悪役令嬢は元マフィアの有能秘書に溺愛される? ー小説『シルヴィアン・ゴールド』に転生した私はバッドエンド回避に尽力しますー
交通事故だったと思う。
雨の日の夜だった。
大学の授業の後、友達とカフェに寄っていたら帰りが遅くなって、私・進藤みずきは、赤信号を無理に渡ろうとしたんだ。
鳴り響くトラックのクラクションと、目の前に輝くフロントライト。
持っていた傘が手を離れてどこかに飛んだ。
トラックとぶつかった衝撃で、空を何メートルか飛んだ私の身体は、雨で濡れたアスファルトに叩きつけられるみたいにして落ちていた。
激痛と同時に、走馬灯ってこれなのかと思うほど、今までの記憶が早送りで通り過ぎる。最後に思い出したのは、昨夜読み終えた『シルヴィアン・ゴールド』という小説の、私の推し・ラウルのことだった。
あのバッドエンドはちょっとなかったなあ。
もし死ぬんだったら、あの小説の中に転生できたらいいな。
私が主人公のクリスだったら、どうにかしてハッピーエンドに持って行って、推しのラウルを幸せにしてあげるのに。
そんなことを考えながら私の意識は薄れ、たぶん私の命はそこで終わったんだと思う。視界は暗闇に包まれた。
◇
最期のときの記憶を取り戻したとき。
私は洋風の広い書斎、マホガニーと思われる高級かつ重厚な机の前に座っていた。
目の前には、無造作に伸びた後ろ髪をゴムで簡単に結って、上下黒の喪服を身につけた、すらりとした青い瞳の青年が立っている。
黒髪には珍しい、その青い瞳と、端正な顔立ち。
(……まさか。この人って。)
明らかに苛ついた様子の、彼の鋭い視線から逃れるように、私は目線を自分の手元に落とした。漆黒のツーピースの袖口が目に入る。
そして、ふわりと腕にかかる自分の長い髪は、プラチナブロンド……淡い金の色をしていた。
(この場面って……!)
内心、呆然としている私に向かって、彼は言った。
剣呑さを隠しもしない、低い声が耳を打つ。
「クリス。……悪いがよく聞こえなかった。もう一回、言ってくれねえか?」
聞いただけで身体の奥が震えるような、魅力的な低い声。
クリスは彼の声が、そのすらりとした姿が、敏捷な身のこなしが、……いや、その存在そのものが、大好きだった。
彼の名は、ラウル・ヒューストン。
クリスの父であるレオナルド・シルヴィアンが、彼女の家庭教師として連れてきた、マフィア出身のこの青年。マフィアという出自に似合わない綺麗な容姿も、激しい性格も、彼のすべてをクリスは愛していたと言ってよかった。
だからこそ、彼女は告げたのだ。
彼女の父が急な事故で亡くなり、葬儀が終わったこの時に。
私は操り人形のように抑揚のない声で、無表情に言葉を紡いだ。
(だめだ、止められない。)
その時の私は、少しずつクリスの意識を侵食しはじめたところで、主導権はまだクリス自身にあった。彼女の細いけれど確固とした声が、頭に響く。
「決めたの。
お父さまが亡くなった今、私がシルヴィアン財閥のすべてを引き継ぐことになる。新生シルヴィアンに、社長秘書は不要と判断しました。
ラウル・ヒューストンは解雇。……あなたとの婚約も、今日で解消します」
冗談ではないのだと、ラウルは理解したようだった。
「……レオナルドの死で、気でも狂ったのかよ?」
皮肉っぽい笑みを浮かべてラウルが言う。
「至極まともよ」
冷たいクリスの声が、その場に響いた。ラウルは食い下がるように続ける。
「気が変わったから婚約解消するって話か?」
そのラウルの声を聞いて、平坦な声でクリスは言っていた。
「……変わるも何も、もともと、気持ちが無いのに?」
言葉を失うラウル。
