第六章:最後の警告
紀元前四十四年、三月上旬。
カエサルのパルティア遠征出発を目前に控え、ローマの熱狂は最高潮に達していた。
市民たちは、この偉大な指導者が、アレクサンドロス大王さえ成し得なかった偉業を成し遂げるのだと、その未来を信じて疑わなかった。
だが、その輝かしい光の裏側で、影は急速に、そして濃密に広がりつつあった。
その日、カエサルの邸宅を、腹心であるガイウス・オッピウスが、厳しい表情で訪れていた。
影の実務家と呼ばれるこの男の顔から、いつもの冷静沈着さが消えていることに、カエサルはすぐに気づいた。
「どうした、オッピウス。何か問題でも起きたか」
「…閣下。私の情報網が、看過できぬ『ノイズ』を捉えております」
オッピウスは、慎重に、しかし強い懸念を込めて報告を始めた。
「ここ数週間、ガイウス・カッシウスや、その他数名の元老院議員たちの間で、密会が頻繁に行われているとの報告が上がっております。彼らは、閣下の政策を公然と批判こそしていませんが、その動きは、単なる不平不満の域を超えているように思われます」
カエサルは、黙って報告を聞いていた。その表情は、凪いだ海のように静かだった。
オッピウスは、言葉を続けた。
「カッシウスは、危険な男です。彼の現実主義は、時に常軌を逸した行動へと彼を駆り立てる。もし、彼が、マルクス・ブルトゥスのような理想主義者を巻き込んでいるとすれば…」
「ブルトゥスが?」
カエサルは、初めてかすかに眉を動かした。
「まさか。彼は、私の息子も同然だ。彼が、私に刃向かうことなどありえん」
「私も、そう信じたいのですが…」
オッピウスは、主君の絶対的な自信を前に、それ以上強くは言えなかった。
だが、彼は情報と思惑が渦巻くローマの暗部を誰よりも知る男だった。
彼の直感が、最高レベルの警報を鳴らしていた。
「閣下。どうか、護衛の数を増やし、当面は公の場に出られるのをお控えください。遠征を前に、万が一のことがあっては…」
その必死の進言を聞き終えると、カエサルは、ゆっくりと立ち上がった。
彼は、まるで子供を諭すかのように、穏やかに、しかし揺るぎない口調で言った。
「オッピウス。君の忠誠心には感謝する。だが、君は大きな勘違いをしている」
彼は、窓の外に広がるローマの街並みを見渡した。
「彼らに何ができる? バルブスが管理する国庫に、反乱を起こすほどの金はない。レビルスが掌握する軍団に、彼らに与する部隊もない。そして何より、あのフォルムを埋め尽くすローマ市民は、私の味方だ。彼らが頼れるのは、元老院の空虚な議論と、懐に隠した一本の短剣だけだ」
その言葉は、軍事と政治の頂点を極めた男の、冷徹な計算に基づいていた。
内乱とは、軍と金と民衆の支持、その三つを奪い合う闘争だ。
その全てを掌握している自分に、一体誰が刃向かえるというのか。
「それに、オッピウス。私がもし、護衛兵で自らの身を固め、市民の前から姿を隠すようになれば、それこそが、私が独裁者であり、暴君であることの証明になってしまう。私は、恐怖ではなく、信頼によってローマを治めたいのだ。心配は無用だ。全ては、私の盤上にある」
その圧倒的な自信の前では、いかなる警告も、無力に響くだけだった。
オッピウスは、それ以上何も言えず、重い足取りでカエサルの執務室を辞するしかなかった。
そして、運命の日、三月の十五日が訪れた。
その前夜、妻のカルプルニアは、悪夢にうなされ、寝室に響き渡るほどの悲鳴を上げた。
「あなた…! あなたが、血まみれの姿で、私の腕の中で…!」
彼女は、カエサルの胸に顔を埋めて泣きじゃくった。
「お願いです。今日の元老院へのお出ましは、おやめください。これは、神々からの警告に違いありません」
その言葉を裏付けるかのように、夜が明けると、次々と不吉な報告が舞い込んできた。
神々に捧げた生贄の内臓には、あるべき心臓がなかったという。
カエサルが寵愛していた馬が、餌を食べずに涙を流し続けているとも。
さすがのカエサルも、これらの凶兆の数々に、心が揺れた。
彼は、カルプルニアの懇願を受け入れ、元老院を欠席する旨をアントニウスに伝えさせようとした。
だが、その時だった。一人の男が、慌てた様子でカエサルの邸宅を訪れたのは。
デキムス・ブルトゥス。
カエサルが、ガリアの時代から腹心として信頼し、その遺言状の中で、第二次相続人の一人に指名しているほどの男だった。
「閣下、いかがなさいましたか。元老院の皆様が、閣下のお越しを今か今かと待ちわびておりますぞ」
カエサルが、体調が優れぬことと、不吉な夢を理由に、今日の議会は延期すると告げると、デキムスは、心から残念そうな、それでいて少し呆れたような表情を作って見せた。
「それは、いけませんな。閣下が、婦人の見る夢を恐れて、ご自身で召集された議会を欠席されたとあっては、元老院の者たちは、陰で何を噂するかわかりません。彼らは、これを閣下の傲慢と受け取るか、あるいは恐怖と受け取るか…いずれにせよ、閣下の威信を損なうことになりましょう」
その言葉は、カエサルの自尊心を巧みに刺激した。
「それに、元老院は本日、閣下に更なる栄誉を授けることを決定しております。その栄誉を、ご自身の口から断るならまだしも、伝聞で断られたとあっては、彼らの好意を踏みにじることになりかねません」
デキムスは、主君の身を案じるかのように、言葉を続けた。
「もし、どうしても気が進まぬのであれば、ご自身で議会に出向き、ご自身の口から、本日は解散すると、そうお命じになればよろしい。それならば、誰も文句は言いますまい」
その言葉は、完璧なまでに合理的だった。
カエサルは、一瞬の逡巡の後、苦笑いを浮かべた。
「…違いない。君の言う通りだ、デキムス。女の夢物語に、ローマの独裁官が振り回されるわけにはいかんな」
彼は、カルプルニアの心配そうな視線を背に受けながら、立ち上がった。
「よし、行こう」
邸宅を出て、ポンペイウス劇場に隣接する元老院の議事堂へ向かう道すがら、例の占い師が、人混みの中に佇んでいるのが見えた。
カエサルは、その男の顔を見ると、勝ち誇ったように声をかけた。
「見ろ、三月の十五日が来たぞ。だが、私はこの通り、息災だ」
占い師は、カエサルの目をまっすぐに見据え、静かに、しかしはっきりと答えた。
「いかにも、カエサル閣下。三月の十五日は、まだ終わってはおりませぬ」
その言葉が、不吉な予言のように、鉛色の空の下に響き渡った。
だが、カエサルは、もはやその警告に足を止めることはなかった。
彼の運命の歯車は、もはや誰にも止められない速さで、その終着点へと向かって、回り始めていた。
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