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建国記異聞  作者: 奪胎院
第一部:共和政の黄昏

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第十四章:静かなる懸念

紀元前四十四年、四月上旬。


解放者たちが去った後のローマは、一見すると、奇妙な平穏を取り戻していた。


アントニウスとレピドゥスが掌握する軍団が、街の秩序を力ずくで維持し、市民の暴動も、その対象を失ってからは、徐々に沈静化しつつあった。


カエサル派は、その指導者を失いながらも、一枚岩となってこの危機を乗り越えたかに見えた。


だが、その水面下では、新たな、そしてより根深い亀裂が、静かに広がり始めていた。


その夜、カエサル派の金庫番、ルキウス・コルネリウス・バルブスの邸宅で、三人の男たちが、重い沈黙の中で向き合っていた。


レビルス、オッピウス、そして、この邸宅の主であるバルブス。カエサルという太陽の、影としてその治世を支え続けた、三人の実務家たち。


「…目に余るな」


最初に沈黙を破ったのは、バルブスだった。その声には、金庫番としての冷静さを超えた、明らかな怒りが滲んでいた。


「アントニウス殿は、レピドゥス殿を、新しい大神祇官ポンティフェクス・マクシムスに推薦し、これを強引に可決させた。カエサル閣下が務めておられた、あの神聖な職を、だ。一体、何を考えている」


「考えていることなど、一つしかない」


オッピウスが、影のように静かに、しかし冷たく言い放った。


「レピドゥス殿が握る、市内の軍団だ。大神祇官という最高の名誉を与えることで、彼の軍事力を、完全に自分の手駒として手なずけておこうという、見え透いた取引よ。彼は、もはや法や伝統など意に介さず、剥き出しの権力欲だけで動き始めている」


その分析は、レビルスの計算とも、完全に一致していた。


カエサル派の内部で、軍事力を背景とした、アントニウスとレピドゥスによる寡頭支配体制が、着々と築き上げられつつあった。


自分たちのような、実務を担う文官は、その権力構造から、意図的に排除されようとしていた。


だが、レビルスが抱いていた懸念は、それ以上に、根深いものだった。


「…偽のマリウスの件は、聞いたか」


レビルスの低い声に、オッピウスとバルブスは、顔を硬くした。


偽のマリウス。本名をヘロフィルスというその男は、自身を伝説の将軍ガイウス・マリウスの孫だと偽り、カエサル暗殺後の混乱の中で、多くの貧しい市民たちの支持を集めていた。


彼は、フォルムに祭壇を築き、カエサルの神格化を訴え、民衆の人気を一身に集める、危険な扇動家と化していた。


「アントニウス殿は、その男を、捕らえた」


レビルスは、静かに続けた。


「そして、いかなる正式な裁判も経ることなく、その日のうちに、奴隷が処刑される十字架にかけて、処刑したそうだ」


書斎に、重い沈黙が落ちた。


それは、一見すると、混乱を収拾するための、執政官としての、迅速で果断な処置に見えるかもしれない。


だが、三人は、その行動の裏にある、致命的な本質を、正確に理解していた。


「…計算がない」


レビルスは、吐き捨てるように言った。


「あの男の行動には、カエサル閣下にあったような、冷徹な計算が、一切ない。ただ、己の権威を脅かす者を、感情のままに、力で排除したに過ぎん。閣下ならば、どうされた? おそらくは、あの男を生かしておき、市民の支持を泳がせた上で、自らの人気を高めるための道具として、最大限に利用しただろう。あるいは、正式な裁判を開き、法の正当性を示すことで、逆に元老院の支持を取り付けたかもしれん。だが、アントニウス殿は、そのどちらも選ばなかった。彼は、ただ、獣のように、目の前の敵に喰らいついただけだ」


その言葉は、決定的だった。


三人の間に、一つの、暗黙の合意が形成された。


アントニウスは、カエサルの後継者たり得ない。


彼には、軍人としての勇猛さはあっても、ローマという巨大な国家を治めるための、政治的な計算能力と、何よりも、法と秩序に対する敬意が、決定的に欠けている。


このまま彼にローマを委ねれば、その先に待っているのは、第二、第三の内乱であり、国家の完全な崩壊だけだ。


「…ならば、我々が仕えるべき主君は、一人しかおられん」


オッピウスが、静かに言った。


バルブスが、力強く頷いた。


そして、レビルスは、まるで自らの運命を受け入れるかのように、静かに、しかし鋼のような意志を込めて、宣言した。


「カエサル閣下のご遺志は、絶対だ。そこに記された、正当なる後継者こそが、我々の全てを捧げるべき、唯一の存在だ。私は、閣下が選ばれた、ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス殿に、この身の全てを捧げる」


三人の意志は、その夜、完全に一つとなった。


カエサルが遺した、真の後継者のために。彼らが信じる、真のローマの未来のために。


だが、その決意は、すぐに、無力感という名の厚い壁に突き当たった。


「…しかし、どうする?」


バルブスが、苦渋に満ちた声で言った。


「アントニウスが支配するこのローマに、今、オクタウィアヌス殿をお呼びするのは、あまりにも危険すぎる。虎の檻の中に、子羊を放り込むようなものだ」


オッピウスも、沈痛な表情で頷いた。


「我々の力だけでは、アントニウスとレピドゥスの軍事力には、到底対抗できん。今、我々にできることは…」


「…手紙を送ることだけか」


レビルスは、その言葉を、自嘲気味に引き継いだ。


ローマの影の支配者であるはずの彼らが、今や、遠いギリシャにいる、まだ見ぬ十八歳の青年に、警告の手紙を送り、彼の決断を待つことしかできない。


そのもどかしさが、三人の心を、重く締め付けた。


彼らは、まだ知らなかった。


その、十八歳の青年が、すでに彼らの計算をも超える速さで、自らの運命の賽を、その手に掴み取っていたことを。


そして、その賽が、間もなく、イタリアの地に、確かな音を立てて、落ちることになるのを。


静かな書斎の中で、三人の男たちは、ただ、遠い東の空を、祈るような思いで見つめることしかできなかった。


最後までお読みいただき、ありがとうございます!

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