散文トライポフォビア ~Y市の話~
つまりね、先生がみんなに言いたいのはこういうことなんだ。
地球って大型旅客ジェット機がある。そこに人間が乗っている。部品は生態系だ。ある日、ドードー鳥って名前のネジが一本抜ける。でも、ネジが一本抜けたからって、飛行機はすぐに墜落しない。だよね?
で、また、次の日にはステラーカイギュウってネジが抜ける。抜けたネジ数は二本。でも、ジェット機は墜ちたりしない。だって、ジェット機だよ? 大型ジャンボジェットがネジ二本くらいで墜落したりしない。
そうやって毎日、どこかでネジが一本抜けていくんだ。でも、ネジ一本くらい大したことはない。
ところが、ある日、いつものようにネジが抜ける。もう何本抜けたかわからないくらいネジが抜けていたけど、平気でジェット機は飛んでいる。ところが、その日のネジが抜けるや否や、ジェット機は空中でバラバラになってしまう。
ジェット機がバラバラにならないために何が必要かわかるかい? ドライバーだ。でも、抜けてしまったネジを戻すことはできない。だからね、抜いてしまうんだよ。人間を。
住民の皆さまへ
女の人の良し悪しを胸で判断することは町内会規則で禁止されています。
ただし、ゾゾロがいる場合は特別に許可されます。
ゾゾロを見かけた方は女の人の良し悪しを胸で判断して、ゾゾロを回避し、急ぎその場を離れ、ゾゾロが出現した旨を町内会会長までお知らせください。
決して、ひとりでゾゾロの顔を見てはいけません。
墨町内会
本部から林檎島署各車へ。蜜柑橋六の二八の洋菓子店でシュークリームの中身が抜かれていると通報あり。全車至急、現場に急行せよ。繰り返す、本部から林檎島署各車へ――
「見ろ、飛びあがり自殺だ」
僕は声のするほうを見た。
サラリーマンがひとり、電灯にしがみついている。体は逆さまになって今にも飛び上がりそうだ。警官たちに、それ以上近づいたら手を離すと言っていた。
野次馬たちはスマート・フォンで動画を撮っている。自殺志願者を説得するための訓練を受けているらしい私服の警察官が電灯の柱にかけた梯子を半分くらいまで上がっていた。
そして、サラリーマンにいろいろ言っていた。そのほとんどが、認めて、寄り添うような言葉だった。励ますことは絶対にしなかった。
僕は、頑張れ!と言って見たくなった。それは人殺しと変わらない。
誰かに先を越された。
「頑張れ! 人生を頑張れ!」
サラリーマンの顔が歪み、手を離した。サラリーマンはあっという間に飛び上がっていった。
野次馬たちのスマート・フォンも一緒に上を向く。
サラリーマンはどんどん真上へ飛んでいく。
しばらくして、サラリーマンが手足をジタバタさせた。
飛び上がったことを後悔したようだ。
だが、もうどうしようもない。
死ぬまで飛び上がり続けるしかないのだ。
サラリーマンはやがて、見えなくなった。
「酒とみりん、砂糖が先だ」
「醤油は?」
「後だ。味ってのはしょっぱいほうから具材に染み込む。先に甘くして煮ないと甘味がつかない。せっかくの兜煮がしょっぱくなる。それにしても、見ろよ。脳みそ全部取っ払ったから臭みもない。きちんとした下準備が必要なんだ」
「なあ、その手にしてるのって鷹の爪か?」
「ちょっとだけ入れる」
「それ、荒煮って言えるのか」
「うるせえなあ。金もらうわけじゃないんだから、いいんだよ。自己流ってやつだ」
「目がちかちかしてきた。おれたちが煮てるのは、鯛の頭で間違いないんだよな?」
「そのはずだ」
「魚の頭なのは確実だよな?」
「そのはずだ」
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皮膚と肉の剥離が起きていて、肉と骨の剥離はもっと簡単に発生している。腐敗や鋭利な刃物による切除の跡もない。こういう言い方をすると何だが、肉は新鮮なのだ。