小説のままだ。私が愛読していた、『シルヴィアン・ゴールド』という小説の内容そのまま。クリスは流れるように続ける。
「あなたはお父さまが決めた婚約者。
私の人生は私が決めるわ。
それが最大の理由よ」
その台詞は嘘ではなかった。おそらく、その時のクリス……私は、父レオナルド譲りの氷みたいな目をしていたのだろう。クリスの予想通り、短気な性質のラウルはカッと来たように踵を返し、彼女に背を向けた。
ああ。
彼女はそのラウルの広い背中を、どれほど頼りに思っていただろうか。
そう実感してしまうほど、そのラウルのスーツの上からでもわかる、細身だけれど鍛えられた体躯を見たとき、異様に胸が痛んだ。
背中を向けたまま、彼は言った。
「勝手にしやがれ! こっちこそせいせいすらあ!」
そして、激しく部屋のドアが閉まり、クリス……私は部屋にひとり、残された。
同時に、クリスの意識は深層に沈むように消えていき……私がついに彼女の身体を動かせるようになったのは、その時だった。
私はゆっくりと立ち上がり、外の光であふれた大きな窓に歩み寄る。
怒ったラウルが足早に、遠い門の方に歩みを進めているのが見えて……その瞬間、不意に足を止めたラウル、こちらの窓の方を振り返った。
カーテンの影に思わず隠れる。私……クリスの頬は、涙で濡れていた。ここまでは原作通り。でも、原作のクリスは予想通りの結果にほっとして涙を流していたけれど、私の心情は違っていた。
バッドエンド回避。
その言葉だけが頭の中をぐるぐるまわる。
そう。
私は納得いかなかったのだ。
小説『シルヴィアン・ゴールド』は、弱ったクリスがラウルと婚約破棄をしたまま病に倒れ、絶命して終わる。
そんなのってある? 読後感最悪じゃない?
クリスが、ラウルに婚約破棄を告げた瞬間に、私の意識が覚醒したのは仕方ない。
この後をどう変えたらいい?
私は策を練ることにした。
私が転生したからには、絶対にハッピーエンドにしてやるんだからね!
◇
小説『シルヴィアン・ゴールド』は、1990年代後半のニューヨークを舞台に、シルヴィアン家の権勢とラウルの生い立ちの絶望を、クリス視点とラウル視点を織り交ぜて色濃く描いてある。
小説の中でクリスは悪役令嬢を演じ、私の推しはラウルだった。
クリスティーナ・シルヴィアン、通称クリスは身体が弱い。
彼女は、父・レオナルド譲りのプラチナブロンドと明晰な頭脳を持っていたが、虚弱体質で学校に行けなかった。そんなクリスを可哀想に思ったレオナルドが、おもちゃのように与えたコンピューター。それを使ってシルヴィアン家の権勢を裏で支えてきた天才少女。それがクリス。
そして、その天才が遺憾なく能力を発揮できるよう、彼女を支えるために雇われた一人が、家庭教師であり、父・レオナルドの社長秘書も兼務していたラウルだった。
ラウルが去った翌朝。
私が目覚めたとき、一瞬ベッドから起き上がれないかと思うほど、体調は最悪だった。
「……おはようございます、クリス様。
今日は出社して幹部の皆さまへのご挨拶があると、副社長のトルーマンが迎えに来ております」
クリスと同い年の18歳、メイドのナンシーの優しい声が響く。
「そうだったわね……」
私は頭を抑えながら、重い身体をどうにか起こした。
昨日、ラウルをひどい言葉で突き放し、案の定気が短いラウルは激怒し去って行った。それは原作通りの展開だ。
しかしもともと弱いクリス、父親の葬儀に加えてラウルとの別れは精神的なショックが大きく、自分がしたこととは言え、昨夜は夜遅くまで眠れなかった。
徐々に私の思うように身体を動かせるようになってきているけれど、まだ、うっすらと心の奥にクリスの意識が残っている。クリスが受けたショックは、体調悪化にすぐつながると言う状態だった。
