推理ゲームの宿敵とバディになりました~悪役侯爵と秘密の謎解き契約
その日の夕方、榎本玲奈は最寄駅からアパートまでの道を鼻歌まじりに歩いていた。
ちょうど今は帰宅ラッシュ時間。
行き交う人波の中、信号待ちのたびに交差点では人が溜まる。玲奈も足を止めると、イヤホンを耳に差してスマホの画面に目を落とした。
「あ、配信されてる!」
ホーム画面に自動インストールされたアイコンを見つけて、迷わずタップする。
新作アプリ《ロンドン幻想譚》――舞台は十九世紀のヴィクトリア朝ロンドン。
天才探偵と共に事件を解決しながら、攻略対象との恋も育むという乙女系推理ゲーム。SNSの広告で見かけたときから気になっていて、リリース日を楽しみにしていたのだ。
『ようこそ、ミステリーと幻想の都ロンドンへ』
霧に包まれた街並みと遠景に見えるビッグベン。
その後にはゲームの人物紹介が始まる。
ゲームのメインヒーローである探偵ウィリアム・ハント、その助手のオリバー・マイルズ。ロンドン警視庁のリヴィングストン警部……次々と流れるオープニング映像に自然と顔がにやける。
「ふふ、やっぱりこの雰囲気最高だなぁ~」
何を隠そう、玲奈は生粋のミステリーオタクだ。
今の大学で英文学科を専攻したのも、大好きな英国ミステリーを思う存分研究したかったからに他ならない。
そんな玲奈のオタク心をくすぐる理想の世界観に、テンションが上がる。
今日はバイトもなく、明日の一限は休講。ゲームをやり込む時間はたっぷりあるのだが、玲奈は待ちきれずに画面のスタートボタンを押した。
その瞬間―――けたたましいクラクションの音が、耳に飛び込んできた。
顔を上げると、交差点に突っ込んでくる一台のトラック。
眩しいハイビーム、誰かの叫び声。迫ってくる巨大な影に足が竦んで、まるで時が止まったように体が動かない。
そして最後に見たのは、真っ白な光だけだった。
◇◆◇
柔らかなシーツの感触が、沈んでいた玲奈の意識をゆるりと押し上げた。
重い目蓋をおそるおそると開けてみる。
カーテン越しに差し込む光が部屋に淡い光と影をつくり、どこかで時計の針が規則正しく律動する音が聞こえた。
(あれ、私どうなったんだっけ……?)
頭の奥がかすかに重いが、不思議と痛みはない。
寝起きのぼんやりとした思考の中で、自分の記憶を辿ってみる。
大学からの帰り道に信号待ちしていた光景。鳴り響くクラクション、眩しいライト、自分にめがけて突っ込んでくるトラック。
その先からは、ぷっつりと記憶が途切れている。
あの事故で一命を取り留めたなんて、にわかに信じられない。けれど実際のところ体のどこも痛くないし、見たところケガをした様子もなかった。
「……っていうか、ここはどこ?」
上体を起こすと、そこは病院でも見慣れた自室でもなかった。
天井には真鍮のシャンデリア、濃紺色のビロードに覆われた天蓋。広すぎるベッドにはクラシカルな刺繍が施された寝具が掛けられていて、シルクのような手触りがする。
目に入ってくるものすべてが、異国の香りを漂わせていた。まるで、美術館の展示室か何かに迷い込んだような――
「ようやく目覚めたか」
不意に、隣りから届いた低い声。
まさか自分以外の人間がいると思わず声が出そうになった瞬間。
(え……っ、)
玲奈は文字通り目を丸くした。
そこにいたのは、一人の男性だった。
彫像のように寸分の狂いなく整った顔立ち。その秀麗な顔には、印象的な翠色の瞳が仄昏く輝いている。
その顔に玲奈は見覚えがあった。
「ア、アレクシス・マキシミリアン………?」
玲奈は思わず、その名前を口にしていた。
グレンフォード侯爵アレクシス・マキシミリアン。
《ロンドン幻想譚》に登場する、天才探偵ウィリアム・ハントの最大の宿敵。侯爵貴族でありながら『死の貿易商』と恐れられ、陰からロンドンを支配しようと暗躍するヴィラン中のヴィラン。
シャーロック・ホームズでいうところのモリアーティ教授のような危険人物として、ゲームでは宿敵として立ちはだかる。
そんな画面越しに見たラスボスが今――目の前で息づいている。
(そんなことってある!?っていうか、何でこの人と私が同じベッドにいるわけ!?)