だが、一番の問題は患者自身に自覚がなく、事態を深刻にとらえているものが皆無だということだ。それどころか喜んでいた。ある患者はこの症状を「精神の純化」と呼んでいた。
患者たちのほとんどは簿記二級試験の会場となった斧並大学の錐山キャンパスから運び込まれている。その数は増え続けるだろう。
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コルクボードには写真や新聞記事の切り抜きが画鋲で止められていて、互いに赤い線で結びつながっている。写真のなかにはボードの外に刺してあるものもある。写真はみなカラーでプリントアウトされたものばかりだ。男女の比は同じくらいだが、高校生よりも年上のものはない。学ランやブレザーを着ているものもあれば、七歳くらいの子どももいる。新聞記事はたいていは死体が発見されたことを報じるものだ。新聞に掲載されていないことは警察の資料に記録されている。犠牲者たちはみな舌を鋭利なメスのようなもので切り取られていた。このコルクボードの主がどうやって警察の内部資料を手に入れたのかは分からない。ボードには写真でもなく、新聞記事でもなく、警察資料でもないもので唯一ピンでとめられているのは地元のオレンジジュース工場の見学者向けパンフレットだ。そのそばに白黒コピーの履歴書が画鋲で刺さっていて、名前は牧島アサトとある。その写真が乱暴な赤マジックの○で何重にも囲まれていた。
事件を追っていた女探偵の死体はここから八キロ離れたオレンジジュース工場の、もう使われていない物置のなかに放置されている。首にからまった縄をとろうともがいた跡が首にひどい引っかき傷になって残っていて、指を鉤爪みたいに曲げたまま、腕は曲がって死後硬直している。舌は鋭利なメスのようなもので切り取られていた。
ここは顔バレしたヴァーチャルアイドルたちの終の棲家なんです。外じゃ暮らせませんからね。取材時の注意は先ほども申し上げた通り、絶対に彼らを指差さないでください。それとスマート・フォンの電源も切っておいてください。SNSや動画投稿サイト、ともかくヴァーチャルアイドル活動を思い起こさせるものはNGです。顔バレというのは、本当に酷なものなのです。生きながら、顔の肉を剥がされるようなものですからね。そちらは重症患者の隔離病棟です。具体的に言えば、本物がアイドルクラスにかわいい顔をしていた元ヴァーチャルアイドルたちがいます。実は世間で知られているのとは逆で、もとの素材がいい場合の顔バレのほうが重症化しやすいんですよ。もとがブサイクなら一時は騒がれますが、すぐに忘れ去られます。でも、素材がいいと、――ストーカーや付きまとい、包丁を持ったファンなんかで、すっかり精神が参ります。え? そこから普通のアイドルに行くケースですか? わたしが知っている限りゼロですね。そんなことができるなら、最初からそうしてます。できないからヴァーチャルアイドルなんです。繊細なんですよ。本当に。なかで何をしてるかですか? 読書をしたり、ゲームをしたり。簿記の勉強をしてる人もいます。資格を取るんだって。でも、外出ができないから、難しいですね。
Y市内の全ての建物が燃え上がり、巻きあがる風が人間を飲み込んでいった。飲み込まれた人間は真っ赤に輝く壁にぶつかり、手足を投げ出すように広げたまま貼りついて、焼け死んだ。転べば、踏み殺された。あちこちで骨が砕かれ、皮膚が破れる音がした。わたしの足元でもその音はした。
道の上に飛行物体が落ちて、プロペラで人間が生きたままバラバラになった。家族ははぐれ、しがみつき、枷になっていった。
