無配慮区域
第一章:配慮社会
言葉は、いつからこんなにも扱いづらくなったのか。
日下部シオンは編集用モニターの前で、黙ったままマウスを握っていた。
画面に映るのは子どもたちのドキュメンタリー。笑い、走り回り、泥だらけになるシーン。だが、政府認可AIのポリコレフィルターが赤い警告ラインを映し出している。
《感情表現:過度》《ジェンダー印象:偏りあり》《容姿描写:個人差を誇張》
「……ただの子どもじゃねぇか」
つぶやいた声は、録音されている。スタジオの天井に設置された感情認識マイクが、即座にそれを拾う。
次の瞬間、壁のパネルに“注意:感情抑制レベル2を超過”の表示。
シオンはため息をついて、声を出すのをやめた。
ここでは“感情”も“本音”も、すでに不適切だ。
彼が勤める制作会社「メディカル・ピクチャーズ」は、政府系文化放送局と提携しており、「倫理基準に準拠した映像制作」を専門としていた。かつては商業映画やMVの編集も手掛けていたが、今はすべて停止中。理由は「情動誘導性が高すぎる」から。
ディレクターとしての彼の役割は、過剰な情緒を削ぎ、配慮のない言葉を消し、無害な映像に仕立て上げることだった。
彼は職務として、それを正確にこなしている。
こなしているはずだった。
数時間後、編集チェックミーティングが行われた。
役所の文化倫理官、社内AI技術員、そしてCUPID婚活庁からのオブザーバーも同席している。
彼女は国民の適正なマッチングパートナー制度を監修している官僚であり、個人思想の偏りを監視する側でもある。
「子どもたちが“競争”している描写は、どういった意図でしょうか?」
「表情の差が激しいのは、カットを選んだ基準にバイアスがあるのでは?」
「この台詞『男のくせに泣くな』という部分は、原音でも含まれていました。これは編集時に除去しなかった理由は?」
何もかもが、槍のように突き刺さってくる。
自分が何を作っているのか、わからなくなってくる。
会議後、同僚の女性――配慮担当ディレクターの村井が小さな声で言った。
「……わたし、最近、恋愛感情が沸かなくて。たぶん制度に毒されてるのかも」
「CUPIDで決められた相手とは、どう?」
「優しいよ。でも“優しさ”が義務になった時点で、もうわたしのじゃない」
シオンは頷くことも、反論することもできなかった。
彼にも、制度で割り当てられたパートナーがいた。顔は悪くない。会話もできる。でも、選んだわけではなかった。
選べなかった。
“選ぶという行為自体が差別的だ”とされて久しい。
帰宅途中、駅の広告ディスプレイには新作ドラマの予告が流れていた。
登場人物は全員、配慮のために無表情で話し、決して怒らず、泣かず、笑わない。
「人間模倣演劇」として、今や最も倫理評価の高い番組となっている。
スマホに通知が来た。
《今週のスピーチ評価:感情偏差±0.2|適正》
つまり、今週も誰も傷つけず、誰にも届かない言葉だけを使って生きたということだ。
シオンは家に戻ると、無音の部屋でカメラの充電を始めた。
昔から愛用している、手動レンズ式の旧型だ。
自分がいつか「本当の世界」を撮る日が来るなら、きっとこのレンズしか信じられないと思っていた。
その日が来るとは、このとき、まだ知らなかった。
第二章:無配慮区域
地方都市・武南市。
高齢化と過疎化が極端に進み、人口の三分の一がAI管理の高齢者施設に収容されているこの町で、
シオンはC局から依頼された地域再生ドキュメンタリーのロケに参加していた。
建前は「地域の魅力再発見」。
だが実態は、行政側が決めた“好意的に見える部分だけ”を切り取って編集する審査通過用の安全コンテンツだった。
現地のコーディネーターに促され、シオンは一人、廃駅近くの旧街道を撮りに出た。
「この辺はAIの監視も弱いから、ちょっとリアルな絵が撮れますよ」
そんな軽い一言に乗ったのが、運の尽きだった。
「ルートはナビに入れてますから」
そう言われた地図は、政府発行の検閲済みアプリ。
表示されていた境界線は、今になって思えば改竄されたものだったのかもしれない。
線路を越えたあたりで、GPSの反応が不安定になった。
スマートメガネに投影された地図が一瞬乱れ、道案内が途切れた。
