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建国記異聞  作者: 奪胎院


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第十二章:二つの演説

紀元前四十四年、三月二十日。


フォルム・ロマヌムは、ローマの歴史が始まって以来、これほど多くの市民の悲しみと、熱気と、そして不穏な緊張感に満たされたことはなかっただろう。


ガイウス・ユリウス・カエサルの国葬。


それは、一つの時代の終わりを告げる、荘厳なる儀式であると同時に、ローマの未来を決定づける、静かなる戦争の、最初の会戦でもあった。


レビルスは、カストルとポルックス神殿の階段の上から、眼下に広がる、人の海を見下ろしていた。


彼の隣には、オッピウスとバルブスが、硬い表情で控えている。


主君の亡骸が安置された豪奢な象牙の寝台。その周りを囲む、カエサル派の要人たち。


そして、その全てを飲み込まんばかりに押し寄せる、黒い喪服を纏った市民たちの、巨大なうねり。


(…盤上の駒は、全て出揃った)


レビルスは、冷徹な計算の目で、その光景を分析していた。


ブルトゥスら解放者派は、この国葬の場で、暗殺の正当性を市民に訴え、自らの立場を確立しようとしている。


対するアントニウスは、この市民の悲しみを、解放者派への怒りへと転化させ、自らがカエサル派の筆頭であることを、天下に示そうとしている。


どちらが、市民という名の巨大な駒を、自らの陣営に引き入れるか。


この戦いの勝敗が、今後の全てを決定づける。


最初に演壇ロストラに登ったのは、マルクス・ブルトゥスだった。


彼は、血に濡れたトーガではなく、清廉潔白を象徴するかのような、純白のトーガを纏っていた。


その姿は、罪人ではなく、国家のために汚れ役を引き受けた、孤高の哲人のようだった。


フォルムを支配していた、どよめきと嗚咽が、水を打ったように静まり返る。


「ローマ市民諸君」


ブルトゥスの声は、朗々として、明瞭だった。


その声には、アントニウスのような激情はない。


だが、聞く者の理性に直接語りかける、不思議な説得力があった。


「私が、なぜカエサルを殺したか。その理由を、君たちに説明する義務がある。カエサルは、私の友だった。私は、誰よりも彼を愛していた。だが、私は、カエサル個人を愛する以上に、ローマを、そしてローマの自由を、愛していたのだ!」


彼は、巧みな弁論で、カエサルの独裁がいかに共和政の理念を蝕んでいたかを、理路整然と説いていった。


王になろうとしたこと、元老院を軽んじたこと、法を自らの意のままに捻じ曲げたこと。


「もし、カエサルが生きていれば、君たちは、皆、彼の奴隷となっていただろう。だが今、彼は死んだ。君たちは、再び、自由なローマの市民となったのだ! 私が殺したのは、友人カエサルではない。ローマの自由を脅かした、暴君カエサルなのだ!」


その演説は、完璧だった。


少なくとも、論理の上では。


市民の間に広がっていた感情的な怒りは、ブルトゥスの理知的な言葉によって、その熱を冷まされていく。


市民たちは、静まり返り、彼の言葉に、静かに耳を傾けていた。


レビルスは、その光景を見ながら、内心で、かすかな賞賛と、そしてそれを上回る懸念を感じていた。


(…見事な弁論だ。だが、ブルトゥス…君は、致命的な過ちを犯している。君は、人の心を、理性だけで動かせると信じている)


その、ブルトゥスが作り出した、静かで、理性的な空気を、次の一人の男が、完全に破壊し尽くすことになる。


次に演壇に登ったのは、マルクス・アントニウスだった。


彼は、ブルトゥスとは対照的に、わざと粗末な、所々が擦り切れた喪服を纏っていた。


その顔は、親友を失った悲しみに、やつれ果てているように見えた。


彼は、しばらくの間、何も語らなかった。


ただ、フォルムを埋め尽くす市民たちの顔を、一人ひとり見渡すように、ゆっくりと視線を動かし、そして、天を仰いで、深く、深いため息をついた。


その、計算され尽くした沈黙と仕草だけで、市民の心は、再び、カエサルを失った悲しみへと、引き戻されていった。


「…友よ、市民よ、同胞よ。耳を貸してほしい」


アントニウスの声は、悲しみでかすれていた。


「私は、カエサルを讃えに来たのではない。彼を、この土に葬るために来たのだ。ブルトゥス殿は、カエサルが野心家であったと言われた。もしそれが真実なら、それは重い罪だ。そして、カエサルは、その罪を、重々しく償ったのだ」