わたしは圧縮空気で動く列車を目指した。いまとなっては、それだけがこの市から脱出する唯一の手段だった。人で軋んだ道をわたしは必死に駅へと動いた。ときどき、人間が悲鳴を上げて爆発した。同じことが何度も続くと、悲鳴が爆発に先立つと知れ、音がパニックを引き起こすようになった。歩道橋の下で人間が爆発した。大きなアスファルトと鉄の絡まったものが燃えながら、わたしの左、数メートルの人込みをなぎ倒した。一瞬だができた空白には膝頭から上が斬り飛ばされた足が何十本と残ったが、すぐに次の人間が雪崩れ込み、骨がバキバキと割れた。
スピーカーが市民に落ち着いて行動するよう言っていたが、誰もそれに従おうとしなかった。放置された自動車が突然、地面の下に消えた。すぐに穴が広がり、人が飲み込まれた。その穴のなかで何が起こっているのか、予想もつかないし、したくもなかった。
圧縮空気列車の軌道が地下への入り口を開けているのを見つけたが、人はそこへ雪崩れ込むように転がり落ちていた。わたしは左腕の骨を折った。白い割れた骨が血管を引っかけて腕から飛び出していた。わたしが絶叫すると、わたしが爆発すると思った群衆がわたしから離れようとした。プラットホームに隙間ができると、わたしはそこへ飛び出した。わたしがレールに落ちる直前、列車がドアを開いた。
列車が発車すると、必死になって窓を何度もたたく民衆を弾き飛ばし、レールに落ちた人間をひき潰した。わたしは列車内の医務室に連れていかれた。複雑骨折の治療は必要とされたからだ。
「ひどいもんだな」
麻酔を打ってくれた医者が言った。白い髭を生やした、温和な老人だった。
「わたしは隣町の駅からやってきたんだが、Y市で何があったんだ?」
わたしは分からないとこたえた。気がつけば、破滅が起きていた。
ガラス管が地表を出た。列車は青空の下を走っていた。Y市の駅から出て、十分も経っていない。窓から見えるのは住宅街の広がりで、遠くには都心部のビルの群れが霞んで見えた。Y市の炎や煙はどこにも見あたらなかった。
(ピンクのメモ)
……宿題を片づけること
……春菊を買ってくること
(青いメモ)
……春菊を買うとき、母さんからポイントカードを借りるのを忘れないこと
(緑のメモ)
……佐多たちの廃病院肝試しには絶対についていってはいけない
→生きて帰れないのは間違いない
→あそこにはボワボワがいる
→チキン扱いされても絶対に行ってはいけない
(白いメモ)
……予知夢で見たことを佐多たちに一応教える
→それでも行くのなら(ここからは破り取られている)
パワポでつくった会議用資料に誰かが勝手にメッセージを入れやがった。
――良いことをすれば良いことが返ってくる。
——悪いことをしても良いことが返ってくる。
――それを知る人は本当に少ない。
恥かいたぞ、カス。
取水塔の円錐屋根が見える。雲は鱗のように細かく、ときどき釘を打ったみたいな光が差してくる。僕は土手をしばらく歩いた。自分のことをホッチキスだと思っている人と会った。その人は言葉のかわりにホッチキスの芯を吐き出した。モザイクかけるから動画投稿サイトにアップしていいかときいたが、ホッチキスの芯を吐き出されたので、是非が分からない。だから、やめておいた。
ホッチキス男とすれ違ったら、彼の背中一面にシャツの上からホッチキスの芯が刺さっていた。
彼女は探偵だと言った。連続殺人事件を調査をしているのだと。
「本当の探偵は、殺人事件の捜査はしないと思っていました」
「個人的な理由があるんです」
「おれに話せることがあるとは思えないが」
「被害者のひとり、大島美織さんは隣に住んでいますね」
「ああ。でも、話したことはない」
「彼女が行方不明になる前日、裏庭に穴を掘っていたと警察に教えましたね」
「それ、警察から口外するなって言われてるんだよ」
「あなたは、彼女が穴から何を掘り出したか、警察に言っていませんね」
「おれは何も見てないよ」
「警察も馬鹿じゃないから、じきに気づきますよ」
「気づいたら何だっていうんだよ」
「あなたは重要参考人に格上げされます。それが何を意味しているか分かりますよね?」
「おれのこと、脅してるのかよ。何の権限があって——」
