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建国記異聞  作者: 奪胎院


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第十章:秩序の再定義

紀元前四十四年、三月十七日。


カエサル暗殺から二日後のローマは、嵐の前の不気味な静けさに包まれていた。


市民は家に閉じこもり、フォルムの人影はまばらだった。


カピトリヌスの丘にはブルトゥスら解放者派が、市内のフォルムにはレピドゥスの軍団が陣取り、両者は睨み合ったまま動かない。


誰もが、次の一滴が、ローマを再び血の海に変える引き金になることを恐れていた。


その、張り詰めた糸のような緊張を断ち切るべく、元老院の議会が召集された。


議場に集まった議員たちの顔には、疲労と恐怖の色が濃く浮かんでいた。


彼らは、歴史の岐路に立たされていることを自覚していた。


カエサル派に与すれば、解放者派の刃が自分たちに向けられるかもしれない。


解放者派に与すれば、カエサルの退役兵たちが、ローマを火の海にするだろう。


その、絶望的な膠着状態の中に、一人の男が、静かに入場してきた。


執政官、マルクス・アントニウス。


二日前、奴隷の服で命からがら逃げ帰った男とは思えぬほど、その姿は堂々としていた。


彼は、喪に服すかのように黒いトーガを纏っていたが、その歩く姿には、悲しみに打ちひしがれた友人のそれではなく、ローマの運命をその双肩に背負う、最高指導者の威厳が宿っていた。


彼は、議長席に着くと、集まった元老院議員たちを、一人ひとり、ゆっくりと見渡した。


「元老院諸君。そして、ローマの父祖たちよ」


アントニウスの声は、いつものような野太いものではなく、静かで、しかし議場の隅々にまで染み渡る、深い悲しみを湛えていた。


「我々は、我々の父を失った。ガイウス・ユリウス・カエサルという、ローマ史上、最も偉大なる息子を、我々は我々の手で殺めてしまった。この罪は、永遠に消えることはないだろう」


議場が、嗚咽とどよめきに包まれる。


「だが、諸君。我々は、悲しみに暮れているだけではならん。今、我々の足元では、新たな内乱の火種が、燻り始めている。カピトリヌスには、剣を握った同胞がいる。フォルムには、槍を構えた軍団がいる。市民は、恐怖に怯えている。このままでは、ローマは、再びあの百年にわたる血で血を洗う時代へと逆戻りしてしまうだろう」


彼は、そこで一度言葉を切ると、議員たちの心に直接語りかけるように、続けた。


「私は、憎しみからは何も生まれぬと信じる。復讐の連鎖は、断ち切らねばならん。たとえ、それがどれほど辛いことであろうとも。私は、ここに、一つの妥協案を提示したい。ローマを、内乱から救うための、唯一の道を」


アントニウスは、オッピウスが立案した、あの妥協案を、まるで自らが考え出したかのように、荘厳に読み上げた。


「マルクス・ブルトゥスとその同志たちの行動を、過去に遡って一切不問に付す。彼らに、恩赦を与える。その代わり…」


彼は、そこで、議員たちの顔を、鋭く見据えた。


「…その代わり、カエサル閣下が生前に行った政策、法、そして人事、その全てを、今後も完全に有効なものとする! これを、元老院の正式な決定とするのだ!」


議場は、騒然となった。


それは、あまりにも矛盾した提案だったからだ。


暴君を討った者を赦しながら、その暴君の政策は全て維持する。


だが、その矛盾こそが、この妥協案の持つ、悪魔的な巧妙さだった。


内乱を恐れる元老院議員たちにとって、それは、考えうる限り、唯一の落とし所だった。


カエサル派も、解放者派も、どちらの顔も立て、そして何よりも、全面戦争という最悪の事態を回避できる。


アントニウスは、見事に、レビルスたちが描いた筋書き通りの役を、完璧に演じきってみせた。


彼は、激情の猛将であると同時に、ローマの政治という名の舞台を熟知した、天性の役者でもあったのだ。


その日の夕方、元老院は、アントニウスの提案を、圧倒的多数で可決した。


ローマの秩序は、かくして、再定義された。


それは、正義でも、理想でもない。


ただ、恐怖と、政治的計算だけに基づいた、脆く、危うい、ガラス細工の秩序だった。


同じ頃、カエサル派の金庫番、ルキウス・コルネリウス・バルブスの邸宅では、元老院のそれとは全く異なる、もう一つの戦争の準備が、静かに進められていた。


「…状況は、計算通りに進んでいる」


バルブスは、窓の外の喧騒に背を向け、書斎に集めた部下たちに、低い声で告げた。


彼の前には、ローマの裏も表も知り尽くした、様々な貌の男たちが控えていた。


落ちぶれた悲劇役者、市民に人気のあった吟遊詩人、フォルムで一番の物知りとして知られる情報屋、そして、スブッラの安宿街で最も多くの娼婦を抱える、遣り手の女主人。


彼らは、バルブスが、カエサルのために長年かけて築き上げてきた、情報操作のための、秘密の軍団だった。


「諸君。我々の戦いが、始まる」


バルブスは、テーブルの上に、金貨の詰まった革袋を、いくつも置いた。


「これは、戦争だ。剣や槍ではなく、言葉と、噂と、そして人の心の流れを武器とする、『囁きの戦争』だ」


彼は、まず、悲劇役者に命じた。


「お前には、新しい芝居を打ってもらう。題名は、『友の裏切り』だ。偉大で、寛容な指導者が、最も信頼していた部下たちの刃に倒れる物語だ。決して、カエサル閣下の名を出してはならん。だが、芝居を見た全ての市民が、誰のことを語っているのか、理解できるように演じろ」


次に、吟遊詩人に視線を移した。


「君には、新しい歌を作ってもらう。カエサル閣下が、いかに内乱を終わらせ、ローマに平和をもたらしたかを讃える、英雄譚だ。子供たちが、口ずさめるような、覚えやすい旋律がいい。ガリアでの勝利、クレメンティア(寛容)の美徳、そして、市民に約束された、豊かな未来。それらを、美しい言葉で歌い上げるのだ」


そして、情報屋と女主人に向き直った。


「お前たちには、噂を流してもらう。これもまた、決して我々が発信源だと悟られてはならん。『ブルトゥスの母親は、カエサル閣下の長年の愛人だったそうだ。なんという恩知らずか』。『カッシウスは、内乱で閣下に赦された身でありながら、その恩を仇で返した』。『聞いたか? カエサル閣下は、その遺産を、我々市民一人ひとりに、三百セステルティウスずつ、遺してくださったそうだ。だが、ブルトゥスたちが、それを横取りしようとしているらしい』…」


バルブスが紡ぎ出す言葉は、真実と、嘘と、そして人々の欲望を巧みに織り交ぜた、甘い毒だった。


「良いか。我々の目的は、市民を扇動することではない。ただ、種を蒔くのだ。ブルトゥスたちへの、かすかな疑念と、不信感という名の種を。その種が、やがて芽吹き、ローマの世論という名の森を形成するまで、静かに、辛抱強く、水をやり続けるのだ」


集まった男たちは、無言で頷くと、金貨の袋を手に、一人、また一人と、夜の闇へと消えていった。


その日から、ローマの空気は、目には見えぬ速さで、少しずつ、しかし確実に変わり始めた。


浴場で、市場で、安酒場で、人々の口の端に、囁きが上り始める。


それは、やがて来るべき、爆発的な民衆の怒りの、静かな、静かな序曲だった。



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