これは絶対に夢だ、と玲奈は思う。
事故に遭って打ちどころが悪くて、おかしな夢か幻覚を見ているに違いない。けれど否定するにはあまりにも、すべてがリアルで生々しい。
「な、ど、どうしてここに……」
「どうしても何も、ここは我がグレンフォード侯爵邸の寝室だ。私の、な」
薄く微笑む男を前に、玲奈は信じられない一つの可能性に思い至った。
これは夢でも幻覚でもなく。
ここは推理ゲーム《ロンドン幻想譚》の世界そのものなのではないか。
(ありえない、そんなマンガみたいなことが……)
そのとき、枕元に一枚のカードが落ちていることに気づく。
玲奈はおそるおそる手に取った。
『ようこそ《ロンドン幻想譚》の世界へ。待ち受ける事件をクリアし真相に辿りついてください。Have a nice dead……or day!』
玲奈の指先が震えた。
これは事故に巻き込まれる直前、ゲーム開始画面で見たものと同じだったから。
(嘘でしょ?私、本当にゲームの世界に飛ばされちゃったの……!?)
よりによって攻略対象外かつ――最も危険な男の元に。
「しかし、女性が紳士のベッドに夜這いとはなかなか大胆だな」
この世界で最も危険とされる侯爵は、翠の瞳と細めた。
「この国では見ない風貌だが……東洋人か?」
「そうです……」
「それだけか?色素は薄いが、どこかの血が混じっている」
「それは、祖母がイギリス人なので」
これは本当のことだ。
二年前に亡くなった父方の祖母はイギリス人で、玲奈はクォーターである。玲奈が英国文化やミステリーにハマったのも祖母の影響だった。
(中学生のころ、誕生日にホームズ全集の原書をプレゼントしてくれた。あれがきっかけだったんだよね…)
「なるほど、混血か。面白い」
低い声でそう呟くと、珍しい鉱石でも観察するような眼差しで玲奈の瞳を覗き込んだ。そうだった――アレクシス・マキシミリアンは貿易商だが、裏では違法な取引もしているという設定があった気がする。
(どうしよう、もしかして私売り飛ばされる……!?)
混乱する玲奈をよそに、アレクシスはその頬に手を伸ばす。
ひやりとした感触に、背筋がぞわりと震えた。
「どうやってこの屋敷に入り込んだ?変わった身なりといい、ただの娼婦には見えないが」
「これは私の意思ではなくてですね……?言うなれば事故というか神様の手違いというか……っ!」
「つまり誰かに私を篭絡するよう指示されて、拙い色じかけに出たと?」
「断 じ て 違 い ま す !!」
驚くくらいに話が嚙み合わないし、通じない。
ただ、アレクシスの反応はもっともだった。自分のベッドに見知らぬ女が眠りこけていたら誰だって怪しむ。叩き出されていないだけ、まだマシな扱いだ。紳士を自称するだけのことはある。
とはいえ、謂れのない疑いを向けられる側としてはたまったものではないわけで、どうしたものかと玲奈は頭を抱えそうになった。
この間にも、アレクシスは玲奈の襟元を興味深そうに指先でもてあそんでいる。
本当にここがゲームの世界なら、時代は十九世紀のロンドン。ゆえに、見慣れない衣服が珍しいのだろうが――その仕草すら優雅で、どこか危うい。
(どうしよう……)
男の首筋にかかる髪がさらりと揺れるだけで、部屋の温度を変えてしまう。
それほどに、この男の持つ存在感は支配的だった。
このままアレクシスの纏う雰囲気に吞まれそうになったとき。
「アレクシス様、坊ちゃん!ここをお開けください!」
激しくドアをノックする音と、年配の女性の叫び声がした。
アレクシスはわずかに眉を寄せ「ここで待っていろ」と言い残すと、ベッドから軽やかに降りた。
「どうしたルイーズ、騒がしいな」
