第十五章:賽は地に落ちた
場面:アポロニア、三月下旬
時間は、少しだけ遡る。
ローマで、カエサルの国葬が、市民の暴動という最悪の形で幕を閉じた頃。
ギリシャの地、アポロニアは、まだ春の穏やかな日差しの中にあった。
だが、その野営地にいる者たちの心は、イタリアから届いた書簡によって、凍てつく冬へと逆戻りしていた。
ガイウス・ユリウス・カエサル、暗殺さる。
その報は、若きオクタウィアヌスと、その友アグリッパの、輝かしい未来への道を、根底から覆した。
そして、その衝撃が冷めやらぬうちに、第二、第三の矢が、彼らの元へと放たれた。
カエサルの遺言状。
その第一相続人として、オクタウィアヌスが指名されたという、信じがたい報せ。
そして、ローマにいる二人の人物からの、全く対照的な、しかしどちらも彼の運命を左右する手紙だった。
一通は、母アティアと、継父であるルキウス・マルキウス・ピリップスからの、連名の書簡だった。
その文字は、息子の身を案じる親の動揺を映したかのように、激しく乱れていた。
『…ローマへ来てはなりませぬ。アントニウスが、全てを掌握しています。彼らは、あなたをも殺すでしょう。お願いです、我が息子よ。今は、軍団と共にマケドニアの奥深くへ退き、時を待ちなさい。カエサルの名も、その危険な遺産も、全てを放棄するのです…』
それは、息子を愛する母の、当然の、そして理性的な助言だった。
ピリップスもまた、元執政官としての冷静な政治判断から、同じ結論に至っていた。
十八歳の若者が、百戦錬磨のアントニウスに正面から挑むなど、自殺行為に等しい、と。
そして、もう一通。
それは、密使が、誰にも見られぬよう、オクタウィアヌスの手に直接渡してきた、小さな羊皮紙の巻物だった。
差出人の名はない。
だが、その優雅で、しかし冷徹な筆跡は、間違いなく、彼のもう一人の親友、ガイウス・マエケナスのものだった。
『友よ。ローマの空気は、燃えやすい乾いた薪のようだ。アントニウスが投じた火種で、市民という名の薪は、一気に燃え上がった。だが、覚えておいてほしい。薪の炎は、見た目は派手だが、すぐに燃え尽きる。本当に恐ろしいのは、フォルムの片隅で、決して消えることのない、青い炎を宿して燻り続けている、樫の巨木の方だ。彼らこそ、父君が遺した、真の遺産。もし、君が新しいローマを築く気なら、最初に手に入れるべきは、燃えやすい薪ではなく、その巨木の方だろう。健闘を祈る』
アグリッパは、その比喩に満ちた文面の意味を、すぐには理解できなかった。
だが、オクタウィアヌスは、その短い手紙を、何度も、何度も読み返し、その裏に隠された、親友の冷徹な分析を、正確に読み解いていた。
(…樫の巨木…退役兵たちのことか)
マエケナスは、国葬の場で、市民の感情的な熱狂の裏にある、カエサルの退役兵たちの、静かで、しかし決して揺らぐことのない怒りこそが、真の力であることを見抜いていたのだ。
アグリッパは、宿舎の書斎で、何日も、何日も、黙して語らぬ親友の姿を、ただ見守ることしかできなかった。
オクタウィアヌスは、食事もろくに喉を通らず、二通の手紙と、ローマから届く断片的な情報だけを相手に、一人、思考の海に沈んでいた。
母たちの、愛情に満ちた、しかし臆病な助言。
そして、マエケナスの、冷徹で、しかし限りなく野心的な分析。
アグリッパは、軍人だった。
彼にとって、答えは単純明快だった。軍を率いて、ローマへ進軍し、アントニウスを討つ。
あるいは、母君の言う通り、一度退き、再起の時を待つ。
どちらにせよ、行動あるのみだ。
この、何もできぬまま、時だけが過ぎていく状況が、彼を何よりも苛ませた。
だが、彼は、親友の邪魔をしなかった。
彼は知っていた。
この男の戦場は、剣を振るう訓練場ではない。
この、静まり返った書斎こそが、彼の戦場なのだと。
そして、四月のある朝。
オクタウィアヌスは、突然、書斎から出てくると、アグリッパの前に、静かに立った。
その顔は、相変わらず血の気はなかったが、その瞳には、もはや迷いはなかった。
アポロニアで、最初の凶報を聞いたあの日の、絶対零度の光が、再び、その瞳の奥に宿っていた。
「…決めたぞ、アグリッパ」
その声は、静かだったが、もはや少年のものではなかった。
「私は、行く。ローマへ」
「…正気か、オクタウィアヌス」
アグリッパは、思わず言った。
「母君の言う通りだ。アントニウスは、ローマの全てを掌握している。我々には、まだ彼と戦うだけの力がない」
「だからこそ、行くのだ」
オクタウィアヌスは、静かに首を振った。
「もし私が、ここで逃げれば、私は、生涯、ただの『オクタウィアヌス』のままだ。カエサルの名を継ぐ資格を、自ら放棄した、ただの臆病者として、歴史から忘れ去られるだろう。だが、もし、私が行けば…たとえ殺されるかもしれなくとも、私が、カエサルの名を継ぐことを、ローマ世界に宣言すれば、マエケナスの言う、あの『樫の巨木』たちが、動くかもしれない」
