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建国記異聞  作者: 奪胎院


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第十三章:ローマの新しい主人

フォルム・ロマヌムに投じられた、アントニウスという名の火種は、瞬く間に、ローマ全土を焼き尽くす大火へと燃え上がった。


カエサルの血染めのトーガと、市民への遺産という甘美な約束。その二つによって理性の箍を外された群衆は、もはや市民ではなかった。


それは、憎悪と復讐心に突き動かされる、巨大な一つの獣だった。


「解放者どもに死を!」「ブルトゥスを殺せ!」「カッシウスを八つ裂きにしろ!」


獣の咆哮は、ローマの七つの丘に響き渡った。


彼らは、手近な木片や石、あるいは露店から奪った松明を手に、暗殺者たちの邸宅へと、怒りの濁流となってなだれ込んでいった。


壮麗な邸宅の扉は打ち破られ、高価な調度品は路上に引きずり出されては粉々に砕かれ、そして、容赦なく火が放たれた。夜の闇を焦がす炎が、ローマの空を不吉な赤色に染め上げていく。


その混沌の只中を、二人の男が、命からがら逃げ惑っていた。


マルクス・ユニウス・ブルトゥスと、ガイウス・カッシウス・ロンギヌス。


つい数日前まで、ローマの解放者として、市民の歓声に迎えられると信じていた男たち。


今や、その市民たちによって、最も憎むべき逆賊として、その命を狙われていた。


「くそっ…! どいつもこいつも、恩知らずめが!」


カッシウスは、背後から迫る暴徒たちの怒声に、悪態をついた。


彼のリアリズムは、この事態をある程度は予測していた。


だが、市民の怒りが、これほどまでに原始的で、破壊的なものだとは、彼の計算をも超えていた。


一方、ブルトゥスは、もはや言葉さえ失っていた。


その顔は、血の気を失い、まるで死人のように青白い。


彼の瞳には、怒りも、恐怖もなかった。


ただ、自らの理想が、自らが愛したはずのローマ市民によって、完膚なきまでに踏みにじられていく様を、信じられないものを見るかのように、映しているだけだった。


(…これが、ローマ市民の、本当の姿だというのか…?)


自由を与えれば、理性を以てそれを行使してくれると信じていた。


だが、彼らが求めていたのは、自由ではなかった。


ただ、感情の赴くままに憎悪をぶつける対象と、それを煽動する指導者だけだった。


二人は、忠実な数名の奴隷の手引きで、裏道を駆け抜け、夜陰に紛れて、かろうじてローマの城門から脱出した。


彼らが最後に振り返って見た故郷の姿は、憎悪の炎に赤く染まる、地獄そのものだった。


解放者たちは、かくして、ローマを追われた。


彼らが目指す先は、東方属州。


カエサルが総督として任命した、自分たちの同志がいるはずの場所。


そこで再起を図り、もう一度、今度こそ、真の共和政をローマに取り戻すのだと、彼らは誓った。


だが、その誓いが、いかに虚しいものであるかを、この時の彼らは、まだ知る由もなかった。


解放者たちがローマから逃げ去った後、街の混沌を力ずくで鎮圧し、その廃墟の上に、新たな支配者として君臨した男がいた。


マルクス・アントニウス。


彼は、自らの演説が引き起こした暴動を、計算通りに利用した。


市民の怒りが解放者たちへと向かっている間に、彼は、市内に駐屯する唯一の正規軍団を率いるマルクス・アエミリウス・レピドゥスと、密かに会談の席を設けていた。


場所は、アントニウスの邸宅。窓の外では、未だ市民の怒声が遠雷のように響いている。


「…見事なものだったな、アントニウス。君の演説は」


レピドゥスは、葡萄酒の杯を傾けながら、感嘆とも、あるいはかすかな警戒ともつかぬ口調で言った。


彼は、カエサルの副官として、常に法の遵守と秩序の維持に努めてきた、名門貴族出身の穏健派だ。


アントニウスのような、剥き出しの野心と暴力とは、本来、相容れないはずの男だった。


「あれは、俺の言葉ではない。市民の声であり、カエサル閣下の、最後の声だ」


アントニウスは、芝居がかった仕草で、天を仰いだ。


「ブルトゥスも、カッシウスも、ローマから逃げ去った。今や、このローマを守れるのは、我々だけだ、レピドゥス殿。カエサル閣下の、真の遺志を継ぐことができるのは、常にその側で戦ってきた、我々二人だけなのだ」


その言葉に、レピドゥスの眉が、わずかに動いた。


アントニウスは、その反応を見逃さなかった。


彼は、一歩前に進み出ると、レピドゥスの肩に、親しげに手を置いた。


「レビルスや、オッピウス、バルブス…あの者たちは、確かに有能だ。計算も、情報収集も、金儲けも、見事なものだろう。だが、レピドゥス殿、これからのローマに必要なのは、帳簿を眺めるだけの、文官ではない。剣を握り、軍団を率いることができる、我々のような、本物の軍人だ」


その言葉は、甘い毒のように、レピドゥスの自尊心をくすぐった。


彼は、カエサル派の中では、常に一歩引いた立場にいた。


アントニウスのような華々しい武功もなく、レビルスのような異能の才覚もない。


だが、彼には、名門貴族としての誇りと、ローマの軍団を率いているという、自負があった。


「カエサルの遺志を継ぐのは、我々二人だ」


アントニウスは、囁きかけるように言った。


「レビルスたちが、裏でこそこそと計算をさせておけばいい。だが、ローマの『表』の権力は、我々が握る。私が執政官として、そして君が、市内に駐屯する唯一の軍団長として、だ。我々二人が手を組めば、もはや、我々に逆らえる者など、元老院にも、市民の中にも、いや、ローマ世界のどこにもいやしない」


それは、紛れもない、クーデターの誘いだった。


カエサルが築き上げた、軍人と文官の絶妙なバランスを、完全に破壊し、軍事力だけを背景とした、新たな権力構造を築き上げようという、野心的な提案。


レピドゥスは、しばらくの間、沈黙していた。


彼の心の中で、ローマの伝統を守ろうとする貴族としての良心と、権力の中枢に座りたいという野心とが、激しくせめぎ合っていた。


だが、アントニウスが差し出した、共同支配者という名の甘美な果実の誘惑は、あまりにも強力だった。


「…わかった、アントニウス」


やがて、レピドゥスは、静かに、しかしはっきりと頷いた。


「君と、共に往こう。カエサルの名の下に」


その言葉を聞いた瞬間、アントニウスの顔に、猛獣のような、獰猛な笑みが浮かんだ。


カエサル派は、その夜、決定的な亀裂が入った。


表向きは、一枚岩となって解放者派と対峙しながら、その水面下では、新たな、そしてより根深い、内部抗争の種が、確かに蒔かれたのだ。


ローマの、新しい主人が、誕生した瞬間だった。


最後までお読みいただき、ありがとうございます!

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