「大変なんですよ!坊ちゃんの懐中時計が無くなりまして…!」
アレクシスは静かに息をつき「詳細を聞こう」とだけ言って、部屋を出ていった。
扉が閉まり、静寂が戻る。
取り残されたベッドの上で、玲奈は緊張で強張った体の力を抜いて呼吸を整えた。
(なんか分かんないけど、助かった……)
ほっとしたのも束の間、玲奈の目の端で何かがチカッと光った。
まるで空中に浮かぶように、視界に青いシステム文字が現れたのだ。
『Case1:紛失した懐中時計』
その文字は、ものの十秒ほどで消えてしまった。
呆然としながらも、あることを思い立って慌てて枕元を探る。
もう一度カードに書かれた文面に目を走らせて、玲奈は息をのんだ。
『待ち受ける事件をクリアし真相に辿りついてください』
「まさか、この世界で起きた事件を解かなきゃ帰れないってこと?」
(いや“dead”って……失敗したら死ぬの?私が?それとも……他の誰かが?)
完全にゲームの世界に入り込んでしまった。信じられない展開の最中に放り込まれながらも、自分の内から何かが騒ぎ出している。
ミステリーオタクとしての血が、こんな非現実的な局面でも反応しているのだと笑い出したくなった。
(……望むところよ。そういうことならまずは情報収集っと!)
アレクシスにはここにいろと言われたけれど、じっとしていたって事件は解決できない。
ベッドから降りて扉をそっと押し開ける。廊下に出ると、書斎のほうから声が聞こえた。どうやらそこが懐中時計が紛失した現場のようだ。
書斎にはアレクシスとルイーズ、そして執事の三人がいる。玲奈は彼らに気づかれないよう、柱の陰に身を潜めた。
「私は昨夜もこの引き出しに入れた。他に鍵を持っているのはお前だな」
「左様でございます、旦那様」
執事の男性が恭しく答えた。件の懐中時計は毎朝執事が磨いているが、スペアキーで執務机の引き出しを開けると懐中時計が無くなっていたらしい。
「今朝書斎の掃除をしたのは?」
「メイドのエミリーです」
「ならば一番疑わしいのはその者だな。そのメイドはどうしてる」
アレクシスの問いに、執事が目線を落とす。
「今は使用人部屋に下がらせております」
「失せ物が出てくるまで仕事はさせるな。昼までに見つからなければ警察に突き出せ」
一切の情が削ぎ落された、淡々とした声だった。
「けれど坊ちゃん、あのエミリーがまさかそんなはずは」
「統計上、こういったケースでの犯人は大抵使用人だ。外部からの侵入なら金品が狙われるが時計だけというのはおかしい。盗難に見せかけた別目的の可能性もある」
ルイーズが言い募るも、アレクシスは取り付く島もなく「持ち場に戻れ」と言い残して書斎を後にした。
玲奈は耳にした会話を記憶に留めながら、首を傾げた。
本当にそのメイドが盗んだのだろうか。この屋敷にどれだけの使用人がいるのか分からないが、引き出しのスペアキーの存在を知っていれば誰でも犯行可能なように思える。
昼まではあと四時間もない。そこがタイムリミットだ。
玲奈は三人が書斎から出たことを確認してから、中へ入った。
書斎には一流と思われる調度品が配置されている。壁一面の本棚や、暖炉、キャビネットの上などを順に見て回るが、手がかりになりそうなものは見つからない。
「そう簡単にはいかないか…」
(こういうとき、シャーロック・ホームズならどうするんだろうなぁ)
本で読んだ探偵たちの活躍を思い浮かべながらテーブルクロスをめくって下を覗き込んでみると、絨毯が汚れていることに気がついた。一応掃除はしたのだろうが、完全には取り切れていない、そんな状態だった。
(なんだろう、埃じゃないような?)
