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建国記異聞  作者: 奪胎院


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第七章:三月の十五日

紀元前四十四年、三月十五日。


占い師の不吉な言葉を背に受けながらも、ガイウス・ユリウス・カエサルは、ポンペイウス劇場に隣接して建てられた元老院の議事堂へと、その足を進めていた。


彼の周囲は、陳情のために集まった市民や、彼を一目見ようとする人々でごった返していたが、その群衆の熱気とは裏腹に、カエサルの護衛たちの間には、張り詰めた緊張の糸が漂っていた。


議事堂の柱廊玄関ポルティコに差し掛かった時、一人の男が、カエサルのすぐ後ろを歩いていたマルクス・アントニウスに、親しげに話しかけてきた。


「アントニウス殿、少しよろしいか。パルティア遠征に関して、至急ご相談したい案件が…」


男は、ガイウス・トレボニウス。


ガリア戦争以来、カエサルの下で戦ってきた、信頼厚い部下の一人だった。


アントニウスは、何の疑いも抱かずに足を止め、トレボニウスが差し出す巻物に目を落とした。


その何気ない会話が、カエサルの唯一にして最強の護衛を、運命の場所から引き離すための、巧妙に仕組まれた罠であることに、誰も気づく者はいなかった。


カエサルは、アントニウスが些細な陳情に捕まっているのだろうと思い、一瞥しただけで、ただ一人、議事堂の中へと足を踏み入れた。


その瞬間、アントニウスの背後で、議事堂の重い扉が、まるで世界の終わりを告げるかのように、ゆっくりと、しかし確実に閉じられた。


議場に入ると、集まっていた二百人ほどの元老院議員たちが、一斉に立ち上がってカエサルを迎えた。


そのほとんどが、カエサルによって赦され、あるいは新たに議員として登用された者たちばかりだった。


彼らの顔には、主君を迎える敬意に満ちた笑みが浮かんでいた。


カエサルは、その敬意に応えるように軽く手を上げると、議場の中央奥に設えられた、彼専用の黄金の椅子へと向かった。


彼がその権威の象徴である椅子に腰を下ろした、その時だった。


待ち構えていたかのように、十数人の元老院議員が、彼の周りに集まってきた。


その中心にいた、ティッリウス・キンベルが、追放された兄弟の恩赦を願う陳情書を手に、カエサルの前にひざまずいた。


「何卒、何卒よしなに、閣下!」


彼は、嘆願の言葉と共に、カエサルの纏う紫色のトーガの両肩の部分を、強く掴んだ。


そして、まるで口づけでもするかのように、そのトーガを首元から引き下げた。


それが、合図だった。


キンベルの背後から、プブリウス・セルウィリウス・カスカがおもむろに立ち上がり、懐から抜き放った短剣を、カエサルの背後から、その首筋めがけて突き出した。


だが、極度の緊張に震えたその一撃は、狙いを違え、カエサルの肩を浅く切り裂いただけだった。


肉を裂く鈍い痛みと熱に、カエサルは驚愕に目を見開いた。


「貴様、カスカ! 何をする!」


彼は、裏切り者に向かって叫ぶと、咄嗟に手元にあった鉄筆スタイラスを掴み、それでカスカの腕を激しく突き刺した。


「ぎゃあっ!」


カスカの苦悶の叫びが、狂乱の饗宴の始まりを告げた。


「今だ、やれえ!」

誰かが叫ぶ。


取り囲んでいた議員たちが、次々とトーガの下から短剣を抜き放ち、一斉にカエサルの身体に殺到した。


議場は、怒号と悲鳴、そして肉を切り裂き、骨を砕く生々しい音に満たされた地獄へと変貌した。


「愚か者どもが!」


カエサルは、獅子のように戦った。


椅子を盾にし、分厚いトーガを左腕に巻き付け、襲い来る無数の刃を必死に払い除ける。


彼は、ただの政治家ではない。


幾多の死線を潜り抜けてきた、ローマ最強の戦士だった。


その超人的な闘志と膂力は、烏合の衆に過ぎない暗殺者たちを怯ませるのに十分だった。


何人かの暗殺者は、カエサルの反撃を恐れて後ずさり、あるいは興奮のあまり、仲間を誤って刺し、血を流して倒れた。


このままでは、計画は失敗する。暗殺者たちの間に、焦りの色が浮かんだ。


その時、カエサルは、狂乱の人垣の向こうに、一人の青年の姿を認めた。


マルクス・ユニウス・ブルトゥス。


彼が息子同然に愛し、その後継者の一人として、その未来を誰よりも信じていた男。


そのブルトゥスが、他の者たちと同じように、血走った目で、短剣を握りしめて立っていた。


その瞳には、もはや敬愛も、恩義も、苦悩の色さえもなかった。


ただ、共和政の理念という、冷たい炎だけが燃え盛っていた。


二人の視線が、刹那、交錯した。


カエサルの瞳から、獅子のような闘志が、すっと消えた。


代わりに浮かんだのは、深い、深い悲しみの色だった。


ブルトゥスは、その狂信に突き動かされるように、一歩前に進み出ると、もはや抵抗の意志を失ったカエサルの、がら空きの腹部に、その刃を深く、深く突き立てた。


その瞬間、カエサルの身体から、全ての力が抜け落ちた。


彼は、もはや叫ばなかった。戦いもしなかった。 ただ、その瞳は、悲しげにブルトゥスを見つめていた。


彼は、最後の力を振り絞り、トーガの裾を顔に引き上げた。


自らの死に様を、そして何より、愛した息子の顔を、見ないために。自らの尊厳を守る、それが彼に残された、最後の戦いだった。


カエサルの巨体は、かつての最大のライバル、グナエウス・ポンペイウスの像の足元に、糸の切れた人形のように崩れ落ち、やがて動かなくなった。


二十三回にわたって身体を貫いた刃の傷から、おびただしい量の血が流れ出し、純白の大理石の床を、おぞましい赤黒色に染め上げていった。


議場に、死のような沈黙が訪れた。


暗殺者たちは、自らの身体と、友の身体に飛び散った温かい血を浴びながら、荒い息をつき、呆然と立ち尽くしていた。


やがて、その沈黙を破り、ブルトゥスが、血に濡れた短剣を天に突き上げた。


「自由は、回復された!」


その声は、パニックに陥り、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う議員たちで、もぬけの殻となった議事堂に、虚しく、虚しく響き渡った。


ローマの太陽は、かくして、その光を失った。


後に続く、血で血を洗う、新たな内乱の時代の幕開けとも知らずに。


最後までお読みいただき、ありがとうございます!

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