さて、どうするべきか……。
「……熱は落ち着いたようですね」
やわらかく額に手を当ててくるナンシーに微笑み、私はベッドから降りる。
ナンシーは心配そうな声で、続けた。
「昨日、ラウルが怒って出て行ったようでしたが……」
「……ええ。婚約を解消して、ラウルを解雇したの」
「…………」
ナンシーが驚いて私を見る。
「どうしてですか?」
「……それが私の希望だったから」
「嘘ですよね?」
普通、使用人がこういう言い方をしたら令嬢は怒るものだろうか。
しかし、生来病弱で友達がいなかったクリスにとって、ナンシーは親友同然のメイドだった。
婚約解消と、ラウルの解雇。この流れを覆してハッピーエンドに持ち込むには、ナンシーの協力も必要だ。私は少し微笑んだ。
「さっきの話は本当だけど、後悔しているの。まずは幹部のおじさまたちにお会いしてくるけれど……帰ったら、ナンシー、相談に乗ってもらえる?」
小首を傾げてそう言うと、ナンシーは我が意を得たりとばかりに頷いた。
「お待ちしております」
「お願いね」
そして私は、朝食を断り、副社長のトルーマンのところに向かった。
◇
もともと素直な性質だったクリスは、年配の幹部たちに受けがよかった。
重役の面々との昼食会を兼ねた話し合いは意外と早い時間に終わり、疲れもあるだろうと、午後二時には解放されていた。明日は休みで、明後日は父が力を入れていた合併協議の決定の日だ。
車窓から見えるニューヨークの摩天楼が、霧のような雨で煙っている。運転手が操るリムジンの後部座席で、私はふかふかの座椅子に身を沈めた。隣には副社長のトルーマンが護衛も兼ねて座っている。
「……ラウルを解雇したという話は、なぜですか?」
トルーマンは38歳。まだ若いが抜きん出た実力で、彼もまた、クリスが手足のように動かせる人材として父が選んだ、もう一人の秀才だった。
マフィア出身で癖のあるラウルともうまくやっていて、二人がいれば財閥の今後は安泰だと父が言っていたことを思い出す。
クリスの意識がふわりと浮かび上がる。
「必要ないから」
端的に私は言って、窓の外を眺め続ける。
この言葉はクリスの深層心理が私に言わせている。体調不良なのもあるけれど、気を抜くと自分よりもクリスが前面に出てくる気がしていた。
曇った空からは、ぽつりぽつりと冬の冷たい雨が降り出していた。
「クリスさまのお体を考えても、ラウルは必要だと思いますが……」
私はトルーマンにうつろな視線を向ける。
午後から少し熱が上がってきたのか、会話をするのもやっとだった。
私はトルーマンを見つめて、言った。
「葬儀のときに聞いた、お父さまの事故の詳細……あれは、本当に仕組まれたものだったの?」
父は急カーブを曲がりきれずに、道路脇の木にぶつかって車が炎上して亡くなった。
実際は車のブレーキが壊され、爆発物が仕込まれていた。二重の計略で、父は誰かに殺されたのだ。
わかってすぐ、葬儀の合間にトルーマンが私に耳打ちした。
このことはまだ、私とトルーマンの間だけの秘密のはずだ。
彼は難しい顔で頷いた。
「そうです。警察に伝え、犯人は秘密裏に捜査中です。幹部の方々ではないと思いたいのですが……」
「わからないわね」
原作を読んだ私は知ってる。犯人は重役の誰かなのだ。今日、昼食会で思い出そうとしたけれど、どうにも顔と名前が結びつかなかった。もどかしいけれど仕方ない。
「なんにしても……ラウルが私の婚約者ということになれば、第二のお父さまが出ないとも限らないわ」
クリスが押し隠していた本音を、私はトルーマンに告げた。