指でなぞってみると、細かな灰が付着した。煙草の灰にしては広範囲すぎる。ということは暖炉の灰だろうか。
これがどう手がかりになるのかは分からないが、まずは一つ収穫だ。
玲奈は屋敷の誰かと鉢合わせしないよう、慎重に様子を窺ってから書斎から出る。そして廊下を進むと、角を曲がった先で床を磨いている若いメイドを見つけた。
「っ、あなたは……?」
玲奈は『屋敷に招待されたアレクシスの友人』だと名乗った。
もちろん、この場を切り抜けるための出まかせである。当然客人の予定など聞いていないメイドは、明らかに困惑の表情を浮かべた。
「旦那様のご友人、ですか?」
「ええ。えっと、あなたがメイドのエミリーさん?」
これ以上深く追及されないよう先手を打つと、メイドはびくりと肩を震わせた。
「違います。私はケイトといって、エミリーさんは私の先輩です」
「そうなんですね。実はアレクシスさんの懐中時計のことなんだけど、」
「エミリーさんは犯人じゃありません!」
突然の大声にぎょっとする。ここに自分がいると他の人にバレたら一大事だ。慌ててケイトの腕を取ると、廊下の端へと引っ張る。
「エミリーさんは新人の私にすごく優しくしてくれて、責任感も強くて……だから盗みなんてっ」
「うん。彼女の疑いを晴らすためにも協力してもらえる?」
今にも泣きださんばかりのケイトは、その言葉に少しだけ信頼を置いたように頷いた。
「ここのお屋敷にはどれだけの人が働いているの?」
「執事のジェラルドさんと家政婦のルイーズさん……ハウスメイドは私とエミリーさんの二人です」
この規模の邸宅にしては少ない気がしたが、なかなかメイドが長続きしないらしい。
あとは料理人が二人と御者が一人で、合計七人。
ただ、料理人や御者が書斎に出入りするのは不自然で、もし見つかった場合のリスクが高い。となると、容疑者は前述の四人に絞られそうだ。
「アレクシスさんの懐中時計って見たことある?」
「いいえ、私はお屋敷に来てまだ二週間で。最近一人で持ち場を任されるようになったばかりなので」
「書斎を掃除したことは?」
「……ありません」
そのとき、玲奈はあることに気がついた。
「あと一つだけ教えて。今日はどんな仕事をしたの?」
「えっと……一階の大居間と二階の廊下の床を拭いてから、窓を磨いて……」
玲奈はつい口を挟みそうになるのを堪えて、他には?と続きを促す。
「あ、肖像画が少し傾いていたので、先ほど直しました」
「肖像画?」
玲奈の頭に、古典推理のセオリーが掠めた。
「ありがとう、すごく参考になったわ」
◇◆◇
グレンフォード侯爵邸はバッキンガム宮殿の南西、ロンドンでも指折りの高級邸宅街にある。大都市の中心でありながら喧騒とは無縁で、閑静な空気に包まれた地区だ。
マキシミリアン家は『死の貿易商』の異名の通り、貿易業と外貨獲得で巨万の財を成した富豪である。
だが、この時代の成金趣味にありがちな、青磁の大壺や屏風といった東洋崇拝の片鱗は見られない。代わりに目を惹くのは、計算しつくされた黄金比で構成された居住空間と、洗練された調度品の数々。
それは、主であるアレクシスの気質と、美意識の高さの表れにも感じられた。
(本当に、想像していたヴィクトリア朝のお屋敷そのままだ……)
磨き上げられたマホガニーの手すりに触れながら、玲奈は人の気配に注意しつつ階段を下りる。
メイドのケイトが直したという、肖像画が飾られた場所へと向かうためだ。
「これだ……」
一階の応接室前の壁には、古い肖像画が二枚並んでいた。
