新しい生活
「――ぐちゃん…めぐちゃん!」
「んっ……えっ…あれ?」
「起きて。着いたわよ」
「うん…」
いつの間にか寝ちゃってたんだ…。着いたってことはここはもうフランスなんだな。
飛行機を降りてロビーに行くとそこは日本の景色じゃなかった。日本人はちらほら見るもののもう別世界だった。
「ここが…」
「これから私たちが暮らす国だよ」
周りの人が話している言葉がわからない。周りに書いてある文字も読めない。つくづく勉強してなかった自分を恨んだ。
やっていけるのかな、私。もうくじけそうだ。
「恵、疲れてるとは思うが今から移動するからね」
それからタクシーでしばらく走り、一軒の家の前にたどり着いた。
「ここが私たちが暮らす家だよ」
外観はシンプルな四角い家。両開きの玄関を開けて中に入ると、まずリビングでソファーが並んでいた。ダイニングにはテーブルとイスが並べられていて小さな出窓がいくつか並んでいた。
部屋自体はそれほど広くなくて中央付近に螺旋階段が二階に続いていた。
階段を上るとお世辞にも広いとは言えない廊下に並んで部屋が二つ。突き当たりにもう一部屋あった。
並んだ部屋は寝室。ベッドがあってそれが部屋のほとんどを埋めていた。
奥の部屋にはテーブルと本棚があった。それに大きい出窓があって白いカーテンがかけられている。昼間は柔らかい光が部屋を照らしてくれそうだった。
家の中は全体的に白を基調としていて床は板張り。壁にはところどころ生木で補強がしてあった。二階の部屋は屋根裏部屋を思わせるように天井は三角になっていた。
照明は大体が白熱電球で部屋を暖かい光で満たしていた。
「恵は二階の一室を使いなさい。明日にはフルートの先生が見えられるから今日はゆっくり休むんだよ」
言われた通り二階の部屋に荷物を持って行く。まずはこの部屋を好きな水色に染めることから始めよう。物はそんなにいらないし。
私は荷物を置いて、備え付けてあった木製の机に誠二くんとの写真を飾った。
「誠二くん…」
自然に呟いていた。
取り出した荷物は写真だけだった。
落ち着いたらすぐにでも手紙を書こう。今からどんな生活になるんだろうな。
飛行機の中で結構眠ってたはずなのに、その日はいつの間にか寝てしまっていた。
「ん…」
翌日、予想外に早く起きてしまった。昨日よく眠っていたせいだろうな。
そしていつもと違うベッドで目が覚めて改めて思った。日本じゃないんだなって。もう、誠二くんはいないんだなって。
当たり前のように学校に通って、当たり前のように友達に挨拶して…。そんな当たり前だった日常はもう来ないんだ。これからは一人で頑張っていかないといけない。
目が覚めて頭も冴えているのに、全く動く気がしなかった。昨日はカーテンも閉めずに寝たから、朝の光が部屋を明るく照らしていた。
ベッドに横になったまま窓の外をぼーっと眺める。時折、小鳥たちが飛んでいり姿が見えて少し羨ましくなった。
どれくらい外を眺めていたんだろう。外の光はだんだん眩しく感じる程に明るくなっていた。賑やかな声が外から聞こえて、街が動き出したことを感じる。
「めぐちゃーん!そろそろ起きなさーい!」
お母さんが部屋のドアをノックした。
「…………」
なにか、声を出すのもおっくうだった。何もする気になれない。本当になにも。顔を洗うことだって、朝食を食べることだって、起き上がるのだって。
「めぐちゃーーん!」
お母さんが部屋に入ってきた。それでも動く気になれなかった。
「もう、起きてるなら返事くらいしなさい」
「おはよう…」
「もうすぐ先生が来るからね。顔くらいは洗っておきなさい」
「うん…」
私は渋々顔を洗いに行く。水は冷たくて全身に身震いをした。
今はもうお昼くらいかな。誠二くんは部活が終わってもう家に着いたくらいかな。
よく寝てたおかげで時差ボケにはなっていなかった。
「恵。おはよう。髪の毛ボサボサだぞ」
お父さんのその言葉に少しイラッときた。
「わかってるよ!うるさいなぁ」
私はもう一度洗面所に戻り髪の毛を整えた。自分でもわかってた。早く慣れなきゃって。生活にじゃなくて、誠二くんがいないことに。
髪の毛を直してリビングに戻る。
「恵、今連絡があったよ。もうすぐ着くそうだ」
「うん…」
「慣れるのに時間がかかるだろうけど、しっかりやるんだよ」
わかってることをいちいち言われてイラッときてしまう。お父さんだから?こんな時期だから?
