を置く。
「本日で家令の役を解きます。時計の件だけではありません。読まなかった紙と、聞かなかった者の数も、こちらに残っています」
ヒューは館の印へ手を伸ばしかけ、袖口を握った。マレーナは印を箱へ戻し、蓋を閉めた。
以後、オズウィンは時計室の前を通るたび声を落とした。柱の当番表は剥がされず、誰でもできる仕事の丸だけが、その後も増えていった。
* * *
春の初め、ティルザの仕事場には扉がついた。窓際の机には修道院の時計が一つ、壁際の棚には近隣の三家から預かった時計が一つずつ並び、どの札にも預け主の名と並んで、受取人ティルザ・ケイルと書かれていた。
女衆は朝の仕事を終えると、鍋を持って集まった。木箱ではなく椅子が四つあり、一つぶんの場所がティルザのために空いている。
「ティルザ、今日は冷める前においで」
「あと三つです」
「昨日も三つって言って、十まで数えたじゃないか」
「昨日の三つ目は、少々長うございました」
椀へ豆のスープが注がれた。湯気が時計油の匂いを押しやり、ティルザは両手で椀を包んだ。時計室で立ったままかじった黒パンより、豆一粒ぶんずつ遅い朝だった。
戸を叩く音がした。女衆の一人が開けると、外套を着たヒューが立っていた。
家令の鍵束は腰になかった。手にはペンハロウ家の封をした紙を持ち、外套の肩には解けかけた雪が残っている。
「ケイル。話がある」
ティルザは椀を机へ置いた。女衆は席を立たず、鍋の蓋を少しずらして湯気を逃がした。
「伺います、家令どの」
呼ばれた肩書へ、ヒューの指が紙の端を折った。彼は封を切らず、条件から並べた。
「戻るなら、以前の手当は出す。時計番の名も戻す。助手を一人つけてもいい。日々の当番はこちらで用意するから、おまえは冬の調整だけ見ればいい」
ティルザは机の上の脱進機へ手を置いた。修道院から預かった時計のもので、朝のうちに音を確かめる約束になっている。
「奥さまも、館の時を戻したいとお考えだ。十四年いた場所だ。おまえにとっても、悪い話ではないだろう」
一つ目が鳴った。ヒューは封書を机へ置こうとしたが、灰色の預かり札が並ぶ場所しか空いていなかった。
「手当の額は、まだ相談できる。食事も使用人の食堂で——」
二つ目。三つ目。
ティルザは最後の一音まで数え、脱進機を白い布へ戻した。椀を机の端へ寄せ、ヒューが置けなかった封書を両手で押し返した。
「時計は、巻けば動きますでしょう」
戸を閉めると、鍋の蓋が小さく鳴った。女衆の一人が、冷めかけた椀をティルザの前へ戻す。
「豆は、温め直せばいいかね」
「こちらは、そうしてくださいませ」
ティルザは椀を両手で包み、空けられていた席へ座った。机の上で、ティルザ・ケイルの名に預けられた時計の脱進機が、次の一音を刻んだ。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。