左側にあるのが、凛とした涼しげな目をした男性。面差しはアレクシスによく似ているが、もう少し歳を重ねて見える――彼の父親だろうか。
その隣りに飾られたもう一枚には、女性と幼い少年の姿が描かれたもの。この少年がアレクシスなのかもしれない、と玲奈は思った。ゲームの人物紹介では、アレクシスは天涯孤独とあった。とすると、両親はすでにこの世を去っているのかもしれない。
(この屋敷にも、昔は家族の笑い声があったのかな)
そんな想像をかき消すように、首を振った。
今はそんな詮索をしている場合ではない。
もし自分が想像した通りなら、あれはここにあるはずだ。
玲奈は意を決して男性の肖像画の前に立った。そして両手で額縁の端を支えてぐっと持ち上げると、その拍子に絵が外れる。
背面を覗くと、壁にはこぶし一つ分ほどの穴が開いていた。
その中で金属の光がかすかに煌めいている。
「……あった!」
穴に手を入れて掴んだのは、金の懐中時計。
表面には細やかな装飾が彫り込まれ、蓋には侯爵家を示す紋章が刻まれている。どう見ても高価な代物だった。
ケイトが「肖像画が傾いていたので直した」と言うのを聞いて、よぎったのだ。
以前読んだ小説にあった、壁の穴に宝石を入れて絵画で覆い隠すという古典的な細工。隠されたものは違えど手法は同じだ。
達成感と自分の推理が合っていたことに、顔が緩みかけたその瞬間。
「そこで何をしている?」
背後から、冷たい声が落ちてきた。
それだけで周囲の温度が一気に下がった気がする。
振り向きたくない。けれど、そうせずにはいられない声音だった。
おそるおそる振り返ると、深翠の瞳が剃刀のような鋭さをもって光っている。
「部屋にいろ、と言ったのを聞いていなかったのか?」
(……あ、やばいかも)
反射的に懐中時計を握りしめたまま固まる。
「……聞いていました」
「ならば、君の耳は飾りというわけか」
大いなる皮肉を含んだ声は低く静かで、それゆえに恐ろしい。その視線に射貫かれながらも、玲奈はかろうじて言葉を絞り出した。
「見つけました、懐中時計です」
その言葉に、わずかに眉根が動いた。
「……どうやってこれを?」
玲奈の手から取り上げると、探るような興味の色が宿る。
玲奈は口ごもった。たまたま、というのはどう考えても不自然だ。
普通の思考回路なら、絵画を外してその裏を確認したりしない。何より、この底が知れない男にそんな言い訳が通用するとは思えない。
「ちょっと聞き込みをしまして……勝手にお屋敷内をうろついたことは謝ります」
しばし沈黙が流れた。
アレクシスの目がわずかに細められる。
「ということは、犯人の目星もついているんじゃないか?」
(やっぱり、そうきますよね)
「それは……分かりません」
「ならば例のメイドを引き渡すしかないな」
「失せ物が見つかったのですから、必要ないのでは?」
アレクシスは、書斎でこう言っていた。
昼までに見つからなければ警察に突き出せと。
その懐中時計が見つかったということは――玲奈の言わんとすることを理解したアレクシスは、口の端を上げた。
「立ち聞きとはいい趣味をしている」
「この耳は飾りではありませんので」
つい口が滑ってしまった。
けれど、エミリーが捕まるのは阻止しなければいけない。なんとしても。
「……なるほど。なかなか面白い」
手の中で懐中時計をもてあそびながら、アレクシスはゆるやかに微笑んだ。その唇の端に意味深な翳がさす。ものすごく、嫌な予感がする。
「そういうことなら――代わりに君を引き渡すとしよう」
(……はっ!?)