気づいた時には、街の音がすべて消えていた。
道路はアスファルトが剥がれ、ガードレールの標識は旧文字表記のまま。
自販機は壊され、中身もない。電柱の上に貼られていたのは、風で裂けた“配慮義務区域外”の古い警告看板。
「……あれ?」
違和感に足を止めた時、背後から誰かの声が飛んできた。
「おい、そこの奴。止まれ」
咄嗟に身をすくめた。振り返ると、男が二人。黒ずんだ服、泥のついた手、無精髭。
そのうちの一人が金属バットを肩に担いでいた。
「お前、どこの“奴隷区”から来た?」
「……は?」
男の一人が鼻で笑う。
「何だよその反応。“本土”か。珍しいな、まだ顔に生気が残ってる」
シオンは反射的に「すみません」と言いかけて、言葉を飲み込んだ。
ここでは“謝罪”が弱さを意味するかもしれない。
とっさにカメラバッグを背に回すと、男たちはそれを見て興味を失ったようだった。
「まあいい。すぐ殺すほど暇じゃない。ここがどこかも知らねえで入ってきたなら、運がよかったな」
「……どこなんですか、ここは?」
「無配慮区域。国にとって都合の悪い奴らのゴミ捨て場さ」
彼らは、殺さなかった。
むしろルールを説明してくれた。
ここには政府の監視は届かず、言葉に制限もなければ、人間関係に強制もない。
暴言、皮肉、愛、差別、喧嘩、抱擁――すべてが自由だが、すべてに責任が伴う。
「気に入らねぇ奴がいれば殴れ。殴られたくなきゃ言い方考えろ。そんだけの話だ。どっちも自己責任だ」
まるで、別の文明だった。
仮設のバラックで寝泊まりを許された。
夜、焚き火を囲んで数人の男と女が、酒を回していた。
話題はひどく下品で、時折、口論も起きる。でも誰も黙らない。
シオンは、彼らが時折笑うことに驚いた。
皮肉や罵倒の中にも、笑いがある。
誰も遠慮していない。誰も演技していない。
「お前、あれだろ? 本土で“良い子”してたんだろ?」
年配の女が笑いながら言った。
「顔に出てんのよ。言葉選びに慣れすぎた人の目って、すぐわかるから」
シオンはまた、反射的に笑ってごまかそうとした。
「……すみません、つい」
「出た、“すみません”。ほら、こういうの。こっちは謝ってほしいんじゃなくて、お前の考えが聞きたいのよ」
焚き火の炎に照らされて、女の顔には皺と傷跡があった。でもその目は、妙に澄んでいた。
「どうせなら、ちゃんと怒りなさい。嫌いなら嫌いって言いなさい。こっちでは、そういうのが“礼儀”なんだから」
シオンはその夜、ほとんど眠れなかった。
自分が生まれてからずっと抱えていたもの――
言葉を削り、怒りを飲み込み、空気を読み、何も言わないことを“正しさ”だと信じていたあの人生が、ここでは通用しない。
配慮がない。それだけなのに、なぜこんなにも生々しいのか。
翌朝、ふとした衝動で彼はバッグの奥から、使い慣れた小型カメラを取り出した。
レンズキャップを外し、そっと録画ボタンを押す。
被写体は、焚き火の跡に腰を下ろして歯を磨く男と、近くで子どもと笑いながら卵を焼く少女だった。
それは、完璧に無配慮な朝の風景だった。
第三章:記録者
最初のうちは、ただの記録だった。
この奇妙な空間を、後で冷静に見返せるようにするための“素材撮り”。
シオンは、そう思い込むことで自分を守っていた。
カメラはなるべく目立たないように胸元で構え、録音はバックパックの内ポケットに仕込んだコンデンサーマイクで拾う。
レンズを向ける角度とタイミングには細心の注意を払い、目立たないように息を殺す。
盗撮に近かった。
だが数日が経つにつれ、彼の撮り方は変わっていく。
ある日、焼け焦げたコンロで魚を焼く老人が、カメラに向かって言った。
「そいつで撮ってるんだろ。だったらちゃんと見せてみろ。見せたいと思ったものを、ちゃんと撮れ」
シオンはその時、カメラを正面に構えた。
迷いながらも、シャッターを切る。
次の瞬間、ファインダー越しに映ったのは、あまりに静かで、あまりに人間的な風景だった。
皺だらけの指で箸を使い、丸焦げの魚を半分に割る。
それを横にいた小さな少女に差し出すと、少女は遠慮なくそれを頬張り、うまそうに笑った。
どちらも、見た目は“放送不適切”だ。