彼は、窓の外に広がる、アドリア海の青い海を見つめた。
「父は、ルビコンを渡る時、こう言ったそうだ。『賽は投げられた』と。父は、未来を計算し尽くした上で、最後は、運命に身を委ねた。だが、私は違う」
彼は、アグリッパに向き直った。その瞳は、ローマという国家の運命そのものを見据える、支配者の目だった。
「私は、賽を投げるのではない。この手で、拾いに行くのだ。父が、その死によって、地に落としてしまった、ローマの未来という名の賽を」
その言葉に、アグリッパは、全身が震えるような、深い感銘を受けた。
そうだ、この男は、そういう男だった。
決して運命に身を委ねたりはしない。自らの計算と、意志の力で、運命そのものを、捻じ曲げようとする男なのだ。
「…わかった」
アグリッパは、静かに、しかし力強く頷いた。
「ならば、俺も行こう。お前と共に」
彼は、オクタウィアヌスの前に、静かに片膝をついた。
そして、ローマの軍人が、最高の指揮官に対してのみ行う、最大の敬意を込めて、頭を垂れた。
「お前の剣になる。お前の槌にもなろう。お前が、新しいローマを築き上げるというのなら、そのための礎石の一つに、この身を捧げる」
「…ありがとう、アグリッパ」
オクタウィアヌスは、静かにそう言うと、友の肩に、そっと手を置いた。
二人の若者の、新しい戦争が、その瞬間、始まった。
場面:イタリア、ブルンディシウム。四月中旬
時は、現在に戻る。
イタリア半島の踵、ブルンディシウムの港に、一隻の、何の変哲もない商船が、静かに入港した。
その船から、二人の若者が、イタリアの地に、その第一歩を記した。オクタウィアヌスと、アグリッパ。
彼らの供は、アポロニアから付き従ってきた、数名の学友と、忠実な奴隷たちだけだった。
港町の人々は、彼らが誰であるかを知る由もなかった。
だが、オクタウィアヌスは、港の役人の前に進み出ると、静かに、しかしはっきりと、こう告げた。
「私は、ガイウス・ユリウス・カエサルの養子にして、その後継者だ。今日この日から、私は、父の名を継ぐ」
その宣言は、当初、小さな波紋しか生まなかった。
だが、その波紋は、燎原の火のように、恐るべき速度で、イタリア全土へと広がっていった。
「カエサルの、忘れ形見が、帰ってきたぞ!」
その報を聞き、翌日から、ブルンディシウムの街に、異様な光景が現れ始めた。
一人、また一人と、屈強な、年老いた男たちが、どこからともなく、集まり始めたのだ。
彼らは、退役兵だった。
カエサルから与えられた土地を耕し、静かな余生を送っていたはずの、伝説の兵士たち。
彼らは、錆びついた剣を手に、あるいは、農作業で使う鍬を肩に担ぎ、ただ、主君の忘れ形見に忠誠を誓うためだけに、この場所にやってきたのだ。
アグリッパは、日に日に、その数を増していく男たちの姿を、宿舎の窓から、畏敬と、そして静かな鳥肌が立つのを感じながら、見つめていた。
彼らは、野営地を設営すると、誰に命じられるでもなく、かつての軍団のように、規律正しく行動し始めた。
見張りも、兵糧の管理も、全てが、彼らの身体に染み付いた習慣として、完璧に遂行されていく。
そして、彼らは、オクタウィアヌスの姿を見つけると、その場にひざまずき、涙を流して、その忠誠を誓った。
「若きカエサル様! どうか、我々にお命じを!」
「閣下の無念を晴らすためならば、この命、いつでも差し出しますぞ!」
その熱狂は、もはや誰にも止められない、巨大なうねりとなっていた。
アグリッパは、その光景に、静かな戦慄を覚えた。
(…これが、カエサル閣下が遺したものか…)
それは、金でも、土地でもない。人の心に深く刻み込まれた、忠誠心という名の、最強の軍団。
(そして、オクタウィアヌスは、このことを、マエケナスの手紙によって、計算していたというのか…)
彼は、親友の、恐るべき計算高さに、改めて舌を巻いた。
アントニウスが、ローマで、法と権力を弄んでいる間に、オクタウィアヌスは、このイタリアの地で、最も本質的な力…すなわち、カエサルの退役兵たちの心を、完全に掌握しようとしていたのだ。
夕暮れ時、アグリッパが、膨れ上がった野営地を見下ろしていると、隣に、いつの間にか、オクタウィアヌスが立っていた。
「…すごい光景だな」
アグリッパが、呟くように言った。
「ああ」
と、オクタウィアヌスは静かに頷いた。
「だが、これは、始まりに過ぎない」
彼の瞳は、ブルンディシウムの港ではなく、その遥か先、アントニウスが支配する、ローマの都を見据えていた。
「これから始まるのは、長く、困難な戦いだ。友よ」
「わかっている」
アグリッパは、力強く答えた。
ブルンディシウムの空が、血のような、美しい茜色に染まっていく。
ローマの未来を決する、新しい賽は、今、確かに、地に落ちた。
そして、その賽を巡る、若き獅子たちの戦いが、今まさに、始まろうとしていた。
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