「君はこの屋敷に侵入し、書斎から懐中時計を盗んだ」
「ちょ、ちょっと待ってください!?なんで私が、」
「それをごまかすために私の寝室へ忍び込み、娼婦のふりをして既成事実を作ろうとした。だが良心の呵責に耐えきれず自白した――この筋書きなら、すべての辻褄が合う」
背筋に冷たいものが落ちた。
「違います……っ、私は盗んでいません!」
玲奈の抗議を無視して、アレクシスが一歩距離を詰める。
逃げようにも、背後には絵画のかかる壁。これ以上どこにも下がれない。
「それをどう証明する?」
やっていないことの証明、それは悪魔の証明だ。そのことをよく分かっていて、この男は迫っているのだ。
無意識に唇を噛む玲奈に、アレクシスは酷薄な笑みを浮かべる。
その表情は、獲物を追い詰める捕食者のそれだった。
「では取引をしよう。君の身柄は私が預かる――私の婚約者として」
玲奈は耳を疑った。
初めに浮かんだのは、裏があるという確信だ。さっきまで警察に突き出すと言っていたのが一転、今度は婚約者だなんて飛躍しすぎている。
「何言ってるんですか!?そんな提案お断りします!」
「どうやら君は貞操観念にも疎いらしい。未婚の男女が夜を共にしたと知れれば、どう見られると思う?前科持ちで傷物の女が行く着く先はイーストエンドの花街しかないぞ」
何を言い出すのかこの人は。傷物もなにも、自分たちの間には何もない。
ただ、飛ばされた先がこの男のベッドだったというだけで。
「夜を共にって、あれは私の意思ではなくて!」
「ここでは君の意思など関係ない。他人がどう思うかだ」
その声は、断罪を告げる審問官のようだった。理屈と常識に絡め取られていく感覚。気がつけば玲奈は、逃げ場のない論理の檻に閉じ込められていた。
アレクシスは男性にしては細く長い指を、玲奈の顎にあてがう。
「さてどうする?傷物扱いのまま警察に捕まるか、それとも私の婚約者となるか」
愉悦を含んだ笑みは、慈悲よりも支配が滲んでいた。
本当なら突っぱねたい。
けれど、榎本玲奈という存在は、この場では侯爵邸への不法侵入者だ。
ここがゲームの世界で、玲奈は異世界から来た人間――それをいくら説明したところで、当然信じてもらえるわけがない。
(どうあがいても、この世界のルールでは自分は犯罪者になる……)
玲奈は、自分の立場が危ういものであることを思い出した。
「……分かりました。その条件をのみます」
アレクシスの微笑みは、氷のように美しかった。
「ところで、まだ名を聞いていなかったな」
懐中時計を懐へ戻しながら、低く言葉を続ける。
「……榎本、玲奈です」
「レイナか。実に良い名だ」
アレクシスは反芻すると、かすかに笑った。
その声音には、皮肉とも賞賛ともつかぬ響きがあった。
「女王……いずれこの街を掌握する私のフィアンセにふさわしい」
愉快そうに告げられたその声は妙に甘くて、恐ろしいほど確信に満ちていた。
そんな未来は全力で回避願いたい。
しかし玲奈の意思とは真逆に、運命はこの先予想外の方向へと転がっていくのだった。
◇◆◇
推理ゲームのラスボスに、婚約者認定されてしまった。
ゲームのメインヒーローは天才探偵ウィリアム・ハント。玲奈が愛してやまないシャーロック・ホームズがモデルで、配信されたら彼を一番に攻略すると決めていた。
対するアレクシスは、ウィリアムを追い詰める冷徹な策士。
恋愛要素は一切絡まない、いわば攻略対象外の存在。そんなゲームの悪役と婚約なんてありえないはずなのに――
「まぁまぁ!アレクシス坊ちゃんに、こんな可愛らしい方がいらしたなんて!!」
グレンフォード邸の大居間で、玲奈はアレクシスの隣りに立たされていた。
屋敷中の人間が集められ、視線が向けられる。その中にはメイドのエミリーの姿もあった。アレクシスからの疑いは晴れ、仕事に戻れたらしい。
この場で『レイナ』が紛失した懐中時計を見つけたこと――そして、アレクシスの婚約者であることが告げられた。