その一言で理解したと言わんばかりに、彼は怜悧な眼差しを私に向ける。
「それで、ラウルを?」
私は無言で視線を窓の外に逸らした。
……と。
雨の中、見慣れた黒の革ジャンが、目の端を横切った気がした。
「止めて!」
ラウルを解雇したのは昨日の今日だ。
でも。
運転手が驚いたように車を止め、私はドアを開けて小雨の中を駆け出していた。
急に車から降りて道を渡った私に、急ブレーキを踏んだニューヨーク名物の黄色いタクシーがクラクションを鳴らす。黒い革ジャン。そして、後ろを無造作に結んだ黒髪。
「待ってラウル……!」
腕に触れて振り向いた人は、二十代前半のラウルではなく、もっと若い少年だった。
「誰だよ、バカじゃねえの!」
口汚く罵って去って行く。
私は呆然と一人、残された。遠くでホイットニー・ヒューストンの有名なラブソングが流れている。いつまでもあなたを愛していると歌うその綺麗な声が、私の頭に無意味に響いた。
「……風邪をひきますよ」
後ろからトルーマンの落ち着いた声がして大きな傘が差し出され、霧のようにしとしとと髪を濡らしていく雨を遮る。私が着ていた上質なコートにも、水滴が跳ねているのが目に入って、私は少し笑った。
「なにしてるのかしらね」
ゆっくり振り返り、車に戻る。
ドアを開けてくれたトルーマンの手が、ふと私の手に触れ……驚いたように彼は言った。
「クリスさま、熱があるのではないですか? 帰ってすぐに休まれてください」
「そうね……そうする」
私はシートに沈みながら、力なく頷いた。
◇
車の中でシートに沈み、私はしばらくうとうとしていた。
夢うつつで、原作でクリスが亡くなる場面を思い出す。
ラウルだけでなく、メイドのナンシーも、いつも冷静だと描写されていたトルーマンですら、皆が悲嘆にくれて希望のかけらもない最後の場面。
あんなことにしてはいけない。
信号待ちで停車するわずかな揺れで意識が浮上し、私は我ながら掠れた声でトルーマンに囁いた。
「トルーマン、やりたいことがあるの」
「なんなりと」
彼の即座の反応にほっとして、私は続けた。
「今日、屋敷に帰ったら、ナンシーに、明後日の企業合併が終わった夜に、ラウルを呼んでもらおうと思っているの」
原作では、クリスはラウルを避け、心配したナンシーがこっそりと彼に連絡したことで、ラウルは屋敷に来る。
でも、ラウルの来訪がクリスの希望だとしたら、ハッピーエンドに進みやすくなるのではないか?
トルーマンも、クリスにはラウルが必要だと言っていた。
察しの良い彼は、私の言葉を聞いて微笑んでいる。
「では、合併の話は速やかに完了させましょう」
彼は微笑んだまま、そう言った。
そして帰宅後、ベッドに横になった私を介抱するナンシーに、私は朦朧としながら言った。
「ナンシーにお願いがあるの……」
彼女が微笑んだ気配を感じて、私は重い瞼を開ける。
「明後日の合併協議は外せないの。……協議が終わった明後日の夜、ラウルを書斎に呼んでおいてもらえる?」
ナンシーは頷く。
「まかせてください、クリス様。ラウルの携帯電話の番号は存じております」
私は安心して、すうと眠りに落ちてしまう。あとはラウルが来てくれることを待つばかりだ。原作では、その夜にクリスは倒れる。せめてそれを、少しでも良い方向に向けたかった。
◇
合併協議は滞りなく終わった。
「いつも厳めしいアントニオさまが、終始笑顔でしたね」
相手方の会社と別れてエレベーターを待っているとき、トルーマンが低い声で言った。
「……私の方が御しやすいと思っていらっしゃるのではないかしら」
私が言うと、彼も頷く。