「教えてくれたら、あなたの人生から永久に消えます」
「……肉だよ」
「肉?」
「血でベトベトした、ステーキ肉みたいな平らな肉だよ」
「そのとき、彼女は家にひとり?」
「いや。家族は全員いたよ。笑い声がきこえた。夕食の席をちょっとお花摘みに立ったみたいに」
「彼女はあなたに気づきましたか?」
「気づいた。すごい顔で見られた。ひょっとしたら、連続殺人の犯人はこの子じゃないのかって思うほど、すごい顔で」
休み時間、僕は靴下を取り出しました。
ディスカウントストアで買った新品で、小さなサンタがついていました。きれいな靴下です。
乾電池も同じ店で買いました。ええ、単一です。
僕はその乾電池を四つほど靴下のなかに入れました。
カチッ、カチッと音がしていましたが、誰も気づきませんでした。
みんな中学生ですから。
僕は彼女の後ろに立ちました。
彼女はそのとき、副島と柳と話していました。
柳が僕に話しかけましたが、覚えていません。
僕は電池を入れた靴下を振りかぶり、彼女の頭に振り下ろしました。
全部が終わったとき、靴下は血まみれて、彼女の髪がくっついていました。
つまり、プロットはこういうことだ。
感染者と汚染者、憑依者の区別がつかない限り、病院を開放すべきではないというのが全員の意見なんだ。
ところが、職員の半分が感染者であることは間違いない。困ったことに、そいつらは自分が感染していることの自覚がない。片頭痛だとか尿道結石だとか、持病の延長だと思っている。
どっこい汚染者は自分がどうなったのか自覚がある。行き着く先はでろでろの化け物だ。それが分かってるから、精神が壊れちゃってるんだ。
憑依者は宙に浮いている。少なくともそう見える。性別があるのかは知らないが、もはや人間としての原形を留めていないんだ。
どいつもこいつも人間に悪影響を及ぼす。だから、病院に閉じ込める。そうしたら、感染者と汚染者と憑依者は共食いを始める。
そう。だから、この本のタイトルが『蟲毒』になるわけ。
こいつは気持ち悪い本になる。最近、きらきらしたもんばかり出版されてる。だろ?
島はいつも海の上にある。
一度だけ、何か光の具合のおかしさから宙に浮いているように見えたことがあった。
わたしは一度も島に行ったことはないが、行ったことがある人はみな、見るべきところは何もない、漁村があるだけだし、神社や祠もよく清掃されていて、村の真ん中にあるから、肝試しにもならないと言う。
だから、わたしは島に行かない。
友人たちが実はわたしに嘘をついていて、島ではおぞましい呪術が信仰されていたり、他県から誘拐した子どもたちを生贄にして、祠に捧げているかもしれない。
それが本当かどうかはわたしが島へ実際に行ってみるまで分からないからだ。
ぴんぽんぱんぽーん。
本デパートでは忘れ物、落とし物、迷子は一切ございません。
絶対にありえません。あってはならないのです。
もし迷子を見つけたら、それは迷子ではない別のものです。
雲はY市を避けているようだった。港では水が渦を巻いた。人は自分の抱えている問題——商売や定期テストのことで頭がいっぱいだった。
僕は図書館で借りた本の一ページ目を開き、バスがやってくるのを待った。
本の名前は『蟲毒』。こてこてのラブストーリーらしい。
塩素系洗剤をくれ。
郵便ポストにぶち込む。ほんとはガソリンがよかったんだが売ってもらえなかった。
あのポスト、生きてるんだ。そいつは他のやつの手紙は受け付けるのに、おれの手紙は吐き出しやがる。赤くて、一日に二回しか郵便局員が郵便物を回収しに来ない、ただのポストの分際で、このおれの手紙を拒否しやがる。
だから、塩素系洗剤が必要なんだ。どっちが上だか思い知らせてやる。
Y市の上空に天使ルシファーが羽根をまき散らしながら、落ちてきた。
ドレの版画ほどではないが、それなりに見ごたえのある堕天だった。