あまりに唐突すぎる発表に質問攻めにあうと思いきや、驚くどころか一様に「おめでとうございます」と簡単に受け入れられてしまった。頭の中で用意していた想定問答が、無駄になった瞬間である。
中でも家政婦のルイーズの感激ぶりといったらなく「ついに坊ちゃんにも春が!」と涙まで浮かべていた。
(疑われるとやりにくいから助かるけど、肩透かし感がすごい……)
他の使用人は、主の突飛な発言や行動に慣れているのか、それとも疑問を挟むと首が飛ぶのかもしれない。
この男ならやりかねない。つい先ほど究極の選択を迫られていた玲奈としては、そんな考えが頭を掠める。
とにもかくにも、アレクシスの婚約者として屋敷で過ごすことが許されたのだった。
それから食堂に移動し、お祝いという名の少し遅い朝食が用意された。
二種の卵料理、燻製肉に野菜ソテー、ミートパイ、スコーン、フルーツ。本場英国の朝食は充実していると読んだことがあるが、想像以上の豪華さに目を丸くする。
(そういえば、この世界に来てから何も食べていなかった)
目の前の料理を見た瞬間、急激に空腹を覚える。
並べられた美しいカトラリーを手に、黙々と食べ進めていく。
「あの、この黒い食べ物は何ですか?」
「知らないのか?それはブラックプディングだ。豚の肉と血が使われている」
これが、と玲奈の手が止まった。血という単語に顔が引きつる。
「どうした?顔色が悪いな。貧血気味なら、なおのこと食したほうがいいぞ」
(この人絶対わざと言ってる……!)
ただ、コメの一粒にまで神様が宿っていると教わってきた身としては、まったく食べずに残すのは罪悪感がある。
(あぁ、やっぱり私って日本人……)
面白そうに眺めているアレクシスを横目でにらみながら、玲奈はナイフで切り分けた。
ひと口含んで、鼻を抜ける独特の鉄の匂いにひるむ。が、噛むうちにスパイスの香りが広がって、後から穀物の甘味が追いかけてくる。濃厚な風味と食感は塩気の強いソーセージに近い。
「……意外と、美味しいかも」
思わず漏らした言葉にアレクシスは楽しそうに口の端を上げた。
「ほう、血の味がお好みか」
「語弊のある言い方はやめていただけますか」
これはこれで貴重な食文化体験だ。
それにしても、英国の上流階級のパワフルだなと感心する。現代人の自分では胃もたれを起こしそうな量だ。
すべてを食べ終えるころには、椅子から立ち上がれないほどの満腹感に襲われていた。
「レイナ様、お休みのところ失礼します」
「はい、なんでしょうか?」
「アレクシス様から仰せつかっておりました、お部屋の準備が整いましたのでご案内させていただきます」
こちらへと促されてホールへ出た。
執事のジェラルドのあとに続いて、階段を上り二階へと向かう。
「レイナ様は異国でご両親を亡くされたとかで……さぞご苦労されたでしょう」
「え……っ?あぁ、はい、そうなんです」
どうやらアレクシスが『婚約者レイナ』の素性を、それらしく創作して伝えていたらしい。図らずも、この世界に身寄りがないという点では事実だ。
(って、そういう大事なことは共有しておいてほしいんですけど)
「アレクシス様も早くにご家族を亡くされておりますので。レイナ様とのご関係については驚きましたが、共鳴する部分が多いのでしょうね」
それは形式的な台詞ではなく、ある種の実感がこもっているように聞こえた。
「……あの、応接室前の絵画はいつからあるものなんですか?」
「そうですね、二十年ほど前になるかと」
二階へ上がって左へと進む。
そこから二つ目のドアを、ジェラルドが開けた。
「何かご要望がございましたら、いつでもお申し付けください」
深々とお辞儀をして下がろうとする背中に、玲奈は意を決して声をかけた。
「すみません、一ついいですか?」
「はい。何なりと」
呼び止められたジェラルドが、わずかに振り返る。
「懐中時計を盗んだのは、ジェラルドさんではありませんか?」
その刹那、空気が張りつめる。
が、玲奈の不躾な問いにも沈着な態度は崩れない。
