第九章:静かなる戦争の継続
第一幕:最後の計算
三月の十五日、夜。
カエサルの邸宅は、今や主を失い、深い悲しみと、行く末を見失った混乱の闇に沈んでいた。
妻カルプルニアの、心をかきむしるような慟哭が、静まり返った廊下に虚しく響き渡る。
召使いたちは、恐怖と不安に顔を強張らせ、ただ右往左往するばかりだった。
ローマの太陽が沈んだ今、この邸宅そのものが、巨大な墓標のように、冷たく静まり返っていた。
だが、その感情の嵐の中心で、まるで嵐の目の中のように、冷静さを保ち続けている者たちがいた。
カエサルの書斎。
つい昨日まで、ローマ世界の未来が、この部屋で形作られていた。
今、主のいない黄金の椅子が、虚しく闇の中に浮かび上がっている。
その椅子を前にして、三人の男たちが、重い沈黙の中で向き合っていた。
カエサルの「頭脳」、レビルス。
カエサルの「目」と「耳」、ガイウス・オッピウス。
そして、カエサルの「金庫番」、ルキウス・コルネリウス・バルブス。
彼らは、カエサルという絶対的な指導者を失った、いわば孤児だった。
だが、その顔に、悲しみに打ちひしがれるだけの、無力な感傷はなかった。
彼らの目は、主君の死という、計算上あり得べからざる事態を前にして、次の一手を導き出すための、冷徹な光を宿していた。
「…まず、為すべきことがある」
最初に沈黙を破ったのは、レビルスだった。
彼の声は、いつもと変わらぬ、感情の起伏のない平坦なものだったが、その奥には、氷のような硬質さが感じられた。
「閣下を、お連れする。あのような場所に、いつまでもお一人にしておくわけにはいかない」
ポンペイウス劇場の議事堂。
そこは、今やローマで最も危険な場所だった。
暗殺者たちの仲間が潜んでいるやもしれず、フォルムはパニックに陥った市民で溢れている。兵士を動かせば、それこそ内乱の火種となりかねない。
「…どうするつもりだ、レビルス」
オッピウスが、低い声で尋ねた。
「危険すぎる」
「だからこそ、計算が必要なのだ」
レビルスは、書斎の窓から、闇に沈むローマの街を見渡した。
「兵は使わん。人目につけば、それだけ危険が増す。夜陰に乗じ、最も信頼できる者を、最小限の人数だけ送る。邸宅の裏口を知り尽くし、決して口を割ることのない、忠実な奴隷を三人。彼らに担架を持たせ、裏道だけを通り、静かに、そして尊厳をもって、閣下をお連れするのだ。これならば、誰にも気づかれずに済む」
その計画は、あまりにも静かで、あまりにも大胆だった。
だが、オッピウスとバルブスは、それが現時点で考えうる、唯一最善の策であることを、即座に理解した。
レビルスの頭脳は、主君の死という最大の衝撃を受けてなお、その精度を少しも失ってはいなかった。
彼は、書斎を出ると、数名の奴隷頭の中から、最も忠誠心篤く、屈強な三名を自ら選び出し、静かに、しかし厳然と命令を下した。
三人の奴隷は、涙を堪えながらも、主君の最後の務めに、命を懸ける覚悟をその目に宿し、闇の中へと消えていった。
第二幕:後継者の慟哭と誓い
それから、どれほどの時間が経っただろうか。
書斎の扉が、静かに開け放たれた。
三人の奴隷たちが、担架を厳かに運び込んでくる。
その上に横たえられていたのは、もはや言葉を発することのない、彼らの主君だった。
二十三の刺し傷でずたずたにされたトーガは、おびただしい血を吸って、赤黒く変色している。
だが、その顔は、自らトーガで覆ったおかげか、不思議なほど穏やかに見えた。
まるで、長すぎた戦いの疲れから、ようやく解放されたかのように。
三人は、無言のまま、主君の亡骸の前にひざまずいた。
その瞬間、彼らの心を覆っていた理性の砦が、音を立てて砕け散った。
バルブスは、その禿げ上がった頭を床にこすりつけ、子供のように声を殺して泣いた。
オッピウスは、顔を両手で覆い、その肩を小刻みに震わせた。
そして、レビルス。
彼は、ただ、じっと、主君の顔を見つめていた。
その無表情の仮面の下で、彼の魂が、どれほど激しく慟哭していたか、誰にも知る由はなかった。
ガリアの森で出会い、内乱の全てを共に戦い抜き、新しいローマの設計図を託してくれた、唯一無二の存在。その全てが、今、目の前で、冷たい骸となって横たわっている。
しばらくの沈黙の後、オッピウスが、震える声で言った。
「…レビルス。君が、後を継ぐ気はないか。カエサル閣下の遺志を、君以上に理解している者はいない。我々は、全力で君を支える」
その言葉に、バルブスも、涙に濡れた顔を上げて頷いた。
だが、レビルスは、ゆっくりと首を横に振った。
そして、初めて、その声に、剥き出しの感情を乗せた。
「…私ではない」
その声は、深い、深い悲しみと、そして、それを遥かに上回る、燃えるような怒りに満ちていた。
「私は、計算屋だ。人を率いる器ではない。閣下も、それを望んではおられないだろう」