ドンッ、ドンッ。
不意に玄関をノックする音が聞こえた。
「いらっしゃったみあいだ。恵はそこで待ってなさい」
どうやらフルートの先生が来たみたい。
ちゃんと挨拶出来るかな?い、今になって緊張してきちゃった。
少し待っているとお父さんと話しながら男の人が入ってきた。
年齢はお父さんより少し年上に見える。髪の毛はショートの黒で背が高く、さすがに鼻も高い。スーツを身にまとってダンディーなおじさんって感じだった。
「恵、この方がお世話をしてくれる”ジャン・ド・バルル”さんだ」
お父さんが私に先生を紹介してくれた。
「ボ、ボボ、ボンジュール」
とにかく挨拶しなきゃと思って出た精一杯の言葉。
「はっはっはっ、話しに聞いていた通りかわいらしいお嬢さんだ。こんにちは、メグミ。私はジャン・ド・バルル。ジャンと呼んでくれたらいい」
「……ふぇ?」
返ってきた言葉は流暢な日本語だった。当然、言葉なんかわからないと思っていた私はあっけらかんとしてしまったんだ。
「驚かせたかな?僕は昔、日本に長く滞在していたことがあってね。しかし、君のお父さんには話していたはずなんだが…」
お父さん…。
「い、いや、はははっ、びっくりさせたくてな」
私はお父さんを睨んだ。
「こんにちは、ジャン。お元気だったかしら」
「いやぁ、久しぶりだね。かわいいお嬢さんじゃないか」
「あらやだ。相変わらずお上手ね。私もまだまだいけるのかしら」
うん?
「も、もちろんメグミのことなんだけどね」
「分かってるわよー。ジャンたら冗談が下手になったのね」
な、なんだろう。日本じゃないからキャラが変わってるのかな。
「では僕は失礼するよ。今日はメグミの顔を見に来ただけだからね。明日にまた」
「わざわざすみません。恵のことはよろしくお願いします」
ぺこっ。
私もお辞儀をしてジャンを見送った。ジャンはお父さんの言葉ににっこり笑って帰って行った。
優しそうなおじさんだった。日本語も通じるし、何の心配もなさそうだった。
「どうだい恵。安心しただろう。どうだ、これからお父さんとフランスの街でも見に行かないか?」
「いい。まだ疲れてるから」
「そ、そうか。じゃあまだ休んでなさい」
「うん」
お父さんなりに気を使ってくれたのかもしれないけど、とても街を歩くとかそういう気分にはなれなかった。
フランスの地に立ち、新しい出会いがあったものの、私の気持ちは日本に置き去りにされたままだった。
誠二くんと笑い合って話すこと、みんなと笑い合って話すこと。それが今でも目の前に起こりそうな…そんなありえないことにも期待してしまっていた。
何気ない会話が愛しく思える。もう、次にいつ話せるかわからない。どんなに手を伸ばしても私の手が届く距離に誠二くんはいない。
部屋に戻って机に伏せる。慣れない質感の机とイスの感触が現実の辛さを突きつける。
まだ写真以外は何も置いてない机。ぼんやりと写真を眺めていると、誠二くんの顔がぼやけているのがわかった。
泣いたってどうしようもない。そんなことわかってるのに涙はとめどなく流れていた。顔を支えていた左腕の袖が濡れて冷たさを感じる。
そこでようやく涙は止まり、窓の外の見慣れない景色に目を向けた。
フランスでの家は大通りに面していて、人通りが多い。並木道の木の木の葉がちょうど窓の高さにあった。部屋の小さな出窓に乗り出し外を見る。日本とは違う道路、人、車、建物、全てが違った。