「私はマキシミリアン家に仕える忠実な僕です。アレクシス様の大切なものを盗むなど、ありえません」
「ええ、盗むつもりじゃなかった。ただ隠したかったのではないですか?」
手がかりは、絨毯の灰だった。
暖炉の前にあるテーブルの下が汚れていた。あれは暖炉の灰だ。
「ケイトさんと話したとき、袖が灰で汚れているのを見たんです。今日、書斎を掃除したのはエミリーさんではなく、ケイトさんではないですか?」
ケイトは二週間前から入った新人メイド。最近ようやく一人で持ち場を任されたばかりだと言っていた。
おそらく彼女は、書斎の暖炉を掃除した際に灰をぶちまけてしまった。
絨毯は最高級のアクスミンスター製。慌てたケイトはエミリーに相談し、エミリーはジェラルドに報告した。
「書斎の有り様を見て、あなたは頭を抱えた」
あの惨状を見れば、主人の逆鱗に触れ解雇を言い渡すだろう。エミリーを警察に突き出すと言ったときのような、あの冷酷さで。
「この屋敷ではメイドが定着しない。あなたはようやく馴染んでくれたケイトさんを守りたかった。そこでより大きな騒ぎを起こすことで、彼女の失敗を隠そうとしたのでは?」
彼はすべて自分に一任するよう口止めをして、メイド二人を退出させた。だからその後の偽装工作について、二人は何も知らなかったのだ。
書斎で盗難事件を起こしたのは、普段なら見逃さないであろうテーブル位置のずれや、その下の汚れから気を逸らすため。そして、現場保存のために書斎を使用しないと踏んだから。
主の思考を熟知しているがゆえの、咄嗟の計画。
絵画は二十年前からあの場所にある。
ということは、壁の穴の存在を知るのは古参の人間――すなわち執事か家政婦に限られる。ただ、あの大きな絵画を老齢で小柄なルイーズに動かせるとは思えない。
そうなると、残るはジェラルドだけだ。
「どうして絵画の裏に隠したんですか?」
「一時的とはいえ、盗んだものを肌身離さず持つのは気が咎めました。もし動揺を見せれば、アレクシス様にすぐ気づかれてしまうでしょう?」
そう言いながら小さく首を振る。
「書斎の掃除や後始末を終わらせたあと、暖炉の中から見つかったことにするつもりでした」
まさか先に見つけられてしまうとは、と深く息をつく。
「それも、ケイトさんが教えてくれたんです」
「え?」
「絵画がずれていたので直したと」
はっと、ジェラルドが目を瞠る。
おそらく急いでいて、いつもなら気を配るところが抜けていたのだろう。
「……やはり彼女は優秀なメイドです。手放すのは惜しい」
そう言って、目を伏せながら穏やかに微笑んだ。
「レイナ様。私からも一つよろしいでしょうか」
「はい」
「真相に辿りつきながら、なぜアレクシス様にお話にならなかったのですか?」
今度は玲奈が笑みを浮かべる番だった。
「すべてが台無しになってしまうと思ったからです」
新人メイドが犯したたった一度の失敗。それを全力で隠し、守ろうとした理由が、玲奈には分かるような気がしたから。
「ご配慮に感謝いたします」
忠実な執事は深々と頭を下げた。
ジェラルドがゲストルームをあとにして、玲奈はようやく息をついた。
自分の推理もまんざらではなかった。
その事実にほっとすると同時に、ほんの少し満たされた気持ちになる。
けれど――と、ふと頭をよぎる。
(あの壁の穴は、いつから空いていたんだろう?)
そんなに大きいものではないにしろ、あんなふうに絵で隠すだけなんて杜撰な気もする。侯爵邸ともなれば、職人を呼んで即日直していそうなものだ。
(まぁ……いっか)
玲奈は思考を打ち切って、ベッドにダイブする。
広さは当然アレクシスの寝室の物には及ばないが、その柔らかさと寝心地の良さは遜色ない。
そのとき、枕の上に置かれた一枚のカードが目に入った。
『第一の試練クリア。真実の目を持つ者に祝福を』
どうやらこの事件については、合格ということらしかった。
お読みいただきありがとうございました。
評価やリアクション等いただけましたら、今後の執筆活動の励みになります。




