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建国記異聞  作者: 奪胎院


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第四章:アポロニアの日々

紀元前四十五年、冬。


ギリシャ北西の地、アポロニアは、ローマとは異なる、厳しくも澄んだ空気に満ちていた。


アドリア海から吹き付ける冷たい風が、マケドニアの精鋭軍団が立てる鬨の声と、規則正しい剣戟の響きを遠くまで運んでいく。


その訓練場の中心で、マルクス・ウィプサニウス・アグリッパは木剣を振るっていた。


汗で湿った髪が額に張り付き、吐く息は白い。対峙しているのは、歴戦の百人隊長だ。


ガリアの戦場を生き抜き、その顔には幾筋もの古い傷跡が刻まれている。


だが、アグリッパの剣筋には、若さゆえの荒々しさに加え、天賦の才としか言いようのない正確さと力強さが宿っていた。


金属音にも似た鋭い音を立てて木剣が打ち合わされ、次の瞬間、百人隊長の剣が宙を舞った。


「…参りました、アグリッパ殿」

息を弾ませながらも、百人隊長の目には、驚きと心からの敬意が浮かんでいた。


アグリッパは、ローマから来た貴族の若者という最初の評価を、わずか数ヶ月で覆してみせた。


彼は、兵士たちと同じ泥にまみれ、同じ固いパンを齧り、そして誰よりも過酷な訓練を自らに課した。


模擬戦となれば、単身で敵陣に切り込む勇猛さを示すだけでなく、地形を巧みに利用した陽動や、補給部隊の動きまで計算に入れた的確な戦術眼を発揮し、何度も自軍を勝利に導いた。


その実直な人柄と圧倒的な軍才は、叩き上げの軍団兵たちの心を掴むのに、多くの時間を必要としなかった。


訓練場の片隅では、もう一人のローマの若者が、同じように兵士たちに交じって槍の投擲訓練に励んでいた。


ガイウス・オクタウィアヌス。

彼の投げる槍は、アグリッパのように力強くはない。


むしろ、その線の細い身体では、重い武具を扱うこと自体が大きな負担であることは、誰の目にも明らかだった。


訓練が終わる頃には、彼はいつも血の気の失せた顔で、肩で大きく息をしている。


それでも、彼は決して訓練を途中で投げ出すことはなかった。


兵士たちと同じ粗末な食事をとり、同じ石のように硬い寝床で眠った。


将校たちは当初、カエサルの大甥という特別な身分の彼を気遣い、訓練を軽減するよう申し出た。


だが、オクタウィアヌスは、静かだが揺るぎない口調でそれを断った。


「兵士たちと同じ苦しみを分かち合わずして、どうして彼らの命を預かる指揮官になれましょうか」


その真摯な姿は、当初は訝しげに彼を見ていた百人隊長や兵士たちの心を、少しずつ、しかし確実に溶かしていった。


彼らは、この病弱な若者の内にある、鋼のような意志の強さに気づき始めていた。


その夜、宿舎に戻ったアグリッパは、一人書簡を認めている親友の姿を見て、思わず声をかけた。


「オクタウィアヌス、今日の訓練は少し無茶をしすぎていたぞ。お前の身体は、俺たちとは違う。もっと自分を大事にしろ」


アグリッパの言葉には、友を案じる率直な気持ちが込められていた。


オクタウィアヌスは、ペンを置くと、静かに微笑んだ。


「ありがとう、アグリッパ。君の気遣いは嬉しい。だが、これでいいんだ」


「何がいいんだ。いつか本当に倒れてしまうぞ」


「それでも、だ」


オクタウィアヌスは、窓の外に広がる、無数の天幕が並ぶ軍団の野営地を見つめた。


「アグリッパ、君は生まれながらの将軍だ。君が剣を振るえば、兵士たちはその勇気に奮い立つ。君が策を語れば、百人隊長たちはその的確さに舌を巻く。君は、黙っていても兵士たちの信頼を勝ち取れる。…だが、私にはそれがない」


その声には、嫉妬ではなく、冷徹な自己分析があった。


「私にできることは、ただ一つだ。この非力な身体で、彼らと同じ痛みを分かち合い、同じ飯を食うこと。カエサル閣下の名声ではなく、私自身の行動で、彼らの信頼を勝ち取ること。それが、今ここで私が成すべき、最優先のことなのだ。そのためならば、多少の無理は厭わない」


アグリッパは、それ以上何も言えなかった。


友がやっていることは、単なる精神論ではない。


来るべき戦いのために、最も重要な武器である「兵士の忠誠心」を、自らの身を削って築き上げているのだ。


それは、アグリッパの得意とする戦場での戦術とは異なる、もう一つの、静かなる戦いだった。


オクタウィアヌスは、話題を変えるように、アグリッパに向き直った。


「それにしても、今日の模擬戦は見事だったな、アグリッパ。まさか、あの隘路に別動隊を伏せておき、敵の補給部隊を叩くとは。敵将役の百人隊長も、完全に君の術中にはまっていた」


「古い戦史の模倣だよ。ハンニバルも同じようなことをやっている」


「謙遜するな」

オクタウィアヌスは、楽しそうに笑った。


「君の才能は、戦術だけではない。兵站の管理、陣地の構築、兵士たちの士気の維持…その全てにおいて、私など足元にも及ばない。正直に言うと、羨ましいよ。私には、君のような軍事の才は、ひとかけらも与えられなかったようだ」


その言葉には、不思議なほど卑屈さはなかった。


むしろ、自分の限界を認め、友の才能を心から賞賛する、清々しささえ感じられた。


「だからこそ、アグリッパ、私は君に全てを任せる。来るべきパルティア遠征で、そしてその先の未来で、軍事に関する全ては君の判断に委ねたい。私は、君という最高の剣を得たのだからな」


「オクタウィアヌス…」


「私は、私の得意なやり方で戦う。そして君は、君のやり方で勝利を掴めばいい。我々二人が力を合わせれば、成し遂げられぬことなど何もない」


アグリッパは、友の差し伸べる手を見つめた。


その手は、剣を握るにはあまりに細く、血の気も薄い。


だが、この手こそが、ローマの未来を掴む手なのだと、アグリッパは強く感じていた。


彼は、その手を力強く握り返した。


アポロニアでの日々は、充実していた。


二人の若者は、それぞれのやり方で才能を開花させ、友情を鋼のように鍛え上げていった。


ローマからの便りは、マエケナスが送ってくる陽気な手紙がほとんどで、そこには国家再建が順調に進んでいることや、市民が平和を謳歌している様子が、詩的な表現で綴られているだけだった。


全ては順調に進んでいる。 輝かしい未来が、自分たちを待っている。


アポロニアの冷たい風の中、二人はそう信じて疑わなかった。


最後までお読みいただき、ありがとうございます!

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