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建国記異聞  作者: 奪胎院


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第五章:同志たち

紀元前四十四年、二月下旬。


ローマは、間近に迫ったカエサルのパルティア大遠征への期待と準備で、熱狂的な喧騒に包まれていた。


フォルムでは武具を製造するドワーフの鍛冶師たちの槌音が昼夜響き渡り、港町オスティアにはエジプトから膨大な量の穀物を積んだ船がひっきりなしに入港していた。


市民たちは、この偉大な遠征が成功すれば、ローマに恒久的な平和と更なる繁栄がもたらされると信じて疑わなかった。


だが、その熱狂の影で、ガイウス・カッシウス・ロンギヌスは、焦燥という名の冷たい炎に身を焼かれていた。


(時間がない…!)


書斎に閉じこもり、彼は窓の外の喧騒に耳を塞いだ。


カエサルの出発は、三月十八日と定められている。


一度、彼が軍団と共にローマを離れてしまえば、もはや誰の手も届かぬ存在となる。


遠征に勝利し、凱旋将軍として帰還したならば、彼は生ける神としてローマに君臨するだろう。


そうなれば、共和政の息の根は完全に止められる。


マルクス・ブルトゥスという、比類なき『大義名分』は手に入れた。だが、それだけでは足りない。


理想を掲げるだけでは、あの怪物は倒せない。


計画を具体的な行動へと転化させるための、決定的な『駒』…カエサルの懐にまで届く、鋭利な『剣』が必要だった。


カッシウスの脳裏に、一人の男の名が浮かんでいた。


ガリア戦争以来の英雄、デキムス・ユニウス・ブルトゥス。


カエサルが最も信頼する部下の一人。


そして、陰謀を成功させるために、絶対に欠かすことのできない男。 カッシウスは、覚悟を決めた。


その夜、カッシウスは、供も連れずに、デキムス・ブルトゥスの邸宅の門を叩いた。


「何の用だ、カッシウス。お前のような男が、私の下に何の用がある」


壮麗な邸宅の書斎で、デキムスは露骨な警戒心と共に、カッシウスを迎えた。


彼は、カエサル配下の中でも、特にその信任が厚いエリート軍人だ。


内乱では常にカエサルと共にあり、マッシリアの海戦では巧みな艦隊指揮で勝利を掴み、その功績でガリア・トランサルピナ属州の総督にまで任命されている。


カエサルから与えられた名誉と富。


その彼が、元ポンペイウス派のカッシウスに、心を許すはずがなかった。


「デキムス殿。単刀直入に言おう。私は、君の力を借りに来た。ローマを救うためにだ」


「ローマを救うだと? 救われるべきローマなど、どこにある。カエサル閣下の下で、ローマはかつてない平和と繁栄を享受しているではないか」


デキムスの声には、揺るぎない確信があった。


カッシウスは、この男に、中途半端な野心や不満を煽る言葉が通用しないことを、最初から理解していた。


彼は、椅子に深く腰掛け、正面からデキムスの目を見据えると、静かに、だが重い問いを投げかけた。


「カエサル閣下は偉大だ。私もそれは認める。彼の軍才、統治能力、そのどれもが常人の域を遥かに超えている。だが、デキムス殿、考えてほしい。その偉大なる閣下が、もし、不慮の病や事故でこの世を去られたら、我々はどうなる? このローマは、一体どうなるのだ?」


「…何を言いたい」


「後継者の話だ」

カッシウスは、声を潜めた。


「閣下は、ご自身の子、カエサリオンをローマに呼び寄せられた。あのエジプトの女王と共に、だ。今や、ローマ中の誰もが、あの子供の存在を知っている。もし、万が一、閣下の遺言が、あの子を後継者として定めていたら…我々はどうすべきなのだ?」


デキムスの表情が、初めて険しくなった。 カッシウスは、畳み掛けた。


「考えてもみろ。我々ローマの軍団が、軍団の象徴たる鷲獅子アクィラの旗が、エジプトの女王とその息子に忠誠を誓うことになるのだぞ。ガリアで、ヒスパニアで、アフリカで、共に死線を潜り抜けてきた我々の兵士たちが、異国の血を引く王の下で、再び剣を握ることになる。君は、ローマの軍団を率いる将軍として、その屈辱に耐えられるのか?」