専務で同席していたアントニオは、たしか、実の兄である父レオナルドを敵視していると描かれていた。犯人はアントニオ叔父だった? 思い出そうとするけれど、私の記憶は完全に抜け落ちている。
……と、高層階でなかなか来ないエレベーター待ちの間に、噂のアントニオ叔父が私たちに声をかけてきた。
「今日の合併成功で、レオナルド兄さんも喜んでいるだろうな、クリスよ」
「そうですね、おじさま」
私は疲れていたが、なんとか微笑む。
叔父は笑いながら言った。
「あとは事故の犯人が見つかるだけだな」
私とトルーマンはそっと目を見合わせる。
何か車に細工をした犯人がいるという事実は、まだ私とトルーマンだけの秘密のはずだった。
それを知っているということは。
トルーマンが、かすかに笑みながら、携帯電話を取りだした。
「……すぐに来てくれ」
一声だ。
そして彼は、冷徹な声で叔父に告げた。
「アントニオさま、今後のことについて少しお話しておきたいことが」
叔父は何も気付いていないようで、笑って頷く。
エレベーターが開き、そこには階下に待機していた私服警官が数名立っていた。
もしものことがあってはいけないので、警官を数人待機させていると、事前にトルーマンから聞いていた。
「誰も知らないはずの車のことをご存知だった。連れて行って調べてくれ」
トルーマンが温度のまったくない声で告げた。
「なっ、どういうことだ、トルーマン!」
「では、クリスさま。
憂いはひとつ取り除きました。心置きなく、ラウルに会いましょう」
引きずられていく叔父を無視して、トルーマンはそう言って、微笑んだ。
◇
ラウル・ヒューストンはケンカが強く、そして異様に地頭が良い。
天涯孤独でマフィアに拾われ、キッズマフィアの仲間達とシルヴィアンの子会社にハッキングしたことで捕まり、クリスの父・レオナルドに引き抜かれた。
そんな彼の心の穴を埋めたのは、レオナルドが与えた英才教育と、家庭教師として出会ったクリス。
深すぎる夜と長い時間を超えて、ラウルがやっと掴んだ希望の象徴が、レオナルド・シルヴィアンであり、その娘のクリスだった。
血の匂いと喧噪の渦の中、寛ぐことなどほぼ皆無だった少年時代のラウル。
レオナルドやクリスと関わり数年が経過した今になっても、ラウルは時折、マフィア時代のひどい夢を見る。そんなとき、家庭教師の傍ら、クリスの柔らかなプラチナブロンドを指にからめるだけで、ラウルの心は安らいでいた。
「……触っていいか?」
ラウルの口癖だ。
クリスはいつも微笑んで頷いた。二人はいつしか両片思いのような状態になっていた、はずだった。
そのクリスからの拒絶は、彼女の真意とは裏腹に、ラウルにとっては人生が終わったようなものだった。
だが、原作で彼は、合併協議を成功させてTVに映ったクリスが、たった数日でひどく痩せていると気づき驚愕する。
ナンシーの手引きもあり、心配して屋敷に飛んでくるほど、彼のクリスへの愛は深いものだった。
◇
そして、事件当日。
疲れ果てたクリス……私は帰宅して、玄関から続く大階段を上り、書斎へと向かう。心配したナンシーが声をかけるが、私は微笑み返すのがやっとだった。
「クリスさま。少しでも食べなければお体に触ります」
「そうね……あとで少しいただくことにするわ」
私は心配顔のナンシーに微笑みかけた。
誤算だったのは、この身体の想像以上の弱さだ。
他の企業との合併契約を結ぶだけで、今にも倒れそうなほど私はふらふらだった。
重い書斎の扉を開き、私は暗い部屋の中に入った。
原作通りであれば、……そして、打合せ通りであれば、ナンシーの手引きにより、ラウルがここで待っているはずだ。
あの最悪な結末を、回避できるか?
