第八章:砕け散った理想
ローマの太陽が絶命した後の、ポンペイウス劇場に隣接する元老院議事堂は、死そのものが支配する空間と化していた。
血の匂いが立ち込める中、暗殺者たちは、しばらくの間、自らが犯したことの重大さに圧倒され、呆然と立ち尽くしていた。
その死のような沈黙を、最初に破ったのは、やはりマルクス・ブルトゥスだった。
彼は、自らの魂に巣食う恐怖と罪悪感を振り払うかのように、血に濡れた短剣を再び天に突き上げた。
「何をためらっている! 我々は、暴君を討ち、ローマに自由を回復させたのだ! 胸を張れ、同志たちよ! さあ、フォルムへ行き、市民にこの偉業を布告するのだ!」
その声に、他の者たちも正気を取り戻した。
そうだ、我々は英雄なのだ。共和政の守護者なのだ。
彼らは、互いにそう言い聞かせると、ブルトゥスを先頭に、高揚した足取りで議事堂の扉を開け放った。
彼らが待ち望んでいたのは、市民たちの歓声だった。
「自由万歳!」という熱狂的な喝采が、解放者である自分たちを包み込むはずだった。
だが、彼らを迎えたのは、恐怖に引きつった市民たちの顔と、パニックによる絶叫だった。
ブルトゥスの理想は、その第一歩目から、無残に砕け散った。
市民の憎悪の視線に追われ、解放者たちは、ローマで最も神聖な丘、カピトリヌスへと、罪人のように敗走し、立てこもるしかなかった。
その頃、ローマ有数の名門貴族の邸宅で、一人の老人が、混乱の報を、興奮と、そしてそれと同じくらいの苛立ちが入り混じった表情で受け取っていた。
マルクス・トゥッリウス・キケロ。
ローマ最高の弁論家にして、元執政官。
共和政の理念を誰よりも深く愛する、国父。
「…やったか! あの者たち、ついに!」
カエサル暗殺の報を聞いた瞬間、キケロは、抑えきれない喜びを露わにした。
暴君は死んだ。
これで、自分が命を懸けて守り抜いてきた共和政が、息を吹き返す。三月の十五日、この日は、我が人生で最も幸福な日だ!
だが、その喜びは、ブルトゥスたちが市民に拒絶され、カピトリヌスの丘に立てこもったという続報によって、冷水を浴びせられたかのように、急速に冷え切っていった。
(愚かな者たちめ…!)
キケロは、心の中で毒づいた。
(暴君を殺すという、千載一遇の偉業を成し遂げながら、その後のことを、何も、何一つ考えていなかったというのか! このままでは、あの男が動くぞ!)
キケロの脳裏に、マルクス・アントニウスの、傲慢で生命力に満ち溢れた顔が浮かんだ。
「…行くか」
キケロは、重い腰を上げた。
従者が、危険です、と引き留めるのを、手で制した。
「あの子供たちに、現実というものを教えに行かねばなるまい。手遅れになる前に」
カピトリヌスの丘にあるユピテル神殿は、つかの間の避難場所と化していた。
ブルトゥスたちは、市民に拒絶された衝撃から立ち直れず、今後の対応を巡って、まとまりのない議論を続けていた。
その混乱の中に、キケロは、杖を突きながら、一人で現れた。
「ブルトゥス殿。君たちの勇気には敬意を表そう。暴君は、確かに死んだ。素晴らしい偉業だ」
その静かな声に、一同ははっと息を呑んだ。ローマ元老院の、最高の権威が、そこにはいた。
ブルトゥスは、尊敬する国父の登場に、一縷の望みを見出したかのように、駆け寄った。
「キケロ殿! 来てくださったか! 市民は、まだ我々の真意を理解していないだけです。これから、我々はローマの自由を…」
「理想を語っている暇はない!」
キケロの鋭い声が、ブルトゥスの言葉を遮った。
「君たちが為すべきことは、ただ一つだ。今すぐ、この丘を下り、君たち自身の権威において、元老院を召集するのだ! アントニウスが動く前に、事態の主導権を握れ! それが、政治というものだ!」
それは、極めて現実的で、かつ唯一の正解とも言える助言だった。
だが、ブルトゥスは、苦しげに首を振った。
「いえ…それはできません。我々は、あくまで元老院の一員として、元老院の決定を待つべきです。市民の信を問うことなく、我々が権力を振りかざせば、それは第二のカエサルになるのと同じことです」
その答えを聞いた瞬間、キケロの顔から、全ての表情が消えた。
彼は、ブルトゥスの顔を、まるで救いがたい病人を見るかのような目で見つめた。
そして、深い、深いため息をつくと、静かに踵を返した。
「…そうか。ならば、好きにするがいい」
彼は、丘を下りながら、誰に言うでもなく、ぽつりと呟いた。
「…勇気は、男だったが。判断力は、子供だったか」
現実主義者の助言は、理想主義者の心には届かなかった。
キケロは、共和派の未来に、深い絶望を感じていた。
その、キケロが最も警戒する男、マルクス・アントニウスは、奴隷の服に着替え、命からがら自宅に逃げ帰った後、しばらくの間、恐怖に打ち震えていた。
だが、ブルトゥスたちがカピトリヌスで孤立しているという情報が届くと、その恐怖は、瞬く間に、野心という名の、ギラギラとした光へと変わった。
(好機だ…!)
彼は理解した。これから始まるのは、共和政の再生ではない。
カエサルの「遺産」を、誰が正当に継承するのかを巡る、新たな戦争なのだと。
「…俺が、やる」
アントニウスの瞳に、ローマの全てを手に入れんとする、猛獣の光が宿った。
「カエサルの後継者は、この俺だ」
彼は、立ち上がると、腹心たちに矢継ぎ早に命令を下し始めた。
まずは、レピドゥスと接触し、軍事力を確保する。
そして、カエサルの邸宅へ向かい、未亡人カルプルニアから、遺言状と国家の公文書を、執政官として「保護」するのだ。
ローマの太陽は、確かに沈んだ。
だが、その屍を喰らって、新たな獣が、今、その牙を剥いた。
血で血を洗う、長い、長い夜の始まりだった。
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