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建国記異聞  作者: 奪胎院
第一部:共和政の黄昏

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第三章:リアリストと理想家

紀元前四十五年、秋。


ローマがカエサルの手による目まぐるしい再建に沸き立つ中、その熱狂から取り残されたかのように、冷え冷えとした静寂に支配された一室があった。


ガイウス・カッシウス・ロンギヌスの書斎である。


無駄な装飾を一切排した部屋には、法律と戦術に関する巻物が整然と並べられているだけだった。


部屋の主の、厳格で怜悧な精神をそのまま映したかのような空間だ。


カッシウスは、蝋燭の揺れる灯火の下で、一枚のパピルスに記された元老院の新しい議席名簿を睨みつけていた。


そこには、彼が名も知らぬガリア人や、叩き上げの百人隊長たちの名前が、由緒あるローマ貴族の名に混じって無秩序に並んでいる。


カエサルによる、元老院の増員。


それは表向きには、内乱で疲弊した国家に新しい血を入れるための改革とされていた。


だが、カッシウスの目には、共和政の最高意思決定機関を、カエサルの意のままに動く私的な諮問機関へと変質させるための、巧妙な解体作業にしか見えなかった。


(これが、あの男の言う『再建』か…)

怒りとも、諦めともつかぬ感情が、胸の奥で黒い渦を巻く。


彼は、内乱ではポンペイウス派としてカエサルと戦った。


ファルサルスで敗れた後、カエサルの『寛容』によって赦され、法務官という要職にまで取り立てられた。


多くの者は、それをカエサルの度量の広さと称賛する。


だがカッシウスは、その寛容の裏にある、冷たい計算を見抜いていた。


それは、敵対者さえも自らの権威の下に取り込むことで、逆らう者をなくし、ローマの全てを私物化していくための布石に他ならない。


自分は、その能力を評価されて登用されたのではない。


飼いならされた、見せしめの元敵将の一人に過ぎないのだ。


その時、従者が静かに入室を告げた。 「ブルトゥス様がお見えです」 その名を聞いた瞬間、カッシウスの瞳の奥に、鋭い光が宿った。


彼は感情の動きを巧みに隠し、穏やかな表情を作ると、従者に客人を招き入れるよう命じた。


書斎に入ってきたマルクス・ユニウス・ブルトゥスは、カッシウスとは対照的な空気を纏っていた。


その佇まいは、ストア派の哲学者が説く高潔さを体現したかのように実直で、その瞳には一点の曇りもない。


だが今、その顔には、深い苦悩の色が浮かんでいた。


「夜分にすまない、カッシウス。少し、君と話がしたくてな」


「歓迎するよ、ブルトゥス。君が相手なら、いつでも喜んで戸を開けよう。さあ、掛けてくれ」


カッシウスは、葡萄酒の杯を差し出しながら、友人の顔を注意深く観察した。


この男が、何に悩んでいるのかは、手に取るようにわかっていた。


しばらくの沈黙の後、先に口を開いたのはブルトゥスだった。


「…近頃のローマを、君はどう見る?」


それは、探るような、それでいて答えを求めるような問いだった。


カッシウスは、ゆっくりと杯を傾けた。


「活気に満ちている。百年にわたる内乱が終わり、市民は平和を享受している。カエサル閣下の指導の下、国家は力強く再生への道を歩んでいる。…少なくとも、多くの市民の目にはそう映っているだろうな」


その言葉の棘に、ブルトゥスは眉をひそめた。


「君は、そうは思わないと?」


「私は、事実を見ているだけだ」

カッシウスは静かに答えると、正面からブルトゥスの目を見据えた。


「カエサル閣下は、終身独裁官ディクタトール・ペルペトゥオの称号を受けられた。それは事実だ。元老院の議席は、閣下の意のままに選ばれた者たちで埋め尽くされつつある。それも事実だ。そして、フォルムには、歴代の王たちと並んで、閣下の黄金像が置かれている。これもまた、紛れもない事実だ。ブルトゥス、君はこれらの事実をどう見る?」


ブルトゥスは、苦しげに顔を歪めた。


「それは…内乱を終結させ、国家を安定させるための、やむを得ない措置だと私は信じている。カエサル閣下は、決して王になろうなどとは望んでおられない。彼の目的は、あくまでローマの再建だ。その証拠に、彼は我々、元敵対者さえも赦し、要職につけてくれているではないか」