ルシファーの後ろをベルゼブブがついてくる。
二柱は地獄を統べるべく堕ちている。
地獄ではいまの美しい姿ではいられないと分かっていた。
「どこかに我らにふさわしい姿はないものか」
ルシファーは研究所に落ちた。そこでは生物兵器が造られていた。そこでルシファーは破壊のために生まれた合成生物と融合することで、グアテマラの小説家アストゥリアスのいうところ『魔王のごとく美しく、また悪辣であった』と言われる姿を獲得して、地獄へ堕ちた。研究所があった場所には地獄まで届く深い穴が開いた。
ベルゼブブはそれを見て、ルシファーの旦那、うまくやりやがったな、と思い、研究所を探した。
まもなくベルゼブブも研究所を見つけた。
「おれもかっこいい悪魔になるぞ!」
そう叫びながら、研究所に落ちた。
そこは殺虫剤会社の研究所で世界じゅうのありとあらゆる蠅が集められていた。
笑い穴に落ちると笑いながら死ぬという都市伝説があった。
だが、誰も笑い穴を見たことがないし、笑いながら死んだ人間も見たことがない。
だから、わたしたちは笑い穴がどんなものなのか、分からない。
どのくらいの大きさなのか、どのくらいの深さなのか。底に水が溜まっているのか、あるいは乾いているのか。ひょっとすると、穴の底には旧日本軍の毒ガスがいまだに溜まっていて、そのガスは空気よりも重いから、穴のなかにずっと溜まっているのか。
最近、わたしたちのあいだでホットな穴はルシファーが開けた大きな穴である。直径一キロ、深さは分からない。ワイヤーとウインチが用意され、誰かをフックに縛りつけ、穴のなかに降ろす計画が検討されたが、志願者がいなかった。
そこで他の町から死刑囚を借りて、フックに縛りつけた。
「じゃあな。サタンに会ったら、よろしく言っとけ」
死刑囚は、アムネスティ・インターナショナルが黙っていないとか、くだらないことをぎゃあぎゃあわめいたが、わたしたちは構わず、真っ暗な穴のなかへと降ろしていった。
そのうち、わめき声がきこえなくなり、ワイヤーも出尽くすと、わたしたちは笑い声がきこえないか、耳を澄ませた。
しかし、何もきこえなかった。
フックを引き上げると、死刑囚が消えていた。
とって食われたかな。まあ、構うことはない。どのみち地獄行きの人間だ。
余、神の恩寵と有権者の投票により即位したるY市市長は以下の特別政令を発布する。Y市内のいかなる医療機関も宦官手術を行ってはならない。施術に関与したものは身体へ同等の罰を下し、財産を没収の上、極刑とする。また、宦官手術の施術を知りながら、それを制止しなかったものは財産の半分を没収し、十年の追放処分とする。宦官と知りつつ、これを雇用したものは財産の三分の一を没収し、清掃ボランティアに一年従事することを命ず。本特別政令の施行を拒んだものは官民問わず、禁固三か月の処罰を受けるものとする。
ワイシャツに眼鏡の男が大声で女探偵を追っ払った。
「もう、警察に全部話した! これ以上、しつこくするようなら警察を呼ぶからな!」
女探偵はさらに激昂させるつもりで、バイバイと手をひらひらさせ、階段を降りた。
事務所のドアがバタンと閉じられると、女探偵は煙草を吸える場所を探した。機械のあるところでは禁煙のボードが掲げてある。
シトラスの香りが強すぎるほどにまき散らされた工場の裏手に小さな灰皿がいくつか置かれていて、作業着の若者がひとり、パイプ椅子に座っている。
「社長に怒られたッスね」
「ええ。そんなとこ」
「社長、一度、離婚してるんスよ。不倫した社長が悪いんスけど、そのとき興信所に写真だの音声だのとられまくって、それ以来、探偵を目の敵にしてるッス」
「それこそ逆恨みね。わたしは殺人事件の調査しかしない」
「テレビの探偵さんみたいッスね。正直、僕らみんな、社長が困ることなら何でもしたいって連中ですから、僕が知ってる限りでよかったら、何でもお話するッス」