頭の隅でそう考えるのとは裏腹に、身体は重く、今にも床に崩れてしまいそうだった。気のせいか、胸まで苦しい。クリスは心臓も弱かったかな……と、うっすら考えている。
部屋のライトを付ける気力もなく、閉じたドアにぐったりと寄りかかったそのとき、低い声が耳に響いた。
「……すげえ、疲れてるな」
私は重いまぶたを開け、部屋の中央を見る。
大きな窓から入る、月明かり。それに照らされて、執務机にジーンズの両足を行儀悪く投げ出した格好で。黒髪、青い目の青年……ラウルが、そこに座っていた……。
「……口、きけなくなったのかよ?」
ラウルの声。
今ならわかる。この時、クリスは本当は、ラウルを助けるためなら自分はどうなってもいいと思っていたと。
自分さえいなければ、ラウルはシルヴィアン家に囚われず、誰かに狙われることなく自由になれる。世間知らずのクリスはそう考えた。
でも本当にそうだったのだろうか?
そして、物語の結末は救いのない方向に向かってしまった。
「ラウル……どうして、いるの?」
私の口は、原作通りの言葉を紡ぎ出す。
いや、違う。
クリスが話しているのだ。私の奥で、彼女の心の叫びが痛いほど感じられた。
クリスはラウルに、会いたかったのだ。
別れを告げた時から、ずっと。
「ナンシーに入れてもらった」
ラウルはそれだけ言って、足を執務机から降ろし、いっそ優雅な所作でクリスの傍に歩み寄る。
問題はこの後だ。
原作通りならクリスは頑固なまでにラウルとの別れを選び、彼が去った後で倒れる。ナンシーの発見が遅れて、それが命取りになってしまう。
でも。
こんなに、私の心の奥底で、クリスはラウルに会えたことを、喜んでいるのに!
ぽろぽろと、堰を切ったように、私の瞳から涙があふれた。
それを見たラウル、驚いて歩みを止める。
原作ではここで頑なに別れを告げていた。
でも。
「……どうして、泣く?」
呆然としたラウルの声。それはそうだよね。原作ではクリスは必死な気持ちで、冷たくラウルを見つめていた。
私はそんなことできない。
だって。
私は何度か浅い呼吸を繰り返す。
ああ、胸が苦しい。クリス、心臓もよくなかったな。息ができなくなりそうだ。
でも、これだけは言わなきゃ。
私も思ってる。クリスも思ってる。二人が心から思ってる一言を。
「……大好き、なの」
はあ? とラウルの口が動いた。
彼の青い瞳が、ひとつだけ点けられていたサイドテーブルの常備灯に照らされ、美しくきらめく。
ラウルの綺麗な瞳。
宝石みたいだ。
クリスは何度、それを見て言葉を失っただろうか?
原作にはなかった、クリスの心の声が波のように私に打ち寄せ、私は告げた。
「……クリスは、誰より好きなの。ラウルのことが……」
それだけ言って、クリスの身体はもう限界だった。
「え、……クリス!」
苦しくて肩で息をしながら、胸を押さえる。胸の奥が痛くて押さえても治まらない。
ここまでしかできなかったな……。
これでクリスの命は消えてしまうのだろうか? でも、告白できたから、それでもいいのかな。
「……ラウル……」
彼の名前を呼びながら、私は意識を失って、その場に崩れ落ちた。
◇
気がついたとき、ラウルが枕元に座っていた。
目が合う。
「ラウル……」
「……気分は?」
起き上がりかけた私を制して、ぶっきらぼうにラウルが聞いた。
「まだ寝てな。風邪こじらせて高熱出してるんだ。おまけに心臓まで弱ってるって医者が言ってた。これ以上状態が悪くなったら入院だとよ。水飲むか?」
「うん……」
ラウルは手慣れた様子で水を飲ませてくれる。
「トルーマンから聞いたぜ」
話の伝達の速さに、私は驚いてラウルを見つめる。
さすがトルーマン。仕事が早すぎる。
「……レオナルドが誰かに殺されたと思って、俺を遠ざけた?」
皮肉っぽく……いや、どこか傷ついているような雰囲気で微笑して、ラウルは聞いてくる。
当たっているだけに、私は頷くしかなかった。