だが、そこには魂があった。
夜、シオンはバラックの隅でノートを開き、シーンのメモと撮影記録を残すようになった。
誰に見せるわけでもない、癖のような習慣だった。
•「少年が拾った犬を殺した。理由は、明日食うため。泣きながら、毛を剃っていた」
•「女同士が殴り合って、笑ってハグしてた」
•「暴言を受けた老婆が“ありがとう”と返した。言われたことで“まだ人に見てもらえてる”と泣いてた」
ある日、クロウという名の男に出会った。
長身、顔には無数の傷。元映像作家だという。
「お前、本土の人間だな?」
「……分かりますか」
「目が死んでない。いや、“死んでるふり”が上手い目ってのは、すぐ分かる」
クロウはシオンのカメラを見ると、口の端をわずかに上げた。
「そのレンズは、どっち向いてる?世界か?それとも、お前自身か?」
夜の焚き火の傍で、二人だけの会話が始まった。
「……俺は昔、人の死を撮ってた。災害、戦争、いじめ、事故。テレビで“社会問題”として流すための、ショック映像だ。でも、あれは本物じゃなかった。“誰も責任を取らなくていい映像”を、切り取ってただけだった」
「じゃあ、今は?」
「……俺は、ここに来て、初めて“本当の死”を撮ったよ。ファインダー越しにずっと見ていたのは、俺自身だった」
シオンは黙って聞いていた。
焚き火の火が揺れ、その赤い反射がクロウの目の奥で静かに揺らめいていた。
その夜、シオンは夢を見た。
無言の会議室、笑わない妻、AIによって伏せ字にされた脚本、そして“適正表現”に差し替えられた自分の声。
目を覚ますと、身体中が汗で濡れていた。
だが、それ以上に心が熱かった。
「俺は、これを記録するために生きてる」
初めて、そう思った。
そして同時に理解した。
これを持ち帰った瞬間、自分はもう元の社会には戻れない。
だがそれでも──この“生”を撮ることだけは、やめたくなかった。
彼は翌朝、焚き火の余り火に手をかざしながら、録画ボタンを押した。
マイクの向こうで、誰かが笑い、誰かが怒鳴っている。
そのすべてを、本物としてカメラは記録していた。
第四章:帰還
脱出は、予想以上に静かだった。
誰にも告げず、明け方にバラックを出た。
クロウは何も言わなかった。ただ一度だけ、焚き火の火を強くかき混ぜて、その音だけが送り出す合図のように響いた。
道は、あった。
廃線の下に掘られた古い点検トンネル。
昔、鉄道整備に使われていた名残。今ではほとんど誰も通らない。
シオンはそこを通り抜け、かつての武南市の外れに戻った。
問題は、帰還後の認証だった。
この社会では、顔認証・虹彩・声紋・体内チップによって全身の動きが管理されている。
ただ外へ出るのと、外から戻るのでは意味が違う。
“存在しない区域”から戻ってきたことは、システム上ではありえない移動なのだ。
だが、あの区域の住人の一人がこう言った。
「裏通路から出るなら、身元データに“別の人間”を一時的に被せる方法がある」
渡されたのは、古い医療端末だった。
政府移行前に使用されていた、生体情報を一時記録するための“旧式のIDタグ”。
そこに書き込まれていたのは、「大川進」――かつて地方の変電所に勤めていた技師のデータ。
今も政府の個人データベース上では生存者として登録されているが、
五年以上アクセス履歴も移動履歴もなく、**事実上、社会から消えた“幽霊”**のような存在だった。
シオンは、自身の手首に埋め込まれたデータポートに、違法な生体同期パッチを流し込んだ。
数分間だけ、自身のIDを“他人”として認識させる。
皮膚の下で何かがうごめくような違和感。脈打つ熱。
リスクは高い。だが、方法はこれしかなかった。
駅の無人ゲートが近づいてくる。
認証システムが静かにスキャンを始める。
赤いランプが一瞬、脈を打ち──そして緑に変わった。
認証:成功。
通行履歴:正常。
警告:なし。
ゲートは音もなく開いた。
シオンは、再び“社会”に戻った。
だが、街の空気は冷たかった。
会話は薄く、目線は合わず、全員が無表情で静かだった。
誰も怒らず、誰も泣かず、誰も笑わない。
言葉は、整っている。服も、態度も、すべて“適正”だった。