「助かるわ。ICレコーダー、使ってもいいかしら?」
「構わないッス」
女探偵はレコーダーの電源を入れ、年月日と時刻、場所を吹き込んだ。
「じゃあ、まず伊豆春香さんのことをきかせてくれる?」
「誰?」
「イズハルカ。ここでバイトで働いていたはずだけど」
「いや、知らないッスね。この通り、小さな工場なんで、社員にしろバイトにしろ名前はみんな知ってるッス。その人、どんな人ッスか?」
「法元高校の女子生徒よ」
「女子高生ッスか? なら、ますますありえないッス。オレンジジュースつくるのって結構体力がいるんスよ。男子高校生ならバイトもありえるッスけど、女子高生じゃ体力が続かないッス」
「事務部門は?」
「みんな短大出の正社員ッス」
「でも、最後に見かけられたのは、ここっていう証言があるの」
「最後に? あ、もしかして連続殺人の?」
「ええ」
「うわー、それは大変ッス。うーん。あ、でも、ちょっと待ってください。ひょっとすると、自販機かも」
「自販機?」
「敷地内に自販機が置いてあるんスけど、うちでつくってるオレンジジュースだけしか買えない自販機なんス。珍しいものだから、インスタとかに上げてる人がいるみたいッス」
「それ、見てもいいかしら」
工場の敷地、駐車場の近くにそれはあった。どこかレトロで、缶は全部、この工場のオレンジジュースだ。
「大手じゃない、地元の限定オレンジジュースってことで、結構評判がいいんス」
周囲を見ると、そばに草むらがあり、細い道が伸びている。
「この道は?」
「物置があるはずッス。今はもう使ってなくて、僕も行ったことはないんで詳しくは知らないッス。もし、見たいんでしたら――」
牧島ぁ! どこで油売ってる! とっとと戻ってこい!と拡声器が怒鳴りつける。
「あー、社長だ。オネーサンも帰ったほうがいいッスよ。社長、ホントにケーサツの人にコネがあるから、見つかったらマジ大変ッス」
「そうみたいね。協力ありがとう。わたしの名刺を渡しておくわ。もし、何か思い出したら、あ――」
「どうかしたッスか?」
「レコーダー、あなたの名前を吹き込んでなかった。よかったら、教えてくれるかしら?」
「もちろんッス。名前は牧島アサト。牧は牧場の牧。島は島流しの島。アサトはカタカナっス」
ダーク・モカ・チョコチップ・インファントリー・カチャトーレ・グロティウス・アクアパッツァ・キャピタル・パニッシュメント・サクリファイス・ユスティニアヌス・ディヴィジョナル・チェントリオーネ・ヘッドバンキング・フラペチーノのMサイズください。
ティラノサウルスは切腹ができない。
昨日の人体発火
死亡 1
負傷 21
僕は本当に都市伝説初心者だった。こっくりさんの呼び方すら知らなかった。初心な僕は何かを呼び出したくて仕方がなかった。祟られたかったし、とりつかれたかった。毎日、最寄り駅に降りるとき、駅がきさらぎ駅になっていないかと期待した。八尺様に会いたかった。
しかし、僕のたくらみはことごとく失敗した。駅はいつもの駅だったし、せっかく見つけた八尺様も背が一寸足りなくて、ただのデカいお姉さんだった。
そんなわけで絶望していた僕に思わぬ救いの手がチラシの形で差し伸べられた。
『実験体募集
対象:健康な男子高校生
内容:殺傷力の高い生物兵器への改造
期間:半年
改造から半年後に野に放つとお約束します』
これだと思った。人ならざるものになれば、僕自身が都市伝説になれるってわけだ。
僕は早速応募して、両親からのサインももらい、培養液で満たしたガラス水槽のなかでぷかぷか浮かびながら、牙だの爪だの翼だの最終形態だのを付与してもらった。都市伝説になれる半年まであと少しだと思ったとき、爆音がした。何かが研究所に落ちてきた。天井が崩れて、穴が開き、僕のガラス槽がそのマヌケ野郎に向かって倒れてしまい――