「帰りたい…」
ここでの生活もきっと楽しいことが待っているんだと思う。だけど…。
「めぐちゃーん」
お母さんが私を呼びながら部屋に入ってきた。
「夕食はまだ食材買ってないから外で食べましょう。何がいい?」
「…何でもいい」
私は部屋の入り口を振り向くことなく答えた。
「明日からレッスンだからね。元気出して」
それだけ言ってお母さんは部屋を出て行った。まだ荷物の中から出してもいないフルート。しばらく一人になりたかった。
それからもぼーっと外を眺めていた。
夕食は近くのレストラン。地元では有名なんだろうか、中は多くの人で賑わっていた。ダイニングバーのような店で、丸いテーブルを三人で囲んだ。日本人が珍しいのか周りの視線がこちらに向けられていて落ち着かなかった。
「うまい!なぁ!恵!」
お父さんが料理を口に運んで同意を求めてくる。
「うん…」
料理は本当においしかった。少し豪華なパスタとステーキとサラダとパン。雑誌で紹介されるような洒落たフランス料理じゃないけれど絶品だったんだ。
誠二くんにはこのパスタは食べきれないな。ステーキの添え物も私が食べるんだろうなぁ。
そうだった、フランス料理勉強しなくちゃ。誠二くんが食べれるようにアレンジもしなくちゃね。でもやっぱりお肉料理かな。誠二くん香草とか大丈夫だったっけ?
「めぐちゃん、何にこにこしてるの?そんなにおいしい?」
「えっ!?あっ…うん、おいしい…」
気がつくと誠二くんのこと…か。今頃誠二くんは夢の中かな。
……会いたいな…。
食事を終えて家に帰るとまた部屋に引きこもった。そしてまた写真を眺める。
「…っはぁーー……」
明日からはレッスンが始まるんだよね。…憂鬱。いい人そうな先生だったけど、気分じゃないんだよね。そんな事言ってたら怒られるんだろうな。
吹奏楽部のみんなは練習頑張ってるのかな?梓ちゃんと舞ちゃんは大丈夫かな?誠二くんだって…。
私がいなくなって…どうなったんだろう。変わらずにやっていけてるかな?…それはそれで寂しいかも。
昔は一人でフルート吹いてても楽しかったのに、今は全然だ…。みんながいないからかな。
今からどれだけうまくなって周りの人に認められたとしても、そんなに嬉しくない。そんな気がする。これから変わっていくのかな?
…いろいろ考えてもどうしようもないか。なるようになる…かな。もう来ちゃったんだし。
でも…。
どうしても日本への未練は隠せない。
こうやって、ベッドの上で目を閉じると誠二くんの愛らしい笑顔が浮かんでくる。鮮明に、まるで目の前で私に微笑みかけているように。だけど、目を開けるとそこにはまだ見慣れない天井があった。するとまた寂しさが襲ってくる。
「誠二くん…!」
思わず毛布を握りしめてしまう。
二人の約束に向かって頑張ろうって思ってるのに、やっぱりあなたがそばにいてくれないと…。
「何も……出来ないよ…」
誠二くんに会える日を夢見てその日は眠りについた。
翌日からジャンによるレッスンが始まることになる。
このジャンが後々私に転機をくれるきっかけを与えてくれるなんて、今は思いもしなかった。
・・・・・・
「おはようメグミ。昨日はゆっくり眠れたかな?」
「おはようございます。ジャン」