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建国記異聞  作者: 奪胎院
第一部:共和政の黄昏

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第一章:若き獅子たちのいる場所

紀元前四十五年、夏。


四度にわたる凱旋式の熱狂がようやく落ち着きを取り戻したローマは、まるで巨大な生き物のように、その呼吸を正常なリズムに戻しつつあった。


ガイウス・ユリウス・カエサルという絶対的な意志の下、百年にわたる内乱で疲弊しきった国家は、驚異的な速度でその傷を癒やし、新たな肉体を構築していた。


古い神殿は修復され、フォルム(公共広場)は拡張され、テヴェレ川の氾濫を防ぐための壮大な治水計画が、ドワーフの工兵隊を動員して始まっていた。


街角の掲示板には、不正確だった古い暦を改め、一年を三百六十五日とする新しいユリウス暦の導入を告げる布告が張り出されている。


その全てが、一つの時代の終わりと、新しい時代の始まりを告げていた。


マルクス・ウィプサニウス・アグリッパは、カピトリヌスの丘から、生まれ変わろうとしているローマの姿を眺めていた。


強い陽射しを浴びて白く輝く街並みは、まるで巨大な大理石の彫刻のようだ。


彼の隣には、無二の親友である二人の若者がいる。


一人は、ガイウス・オクタウィアヌス。


年の頃は十八。


病弱さを感じさせる線の細い身体つきと、血の気の薄い白い肌を持つが、その静かな瞳の奥には、年齢にそぐわない冷徹な光が宿っている。


彼はカエサルの大甥であり、最も信頼する後継者候補と目されている男だ。


彼は眼下に広がるローマの喧騒には目もくれず、ただ遠く、国家の未来だけを見つめているかのように静かだった。


アグリッパは知っている。


この友が、常人には見えぬ遥か先の未来を、冷徹な計算と意志の力で見通す恐るべき才能の持ち主であることを。


彼の「政治力」は、人を惹きつけ、駒として動かす、一種の魔法に近かった。


もう一人は、ガイウス・マエケナス。


裕福な騎士階級の出身で、上質なトーガを粋に着こなし、その優雅な物腰は詩人か哲学者のようだ。


しかし、その柔和な笑みの裏に、ローマの裏も表も知り尽くした冷徹な現実主義者の顔が隠されていることを、アグリッパは見抜いていた。


彼は金と人の心の流れを正確に読み解く。


彼の「人心掌握術」は、甘い毒のように相手の心に染み渡り、気づいた時には彼の掌の上で踊らされているのだ。


オクタウィアヌスが国家の「頭脳」ならば、マエケナスは国家の「血流」を担う男だった。


そして、アグリッパ自身。


彼は自らを「槌」であり「剣」であると任じている。


オクタウィアヌスが未来を描き、マエケナスがそのための道筋を作るのなら、自分はその計画を現実のものとするために、障害を打ち砕き、道を切り拓く実行者となる。


三人の中で最も体格に恵まれ、その手足は長く、分厚い胸板は、彼が日々、剣と槍の訓練を怠っていないことの証だった。


彼は兄を救ってくれた恩人であり、ローマに秩序をもたらした英雄カエサルを心から尊敬していた。


そして、その偉大な血を受け継ぐ友、オクタウィアヌスのために、この身を捧げる覚悟はとうにできていた。


「見ろよ、アグリッパ」

不意に、マエケナスが扇を広げ、フォルムの一角を指し示した。


「元老院の連中の顔は、まるで酢を飲んだかのようだ。カエサル閣下の凱旋式では、あれほど媚びへつらっていたというのに」


彼の言う通り、フォルムを歩く元老院議員たちの顔には、凱旋式の熱狂から取り残されたような苦々しい表情が浮かんでいた。


彼らは、カエサルが旧来の貴族ではなく、実務能力のある騎士階級や、時には解放奴隷さえも積極的に登用していることに、強い不満を抱いているのだ。


「だが、市民は歓迎している」

静かに口を開いたのはオクタウィアヌスだった。


「食料に娯楽。そして何より『平和』だ。父上…いや、カエサル閣下は、市民が何を求めているかを正確に理解しておられる。元老院の時代は終わったのだ。これからは、ローマ市民と、軍団と、そして一人の指導者によって動く、新しい国家が生まれる」