ここでは、何も壊れない。代わりに、何も始まらない。
帰宅してすぐ、シオンはカメラのメモリをPCに移し、編集作業に取りかかった。
音も、色も、構図も、何も加工しなかった。
手ブレ、ノイズ、怒声、笑い声。
すべてが、そのままだった。
一本の映像にまとめるのに、三日かかった。
一切のナレーションも字幕も入れなかった。
あえてタイトルすら付けず、拡張子だけを残して、動画共有サイトの匿名チャンネルに投稿した。
タイトル:
Untitled_001.mov
アップして一晩、何も反応はなかった。
二日目の朝、動画は削除されていた。
運営の通知はなかった。
ただ、シオンのアカウントには「倫理基準違反」の警告が表示されていた。
だが、その日の夜、別の場所で同じ映像が転載されていた。
誰かが保存して、別の匿名回線から再投稿したのだ。
最初は少数の視聴者しかいなかった。
だが、その中の一人がこう書き込んだ。
「これ、本物じゃないか?」
そこから、拡散は静かに、だが確実に始まった。
SNSでは《暴力的表現》《差別的構図》《子どもの扱いが非適正》など、AIによる自動分析コメントが飛び交う一方、
“感じた”人間のコメントはこうだった。
「はじめて、誰かの声が届いた気がした」
「これが現実なら、俺たちはいま、何を生きてるんだ」
「誰も優しくないのに、なぜか泣いた」
映像は賛否を巻き起こしながら、幾度も削除され、幾度もアップされ直された。
そして四日目の朝、シオンの家のドアが開けられた。
制服を着た二人の男が、言葉もなく入ってくる。
手にしていたのは令状ではなく、**“社会信用スコア緊急凍結通知書”**だった。
声を上げる間もなく、シオンは床に押さえつけられる。
その瞬間、彼のスマートメガネが再起動し、最後の通知を表示した。
《音声発言記録:暴力性疑い|非適合思想スコア:43.8》
《処理カテゴリ:適正措置》
《ご協力、ありがとうございました》
人々はその日、ニュースを見た。
若い男が“倫理違反映像の拡散元”として拘束されたという三行の記事だけが、スクロールの途中に表示されていた。
その下には、広告が並んでいた。
「安心・安全・快適な暮らしのために」
「今こそ、あなたもCUPID登録を」
画面の光が、誰の心にも届かないまま、
夜の都市を、ただ淡々と照らしていた。
最終章:沈黙の終わり
彼の名は、記録から削除された。
アカウント、住所、就業履歴、顔写真、すべて“存在しなかったこと”にされた。
システムは完璧に動いた。
“非適合思想”の痕跡は、国家によって適正に消去された。
だが──その日、画面を閉じなかったものがいた。
通報もせず、コメントもせず、ただ最後まで映像を見続けた一人の少女がいた。
リビングの照明は淡く、父母は別の部屋でAIニュースを聞いていた。
少女は、画面の中で焚き火にあたる誰かの表情を見ていた。
汗をかいた子ども、汚れた手、焦げた魚、笑った顔。
誰も正しくなかった。
けれど──誰も嘘をついていなかった。
次の日、学校では変わらない日常があった。
白い制服、均一なカリキュラム、認証済みの会話、提出義務の“幸福記録レポート”。
少女は何も言わず、そのレポートにこう書いた。
「今日は特に幸福でした。火の匂いがする夢を見ました。誰かが魚を分けてくれました。」
それは、監視AIにとっては意味のない文章だった。
だが、少女にとっては初めて自分の言葉で書いた感想だった。
教師は何も言わなかった。
読み上げも、共有もされなかった。
だが、少女はそのまま席を立ち、次の授業へ向かった。
都市は変わらない。
無表情な群衆、スコアに従って動く人々、誰もが“適正”に生きている。
だが、どこかでまたひとり、あの映像を観る誰かがいる。
削除されても、誰かがそれを記録している。
焚き火の揺らぎ。
笑い声。
死んだような世界の中で、確かに生きていた時間の記録。
それは小さく、誰にも知られない。
だが確かにそこにあった。
そして、それが未来に繋がる何かであると。
正しさとは、誰のためにあるのか?
自由とは、誰に許されたものなのか?
答えはどこにもない。
けれど、問い続けることだけが、まだ許されている。
──それだけが、最後の希望だと思えた。