その言葉は、デキムスの魂を根底から揺さぶった。


彼は、カエサル個人に忠誠を誓っていた。


だが、それ以上に、彼はローマという国家と、その軍団に誇りを持つ軍人だった。


エジプトの血を引く王に仕える。その光景を想像しただけで、胃の腑が煮えくり返るような不快感がこみ上げてきた。


「…閣下は、決してそのようなことはなさらん。後継者は、能力ある者から選ぶと、そう公言されている」


かろうじて絞り出した反論に、しかし力はなかった。


「そうか? だが、あのクレオパトラという女が、それを黙って見過ごすとでも? 市民が、兵士が、カエサル閣下唯一の『実子』の存在を知った時、一体どうなる? 閣下がどれだけ否定しようとも、もはや『世襲』という名の亡霊は、ローマに解き放たれてしまったのだ」


デキムスは、言葉に詰まった。


カッシウスの言う通りだった。カエサル本人の意図とは関係なく、カエサリオンの存在そのものが、共和政の根幹を蝕む、劇薬となりつつあった。


カッシウスは、揺れ動くデキムスの心を見抜き、とどめを刺すように、静かに告げた。


「マルクス・ブルトゥスも、同じ結論に達した」


「何…!?」


「彼は、カエサル個人への恩義と、ローマの未来とを天秤にかけ、苦悩の末に、ローマを選んだ。我々が今、行動を起こさねば、共和政は完全に死ぬ。彼は、そう覚悟を決めたのだ」


デキムスは、ゆっくりと立ち上がると、書斎の中を歩き始めた。


カエサルへの忠誠。彼から与えられた数々の栄誉。


その記憶が、彼の心を締め付ける。


だが、それと同時に、ローマの軍人としての、そしてブルトゥスの一族としての誇りが、カッシウスの言葉に激しく共鳴していた。


長い、重い沈黙の後、デキムスは、カッシウスに向き直った。


その顔は、苦渋に満ちていた。


「…わかった。話を、聞こう」


デキムスという、カエサルの懐にまで届く最強の駒を得て、陰謀は三月に入ると、堰を切ったように拡大した。


カッシウスとブルトゥスは、遠征出発の日が迫る中、矢継ぎ早に同志たちを増やしていった。


ガイウス・トレボニウス。


彼もまた、ガリア以来のカエサルの部下だったが、アントニウスの影に隠れ、自らの功績が正当に評価されていないという不満を抱いていた。


カッシウスは、彼の野心に火をつけた。

「カエサル亡き後のローマで、アントニウスに代わって軍を率いるのは、君のような実務家だ」と。


ティッリウス・キンベル。


彼は、カエサルによって兄弟が追放されたことに、個人的な恨みを抱いていた。


ブルトゥスが、彼の前に静かに頭を下げた。


「君の力を貸してほしい。ローマのために」。


その高潔な姿は、キンベルの復讐心に、大義名分という衣を与えた。


他にも、カエサルの寛容によって赦された元ポンペイウス派の者たち、カエサルが元老院に送り込んだ新参議員の存在を快く思わない旧来の貴族たち。


様々な動機を持つ男たちが、共和政の守護という一つの旗の下に、雪崩を打つように集まっていった。


三月上旬、カッシウスの邸宅で、主要なメンバーによる最後の密会が開かれた。


集まった同志たちの顔には、期待と、恐怖と、そして後戻りはできないという狂信的な高揚感が浮かんでいた。


「決行の日は、三月の十五日イドゥス・マルティウスだ」

カッシウスが、低い声で告げた。


「その日、カエサル閣下は元老院に出席され、パルティア遠征に関する最終承認を得ることになっている。議事堂の中であれば、護衛も手薄になる。これ以上の好機はない」


デキムスが、作戦の細部を説明する。


「私が、朝、閣下を邸宅までお迎えに上がる。万が一、閣下が不吉な予言などを気にして出席を渋られても、私が必ず議事堂までお連れする。トレボニウス、君は、議事堂の外でアントニウスを引き留めてくれ。奴が中にさえ入らなければ、我々の脅威にはならん」


一人、また一人と、その役割が確認されていく。


計画は、もはや密議ではない。


ローマの運命を左右する、冷徹な殺意の集合体へと変貌していた。


書斎の窓から差し込む月明かりが、集った男たちの顔を、まるで舞台の上の役者のように、青白く照らし出していた。


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