第二章:盤上の支配者と招かれざる王子
紀元前四十五年、秋。
若き獅子たちがそれぞれの任地へと旅立っていった後のローマは、一つの巨大な意志の下、その姿を刻一刻と変貌させていた。
その意志の源泉、ガイウス・ユリウス・カエサルの邸宅の奥深く、執務室の灯は夜遅くまで消えることがなかった。
室内には、ローマ世界の未来を形作る四人の男たちが集っていた。
一人はもちろん、この部屋の主、ガイウス・ユリウス・カエサル。
そして彼の覇業を、それぞれの戦場で支え抜いてきた三人の腹心たち。
カエサルの「静かなる戦争」を担う影の実務家、ガイウス・オッピウス。
国家の財政をその掌中に収める金庫番、ルキウス・コルネリウス・バルブス。
そして、ガリアと内乱の全てを、その超人的な「計算」能力で勝利へと導いたカエサルの「頭脳」、レビルス。
彼らの目の前には、巨大な羊皮紙の地図が広げられていた。
それはイタリアやガリアではない。
遥か東方、ユーフラテス川の向こうに広がるパルティア王国のものだった。
カエサルが指し示した一点から、何本もの線が引かれ、無数の書き込みがなされている。
それは、彼の精神の中では、すでにこの遠征が始まり、勝利という結末まで描き切られていることを示していた。
「レビルス、新しいユリウス暦の施行は順調か」
カエサルは、地図から目を上げずに尋ねた。
「は。大きな混乱もなく、市民の間にも浸透しつつあります。ドワーフの工兵隊が製作した新しい日時計と水時計をフォルムの各所に設置したことで、誰もが正確な時を把握できるようになりました。彼らはもはや、曖昧な季節の移ろいではなく、閣下が定められた『時間』の下で生きております」
レビルスの報告に、カエサルは満足げに頷いた。
時間さえも支配する。
それこそが、国家を再建するということだった。
「フォルムの拡張と、テヴェレ川の治水工事も計画通りに進んでいるな、バルブス」
「御意に。国庫から潤沢な資金を投入し、数万の市民を雇用しております。かつて内乱で職を失った者たちが、今では家族を養い、ローマ市民としての誇りを取り戻しております。食糧の無償配給も結構ですが、自らの労働で得るパンの味こそが、市民の最大の支持に繋がっております」
バルブスの報告は、カエサルの改革が、単なる土木事業ではなく、民衆の心を掴むための壮大な国家事業であることを示していた。
軍事、財政、法、そして時間。
国家を構成する全ての要素が、この部屋にいる四人の男たちの手によって、再設計され、組み上げられていく。
その様は、まさに神々の仕事にも似ていた。
「よろしい」
カエサルは地図の上に両手を置くと、三人の腹心を、絶対的な自信に満ちた瞳で見据えた。
「ローマの足元は固まった。もはや、この盤上が揺らぐことはない。いよいよ、最後の仕上げに取り掛かる。パルティアだ。クラッスス殿の復讐を成し遂げ、東方の脅威を完全に取り除く。この遠征を成功させてこそ、我がローマは、真の平和を手に入れることができるのだ」
その言葉に、三人の腹心は、静かに、しかし力強く頷いた。
彼らの目には、主君が見ているのと同じ、輝かしい未来が映っていた。
室内の空気は、彼らが築き上げる新しい世界への、揺るぎない確信に満ちていた。
議論が一段落し、葡萄酒で喉を潤していた時だった。
それまで実務的な話に終始していたオッピウスが、ふと、思い出したように、悪戯っぽい笑みを浮かべて口を開いた。
「そういえば、閣下。先日、テヴェレ川のほとりにある閣下の別荘のそばを通りかかったのですが、見事な庭園が造られておりましたな。まるで、ナイル川の岸辺を切り取ってきたかのような」
その言葉に、金庫番のバルブスが、にやりと笑って続けた。
「ほう、それは見事でしょうな。何しろ、あそこにはエジプトの女王陛下と、そのご子息がお住まいなのですから。我らが閣下の、いわば『エジプトのご家族』が、ローマの冬を退屈せず過ごせるようにと、我々の国庫から、ささやかながらも便宜を図らせていただいておりますよ」
二人の軽口に、レビルスは内心で眉をひそめたが、カエサルは怒るでもなく、むしろ楽しげに、だがどこか疲れたように苦笑いを浮かべた。
「君たちまで、元老院の老人たちと同じことを言うか」
彼は、ゆっくりと杯を傾けると、穏やかな口調で続けた。
「気持ちはわかる。ローマの民が、何を恐れているのかもな。だが、心配は無用だ」
彼は、からかった二人を、諭すような、しかし親しみのこもった目で見つめた。
「私が何のために内乱を戦い抜いてきたか、君たちが一番よく知っているはずだ。血統や家柄だけで国家の要職を独占する、あの腐りきった共和政を終わらせるためだろう?」
カエサルは、そこで一度言葉を切ると、きっぱりと言い切った。
「私の後継者は、世襲では選ばん。血や私情で決めることは、決してない」
彼は、三人の腹心を順に見渡し、その言葉を彼らの心に刻み込むように続けた。
「このローマにとって、最も有益であると、私の理性が判断した者。能力ある者だけが、私の遺志を継ぐのだ。それ以外は、ない」
その言葉には、いかなる弁明も、感情の揺らぎもなかった。
ただ、国家の支配者としての、揺るぎない決意だけがそこにあった。
オッピウスとバルブスは、顔を見合わせると、ばつが悪そうに肩をすくめた。
「これは失礼いたしました、閣下。我々の悪い癖でして」
「いや、良い」
とカエサルは笑った。
「君たちが、それだけローマの未来を案じている証拠でもあるのだろう」
その寛大な言葉に、室内の空気は、再び和やかなものへと戻っていった。
ただ一人、黙ってそのやり取りを見ていたレビルスは、静かに安堵の息をついていた。
そうだ、と彼は思った。
この方こそが、我らが主君、ガイウス・ユリウス・カエサルなのだ。
いかなる時も、個人的な感情に流されることなく、ローマの利益というただ一点のみを見据えて、冷徹な計算と判断を下す。
この偉大なる支配者の下にある限り、ローマの未来は安泰だ。
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