ラウルは言った。
「俺も迷走したが……そのことでおまえがこんな風に弱ってたら世話ねえよな」
「……ごめんなさい……」
ここは素直に謝るしかないな。目を合わせることができずに謝罪の言葉だけを言う私に、ラウルは頷いたようだった。そして、言った。
「大体、たった三日くらいで、どうしてこんなに激やせしてる? ちゃんと食ってたのか?」
不機嫌にそう言ってくるラウルに、私は目をそらす。
「食欲なかったから」
「……明日からは俺が無理にでも食わせるからな」
その言葉に私は思わずラウルをじっと見つめた。
これなんだよなあ。
推しの推したる所以だ。ぐいぐい引っぱって行くこの強引さ。クリス自身、ラウルのこういうところが心底好きだったはずだった。
でも。
ほんの少し気になることがあり、私は聞いていた。
「あのね、ラウル」
「なに?」
まっすぐクリスを見る真摯な青い瞳。その何もかも受け入れているような彼の視線で私は理解する。
ラウルのクリスに対する愛情も本物だと。
私は言葉を選んだ。
「もし、私が、前のクリスと違う人間だったら、ラウルは、どうする?」
「……わからねえなあ」
眉根を寄せて、ラウルは呟く。
でも次の瞬間。ベッドに起き上がりラウルを見つめる私の肩を優しく抱き寄せ、ラウルは私のこめかみに口づけた。いつもの、触っていいか? という問いかけはない。
不思議に思ってラウルを見つめる私に、彼は笑った。
「いいんじゃねえか?」
「え、……でも」
「おまえが前のクリスと同じとは俺も思っちゃいない」
「……え」
呆然と私は、身体を離してラウルを見た。
ラウルは笑う。
「……前のクリスだったら、こういう時、恥ずかしがってキスまでさせちゃくれねえ」
たしかに。
人に対して免疫がなかったクリスは、極端な恥ずかしがり屋という描写があった。
「俺はおまえの先生だぜ?
あの時……好きだの何だの言った時から、違う人間になったのか? とは思っていたが……でも、それもいいんじゃねえか?」
事も無げにラウルは言った。
「でも」
反論しようとする私の唇を、少し微笑んだラウルは人差し指で優しく塞ぐ。
そして、囁いた。
「喋るのもきついんだろ? 黙って聞いてな。
元のままのクリスだったら......お嬢さま育ちで我儘で強情で、自分の意見は変えやしねえからな。また、ラウルはいらないとかなんとか言って、食えなくなって入院、下手すりゃ命まで取られるのがオチだ。何か変わったから......ああいう告白になって、今おまえが生きてるんだろ?」
そのラウルの柔らかい声の色に、思わず私の目に涙が浮かんだ。
幼い頃からハードすぎる人生を走ってきたラウルは、洞察力と人を見る目に非常に長けていると描写されていた。でも、そうだとしてもすごい分析だった。
ああ、私はこのまま消えてもいいかも。
でも、できればこの後もずっと一緒にいたい。
クリスの魂を心の奥に持ったままで、一緒にいれる限りいてもいいのかな。
そう思った瞬間、胸の奥がぽうっとあたたかくなった。まるでクリス自身が喜んでいるみたいに。
ラウルは微笑んだまま、私の肩にやさしく腕を回して、私たちはゆっくりと唇を重ねた。
そして言った。
「一度断られちゃあいるが……。
一緒にいようぜ。
変わっても変わらなくても、……その両方のクリスと一緒にいたい」
ラウルの声を聞きながら、私の胸の奥でさっきの暖かさが小さな灯りのように光って、くるくると回った。
その時、わかった。
クリスの意識が、私の中に溶け合って、私たち二人が融合しようとしているということ。
一緒にいていいんだ。
そう思った瞬間、その光は綺麗に回転して、私の手足や胸が、頭の奥がほんのりあたたかくなり、そしてきらきらの残像を残して消えた。
「うん、ラウル。一緒にいようね」
私と、そして私の中にたしかに息づくクリスとも。
私の目から涙が零れて……ラウルは微笑んで、頷いた。