彼は、ゆっくりと立ち上がると、主君の亡骸に背を向けた。
「そして、何よりも…。今の私には、新しいローマのことなど、考えられない」
彼は、窓の外の闇を、まるでそこに憎むべき敵の姿を見るかのように、睨みつけた。
「今は、ただ一つ。あの者たちを…ブルトゥスを、カッシウスを、その他全ての裏切り者たちを、いかにして、この世から葬り去るか。それ以外、私の頭にはない」
それは、カエサルの後継者としての言葉ではなかった。
ただ一人の人間として、最も敬愛する者を奪われた男の、魂の底からの、復讐の誓いだった。
第三幕:盤上の計算
レビルスのその言葉は、書斎の空気を一変させた。
悲しみの時間は終わった。ここからは、戦争の時間だ。
主君の亡骸が静かに見守る中で、三人の男たちは、具体的な対応策の協議に入った。
「我々の手元に、今、動かせる兵力はない」
口火を切ったのは、オッピウスだった。
彼は、すでに悲しみを乗り越え、影の実務家の冷徹な顔に戻っていた。
「レピドゥス殿の軍団は、まだどちらにつくか旗幟を鮮明にしていない。アントニウス殿は…激情に駆られている。今、下手に動けば内乱は避けられない。それは、ブルトゥスたちの思う壺だ。ならば、戦う盤上は一つしかない。政治と経済の盤上だ」
彼は、一つの大胆な策を提示した。
「『暗殺者たちに恩赦を与える代わりに、カエサル閣下が生前に行った政策や人事を、全て有効とする』。この妥協案を、元老院に提出する。内乱を恐れる元老院ならば、必ずやこの案に乗ってくるはずだ。これにより、我々は、カエサル派が築き上げた権益を、合法的に守ることができる」
それは、敵に塩を送るかのような、屈辱的な提案だった。
だが、レビルスは、その策の裏にある、深謀遠慮を即座に見抜いた。
「…その通りだ、オッピウス。その策には、もう一つの利点がある」
レビルスは、オッピウスの言葉を引き継ぎ、その戦略をさらに深化させた。
「その妥協案は、暗殺者どもを、カエサル閣下が任命された正規の総督として、一時的に認めることになる。これは、短期的に見れば、我々にとって大きな損失だ。ブルトゥス、カッシウス、トレボニウス、そしてデキムス…奴らは、属州の軍団を手に入れることになるだろう。だが、長期的に見れば、これは、アントニウス殿に、これ以上、力をつけさせないための、極めて有効な布石となる」
バルブスが、訝しげな顔をする。
「どういうことだ?」
「考えてみろ。暗殺者どもを正規の総督として認めれば、彼らは合法的に任地へ赴くことになる。つまり、我々の目の前から、ローマから、いなくなるのだ。その間に、我々は足元を固めることができる。そして、属州の軍団を握った彼らと、ローマの権力を握ろうとするアントニウス殿は、いずれ必ず対立する。我々は、その間で主導権を握り続けるのだ。属州を一時的に失うリスクを冒してでも、だ」
カエサル派としての、最初の、そして最も重要な戦略方針が、この三人の間で、完全に固まった。
第四幕:盤上の再建
夜が更け、アントニウスとレピドゥスが、ようやくカエサルの邸宅に合流した。
「何をしている!一刻も早く、レピドゥス殿の軍団を率いて、カピトリヌスの鼠どもを、皆殺しにするぞ!」
アントニウスは、激情に駆られ、そう吠えた。
だが、レビルスは、その激情を、冷たい一言で制した。
「おやめなさい、アントニウス殿。それは、閣下が最も望まぬ道です」
レビルスたちは、すでに固まっていた方針通り、冷静に、オッピウスが立てた「政治的な反撃」案を、アントニウスに提示した。
最初は、「裏切り者に恩赦だと? 気でも狂ったか!」と激昂していたアントニウスだったが、レビルスが、その策の裏にある深謀遠慮…すなわち、今、力で押せば元老院の全てを敵に回すことになること、妥協案で奴らを合法的に分断し、地方に追いやっている間に、我々は足元を固めて一人ずつ確実に潰すのです、という冷徹な計算を説くと、次第にその表情から激情が消えていった。
彼は、猛将であると同時に、抜け目のない政治家でもあった。
この策が、短期的には自分の感情と対立するものの、長期的には、カエサル派全体、ひいては自分自身の利益に繋がることを、彼は理解したのだ。
「…わかった。その策、乗ってやろう」
アントニウスは、忌々しげに、しかしはっきりと頷いた。
「だが、元老院で、その策を可決させる役は、この俺が引き受ける。執政官として、な」
その言葉に、レビルスたちは、静かに頷いた。
カエサル派は、その指導者を失いながらも、その夜、再び一枚岩となって、結束した。
表の顔は、アントニウス。
そして、その裏で、全ての計算と戦略を司るのは、レビルス、オッピウス、バルブス。
主を失った書斎の中で、彼らの、新しい「静かなる戦争」が、今、その幕を開けた。
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