海藻みたいに歩くやつらがいる。ぞろぞろと気色悪い。やつらと一緒に銭湯に浸かると体に出汁のにおいがつく。やつらは軒並み倒錯者だ。何せ塩昆布をひとつ買って食うだけでカニバリズムが達成される。やつらが教師になったら、それこそ大変だ。海藻がいかに地球環境に貢献しているか、そればかり教える。九九ができない、自分の名前を漢字で書けないガキが大量生産されている。そのくせ、ワカメの生活史に妙に詳しい。このままじゃいかん。海藻野郎どもをY市から追放しないといけない。ネジを抜かないといけない。
『それは確かに妻と娘ふたりの顔をしていた。四つん這いになって、さらってきた子どもの腹に顔を突っ込んで内臓をむさぼり、肉を噛みちぎって食べていた。
許してほしい。ひとりで生きることができなかったのだ。
こんなことになるなら、薬など投与しなかった。
彼女たちがわたしを食べないのはわたしが肉を運んできてくれるからだ。情はない。
ドアを開け放したまま自殺することを許してほしい。餓死させたくなかった。
こんな化け物でも、わたしにはかけがえのない家族なのだ』
――夕食会にまねかれた家で見つけた手紙より抜粋
幻のラジオ体操第四をきいてみたんだが、明らかに頭が三つある人間を対象とした体操だった。
おっと誰かが来たようだ。
「水位が赤いラインに来るギリギリまでここにいろと言われたんだが、地元の人間はそれじゃ手遅れって言うんだよ。でも、無断帰宅したと思われるのも嫌なんだけどなあ」
「サイレンは?」
「緑のところに来たら、鳴らせってさ」
「村じゃサイレンが鳴ってからの避難じゃ間に合わないから自主避難してるらしいな」
「まいったなあ。時給二千円じゃ割りに合わない気がしてきた」
連隊長閣下は最後の一兵までこの神国を守り抜くとおっしゃられ、Y山の地下に掘りめぐらされたトンネルの網を利用すると力強く仰せになられました。このトンネルはその出入口を巧妙に草で隠しているので、神出鬼没に出撃して米兵たちを翻弄し、片っ端から倒していくのだとおっしゃられました。さらにこの地下陣地はたとえ戦車がやってきても、耐えることができる、いや、むしろ地下からひそかに敵タンクの側面は後背から爆薬を手に突っ込んで撃破することも可能なのだと力説しました。連隊長閣下はわたしたち全員が布団爆弾を抱えて突っ込むことをはっきりと言葉にはせずとも、言外の意に含めて望まれました。また、連隊長閣下は秘密の兵器があるとわたしたちに仰せになりました。それは笑いガスでした。このガスを吸い込むと、神経系に異常をきたし、死んでしまうまで笑い続けるのです。そのような秘密兵器があることにわたしたちは力強く思い、天皇陛下のため、神国日本、そして愛する家族のために最後の一兵まで戦おうと決意を新たにしたのでございます。
警部補が思い出すのは元妻の死に顔だった。
ふたつの死に顔。ひとつは元義両親に頼まれて、霊安室で見た、眠っているような死に顔。
もうひとつはオレンジジュース工場の物置で見た、目が飛び出し、舌を切り取られ、指を曲げた、死に顔。
特別捜査本部は牧島アサトを全国指名手配した。
オレンジジュース工場の社長は昨晩、自殺した。牧島に彼女の名刺を渡したんじゃないかとマスコミに連日報道され、彼女が死んだ責任を押しつけられた。
いま、警部補はY山に開いた草深いトンネルの入り口にいる。
牧島アサトからの挑戦状。そこには『やろうと思えば、あなたの元奥さんを犯せましたが、それはしませんでした』と書いてあった。
頭に巻くタイプのライトに予備のライトが二本。バッテリーと電池。それに半グレから取り上げた飛び出しナイフ。拳銃。
無断の持ち出しだから、懲戒免職だろう。
だが、牧島アサトにはそれだけの価値があった。
これまでに殺された十二人の被害者。
十三人目はない。ここで引導を渡す。
トンネルに一歩足を踏み出すと、その闇の奥からバットマンのジョーカーみたいな邪悪な笑いが響いてきた。