その言葉には、絶対的な確信が込められていた。まるで、それが歴史の必然であると知っているかのように。


アグリッパは、友の言葉に静かに頷いた。


彼もまた、同じ未来を見ていた。


アレシアの包囲網を築き、ファルサルスで数倍の敵を打ち破り、そして先日のムンダの戦いでは自ら最前線で剣を振るって崩壊しかけた戦線を立て直したという独裁官。


その天才的な軍事能力と、国家を根底から作り変えようとする壮大な構想力の前では、元老院の嫉妬や陰謀など、取るに足らない些事に思えた。


その時だった。


一人の伝令兵が、息を切らしながら丘を駆け上がってくるのが見えた。


兵士は三人の前で敬礼すると、オクタウィアヌスに一枚の羊皮紙を差し出した。


「カエサル閣下より、皆様に至急参内せよとのご命令です」


三人の間に、緊張が走った。


カエサルが、三人同時に、しかもこれほど急に呼び出すのは異例のことだった。


「…行くぞ」

オクタウィアヌスが短く言うと、三人は顔を見合わせ、力強く頷き合った。


カエサルの邸宅は、彼の権勢を象徴するかのように、壮大でありながら無駄な装飾が一切ない、機能美の塊のような建物だった。


武装したリクトル(護衛官)が警護する中を通り抜け、三人が通された執務室には、ローマの支配者が一人、巨大な地図を広げて待っていた。


ガイウス・ユリウス・カエサル。


五十代半ばに差し掛かり、その額は後退しているが、鷲のような鋭い眼光は少しも衰えていない。


彼の前では、いかなる人間も、その心の奥底まで見透かされているような感覚に陥る。


「来たか」

カエサルは地図から目を上げると、三人を順に見渡し、満足げに頷いた。


特にオクタウィアヌスに向けるその眼差しは、叔父が甥に向けるもの以上に、後継者への期待と愛情に満ちていた。


彼の背後には、三人の腹心が影のように控えている。


カエサルの「静かなる戦争」をローマで実行してきた影の実務家、ガイウス・オッピウス。


カエサル派の金庫番であり、経済戦争の立案者、ルキウス・コルネリウス・バルブス。


そして、ガリアと内乱を、その超人的な「計算」能力で支え抜いたカエサルの「頭脳」、レビルス。


彼ら旧世代の重鎮たちが揃っているということは、これから話される内容が、国家の最重要機密であることを示唆していた。


「お呼びにより参上いたしました、閣下」

オクタウィアヌスが代表して答える。


カエサルは、地図の一点を指し示した。


その場所は、ローマのはるか東、パルティア王国だった。


「内乱は終わった。ローマは一つの意志の下に統一された。だが、我々の仕事はまだ終わってはおらん」


カエサルの声が、静かな室内に響き渡る。

「クラッスス殿の復讐を果たし、東方の脅威を完全に取り除く。そのために、私は遠征を決意した。ローマの全軍団を率いて、パルティアを討つ」


壮大な計画に、若い三人は息を呑んだ。


これは、アレクサンドロス大王の東方遠征にも匹敵する、歴史的な大事業となるだろう。


「この遠征は、数年に及ぶ。私がローマを不在にする間、国家の運営は腹心たちに任せる。そして、お前たちにも、その一翼を担ってもらわねばならん」

カエサルは、まずオクタウィアヌスとアグリッパに向き直った。


「オクタウィアヌス、そしてアグリッパ。お前たちは、ギリシャのアポロニアへ向かえ。彼の地には、マケドニアから精鋭の軍団が集結している。そこで軍事教練に励み、実戦の指揮を学べ。アグリッパ、お前はオクタウィアヌスを守り、その剣となれ。良いな」


「はっ!」

アグリッパは、力強く胸を叩いた。


友を守る剣となる。それこそが、彼の望む生き方だった。


次に、カエサルはマエケナスに目を向けた。


「マエケナス。お前はローマに残れ。そして、オッピウスとバルブスの下で、国家運営の実務を学べ。金が、情報が、そして人の心が、いかにして国家を動かすのかを、その眼で確かめるのだ」


「御意に」

マエケナスは、優雅に一礼した。


その瞳には、知的な好奇心の炎が燃えていた。


命令は、簡潔にして的確だった。


オクタウィアヌスとアグリッパには軍事を、マエケナスには内政を。


カエサルは、この三人の若者の才能を完全に見抜き、それぞれに最も相応しい経験を積ませようとしているのだ。


「心して励め。お前たちは、新しいローマの礎となるのだからな」


その言葉を最後に、カエサルは再び地図に目を落とした。謁見は終わりだった。


邸宅を辞した三人は、黙ったまましばらく歩いていた。


それぞれが、今しがた与えられた使命の重さと、未来への興奮を胸の中で噛みしめていた。


やがて、最初に口を開いたのはマエケナスだった。


「アポロニアか。羨ましいな。ギリシャの哲学者たちと議論を交わす時間があればいいが」


「訓練でそれどころではないだろう」

とアグリッパが笑う。


「だが、マケドニア軍団を指揮できるとは、武人としてこれ以上の誉れはない」


「…父上は、我々に全てを託そうとしておられる」

オクタウィアヌスが、静かに呟いた。


「パルティア遠征は、そのための総仕上げだ。我々がそれぞれの場所で学び、成長し、再びローマで相まみえる時、本当の戦いが始まる。元老院ではない、ローマ市民による、新しい国家を作るための戦いだ」


アグリッパは、友の横顔を見つめた。


その瞳は、もはやローマの街並みではなく、その先にある、まだ誰も見たことのない帝国の誕生を見据えている。


そうだ、とアグリッパは思った。


道は分かたれた。だが、目指す場所は同じだ。


輝かしい未来が、自分たちを待っている。 三人は、そう信じて疑わなかった。


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