「『赦し』、か…」

カッシウスは、冷ややかに笑った。


「ブルトゥス、君は人が良すぎる。それは赦しではない。『支配』だ。我々は、彼の寛大さという名の首輪をつけられたに過ぎん。彼の意に逆らえば、いつでも『恩知らずの反逆者』として断罪される。今の元老院に、彼の決定を覆す力があるか? 我々はもはや、ローマの市民ではなく、カエサルの臣下なのだよ」


「よせ、カッシウス!」

ブルトゥスの声が、鋭く響いた。


「閣下は、私を息子同然に愛してくださっている! その御方が、ローマの自由を奪うなどと…! 私は、閣下を信じている」


「私も、信じたいさ」

カッシウスは、今度は穏やかな声で言った。


彼の声には、まるで同じ苦悩を分かち合うかのような響きがあった。


「だが、ブルトゥス、君は忘れたのか? 君の祖先、ルキウス・ユニウス・ブルトゥスは、いかに優れた王であろうとも、ただ一人の人間に権力が集中することの危険を誰よりも知っていた。だからこそ、血を流し、共和政を打ち立てたのだ。個人の善意に国家の運命を委ねる制度は、あまりにも脆い。カエサル閣下は善人かもしれん。だが、彼の後継者もそうである保証がどこにある?」


カッシウスの言葉は、鋭い刃のようにブルトゥスの心を抉った。


祖先の名。


共和政の理念。


それは、ブルトゥスという人間の根幹を成すものだったからだ。


彼は言葉を失い、俯いた。


その心の中で、カエサルへの敬愛と、共和政への忠誠という、二つの決して相容れない感情が激しくせめぎ合っていた。


カッシウスは、その苦悩を見透かすように、最後の一撃を放つための言葉を探した。


そして、最も効果的な、最も残酷な切り札を選び出した。


「それに、ブルトゥス。最大の懸念が、もう一つある」

カッシウスは、声を潜め、まるで恐ろしい秘密を打ち明けるかのように続けた。


「あの男は、今、何をローマでさせている? 異国の、エジプトの女王とその息子を、ローマ郊外の別荘に住まわせているのだぞ。毎夜のように、その寝所に通っていると聞く。元老院の我々を差し置いて、国家の機密を、あの女に漏らしているやもしれん」


「それは…」

ブルトゥスが何か言い返そうとするのを、カッシウスは手で制した。


「問題は、それだけではない。あの女が連れてきた子供…カエサリオンとか言ったか。カエサルの子だと、公然と触れ回っている。もし、あの男が、その後継者として、あの子を指名したらどうなる? 我々ローマ市民の上に、半エジプト人の血を引く王を、君主として立たせるつもりなのだ。これ以上に、我々の祖先と共和政を侮辱する行為が、他にあるか!」


王。そして、世襲。 ローマ人が、建国以来、最も忌み嫌い、そのために血を流し続けてきた概念。


その具体的な象徴であるカエサリオンの名は、ブルトゥスの心臓に、冷たい鉄の杭を打ち込むかのような衝撃を与えた。


カエサル本人が後継者を能力で選ぶと言ったところで、周囲が、市民が、そして何よりクレオパトラ自身が、それを許すはずがない。


疑念の種は、芽吹き、育ち、やがてはローマ全体を覆う毒の蔓となるだろう。


ブルトゥスの顔から、急速に血の気が引いていくのがわかった。


カッシウスは、友の魂が揺れ動いているのを正確に感じ取りながら、慈悲のかけらもない、最後の問いを投げかけた。


声は、どこまでも静かだった。


「ブルトゥス。君にとって、最も辛い問いをさせてもらう」


「もしも…。君が信じるその人が、君が信じる理念そのものを、破壊しているとしたら…君は、一体どちらを選ぶ?」


その問いは、答えを求めるものではなかった。


それは、ブルトゥスの魂に深く突き刺さり、決して抜けることのない、疑念という名の毒の種子だった。


ブルトゥスは、何も答えず、力なく立ち上がると、よろめくような足取りで書斎を辞した。


一人残されたカッシウスは、友人が去っていった暗い戸口を、冷徹な目で見つめていた。


リアリストである彼は知っていた。世界を変えるのは、いつの時代も、純粋な理想家の情熱なのだと。


そして今、その情熱に火をつけるための『大義名分』という名の火種が、確かに手に入ったことを、彼は静かに確信していた。


最後までお読みいただき、ありがとうございます!

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