彼は、ブルトゥスの言葉を、一度は肯定してみせた。


その上で、彼は、一枚の羊皮紙を、市民たちに高く掲げた。


「ここに、カエサルの遺言状がある! 野心家であったはずのカエサルが、我々に何を遺したか! ローマ市民一人ひとりに、三百セステルティウスを! そして、あの美しいテヴェレの庭園を、我々市民の憩いの場として、永遠に遺贈すると! これが、野心家の為すことか!」


市民の間に、どよめきが走る。


そして、アントニウスは、彼の最後の、そして最強の切り札を、舞台の上に持ち出した。


彼の腹心たちが、厳かに運んできたのは、一本の槍。


そして、その先端に、まるで不吉な軍旗のように掲げられた、あの、三月十五日にカエサルが着ていた、紫のトーガだった。


「見ろ! これが、君たちが愛した、カエサルの最後の姿だ! ブルトゥスとその仲間たちの、あの『高潔なる』男たちの、刃によって、ずたずたに切り裂かれた、我らが父の衣だ!」


アントニウスは、そのトーガに空いた、二十三の刺し傷を、一本一本、指さして見せた。


血で赤黒く変色し、無残に引き裂かれたその布切れは、そこにないはずの、カエサルの苦悶の表情を、市民たちの脳裏に、鮮明に描き出させた。


それを見た瞬間、市民の心に、ブルトゥスが懸命に築き上げた理性の堰は、完全に決壊した。


その、フォルムの熱狂の中心から、少し離れた場所。


雑多な露店が並ぶ一角で、一人の若者が、その光景を、冷たい、醒めた目で見つめていた。


ガイウス・マエケナス。


彼は、裕福な騎士階級の出身で、上質なトーガを粋に着こなし、その優雅な物腰は詩人か哲学者のようだ。だが、その柔和な笑みの裏に、ローマの裏も表も知り尽くした冷徹な現実主義者の顔が隠されていることを、知る者はまだ少ない。


(…見事なものだ、アントニウス)


マエケナスは、心の中で、その扇動の手腕に、ある種の感嘆を覚えていた。


(悲しみを、怒りへと。そして、その怒りを、憎しみへと。人の心の流れを、まるで川の流れを操るかのように、意のままに動かしている)


だが、マエケナスが本当に注目していたのは、アントニウスの演説に熱狂し、涙を流し、今にも暴徒と化しそうな、感情的な市民たちではなかった。


彼の視線は、フォルムの片隅、カエサルの凱旋門の影に、微動だにせず立ち尽くしている、一団の男たちに注がれていた。


退役兵ウェテラヌスたちだ。


彼らは、他の市民のように、泣き叫んだり、拳を振り上げたりはしない。


ただ、静かに、演壇の上で繰り広げられる茶番劇と、それに扇動される愚かな市民たちを、凍てつくような、冷たい怒りの目で見つめている。


彼らの悲しみは、涙となって流れるには、あまりにも深すぎた。


彼らの怒りは、叫び声となって発するには、あまりにも硬質すぎた。


マエケナスは、背筋に、かすかな戦慄が走るのを感じた。


(…あの者たちだ)


彼は、確信した。


(この、移ろいやすい市民の熱狂ではない。決して揺らぐことのない、あの者たちの、静かで、冷たい怒りこそが、次の時代を動かす、真の力となる)


彼らこそが、カエサルの真の遺産。カエサルの軍団そのものなのだ。


(このことを、伝えなければ)


マエケナスは、心の中で、遠いギリシャにいる、二人の親友に語りかけた。


(オクタウィアヌス、アグリッパ。君たちが、これから戦うことになる、本当の相手は、アントニウスではない。君たちが、これから味方に引き入れなければならない、本当の力は、あの者たちなのだ、と)


アントニウスの演説が、クライマックスに達し、市民の怒りが、ついに爆発した。


彼らは、手近な木片や石を手に、暗殺者たちの家へと、怒りの濁流となって、なだれ込んでいった。


ローマの、長い、長い内乱の時代の、本当の幕が、今、切って落とされた。


マエケナスは、その混沌の始まりを、冷徹な目で見つめながら、静かに、その場を立ち去った。


最後までお読みいただき、ありがとうございます!

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