優しすぎる世界
私は朽野乙女のために温かい紅茶を自販機で買い、彼女に差し出した。彼女はそれを受け取って蓋を開き、口をつけようとしたけれど……私と同じように何も喉を通る気がしないのか、結局飲まずに蓋を閉めた。
彼が事故に遭ってから彼女と遭うのは初めてだ。
今の私にとって彼女は一番顔を合わせたくない相手だったけれど、むしろ……私に酷い言葉をくれるのではと期待できる相手でもあった。
お互い向き合って席についたけれど、私は彼女と目を合わせられず、黙って俯いていた。
私は、彼女に聞かなければならないことがある。どうして、彼女とクリスマスデートをしていたはずの彼が、私の元へやって来たのか。彼女はその経緯を知っているはずだ。
だけど……私にそれを聞く資格があるのだろうか。
彼女も、心に深い傷を負っているはずだ。長い間ずっと一緒にいた、想いを寄せていた幼馴染が、目も開かず、物言わぬ植物状態になってしまったのだから……。
だから彼女も、私と同じ気持ちなのだろうか?
彼女なら、私の気持ちもわかってくれる? わかりあえる存在になってくれる?
いや……私がそんなものを望んではいけない。
「シャルロワ会長」
ずっと黙ってうつむいていた私は、彼女に呼ばれて顔を上げた。すると彼女は、こんな状況には不釣り合いに思える穏やかな笑みを浮かべながら口を開いた。
「朧の気持ちを、聞くことは出来ましたか?」
あの時の情景が、ふと鮮明に蘇る。
『俺をお前の元に向かわせたのはアイツだ。アイツが俺の背中を押したんだよ』
確かに、彼は言っていた。
彼女が、後押ししてくれたのだと。
彼女も、私と同じぐらい、いやそれ以上かもしれないぐらい、彼のことを好いているはずなのに……。
「あぁ……」
あの時のことを思い出すだけで、涙が頬を伝う。彼からの想いが伝わった嬉しさと、その笑顔が消えた悲しみが入り乱れたグチャグチャの感情の波に飲み込まれて、柄にもなくボロボロと涙を流してしまう。
何度も、何度も、何度もあの瞬間の光景が蘇る。
まさか、前世で彼と離れ離れになった時よりも、洪水に巻き込まれて死んだ時よりも、辛い記憶が刻み込まれてしまうなんて──私は我を忘れて泣き崩れていたけれど、そんな私の頭が突然温もりに包まれた。
「その様子を見るに、ちゃんと聞けたみたいですね」
朽野乙女が、泣いている私をギュッと抱きしめてくれたのだ。その慎ましくも柔らかく温かい胸で私の顔を包みながら彼女は言う。
「あの時、朧は何かを覚悟したように見えたんです。もしかしたら、こうなることがわかっていたのかも」
私も彼もわかっていた。元々幼馴染同士でフラグもなくはなかった烏夜朧と朽野乙女の二人ならまだしも、本来ネブスペ2原作で結ばれる可能性が皆無の烏夜朧とエレオノラ・シャルロワが結ばれてしまうと、その大きなバグによって、以前朽野乙女や琴ヶ岡ベガが消えた時のように誰かが消えてしまうか、世界が滅亡してしまう可能性があった。
彼は、そんな未来も予見しながら、自分がこんな状態になるかもしれないとわかっていながら、私のために……どうして。
「貴方は……こんなことになって、辛くないの?」
彼女はなおも私を抱きしめながら、涙声で言う。
「朧の夢が叶ったのなら、私は嬉しいです」
それは、意外過ぎる言葉だった。
今の彼女からそんな言葉が出てくるとは思えなかった。もし私が彼女の立場だったなら、絶対にそんなことは言えない。
「私は、いつかこんな日が来るんじゃないかと思っていたんです。私が月ノ宮を離れるかもしれなかった時は、もう朧と一緒にいられる時間は短いのかもと思って、月ノ宮が宇宙船の攻撃を受けた時は、もしかしたら、いつか朧と永遠に別れなければならない時が来るんじゃないかと思って……だから私は後悔しないように、自分の正直な気持ちを朧に伝えたんです」
かつて前世の私は、自分の過去の思い出を、朽野乙女というキャラに投影していた。流石におこがましいと思ってヒロインにはしなかったけれども、物語のヒロインにふさわしいくらいのバックグラウンドを与えてしまった。
「私は怖かったんです。私が素直になってしまうことで、朧との関係が変わってしまうんじゃないかと。今日の笑顔と明日の笑顔の意味が変わってしまうんじゃないかと。今のままでも十分幸せだから、何も変えなくて良いんじゃないかと……でも、変えないと、このまま終わっちゃう気がしたんです。
だから私は、朧にも後悔してほしくなくて……」
でも、私と彼女は違う。
彼女は後悔したくないからという理由で、行動に移せる人間だ。私が持ち合わせていない勇気を持っているからこそ、彼女はヒロインにふさわしい。
「もし、私が朧に想いを伝えないまま、アイツと離れ離れになったら……もしもあの時、自分が行動していたらどうなっていたんだろうって、実現するわけのない、ありもしない思い出を夢見て、いつか前に進めなくなる時が来ちゃうかも……なら、どんな結果が訪れようとも、いつかそれが良い思い出に、彼と過ごした青春の思い出を、いつか笑えるようになるって……私は、信じています」
でも……自分の想い人を恋敵に譲ってしまうだなんていう負けヒロインムーブなんて、私は望んでいない。
「貴方は、本当に悲しくないの?」
私は、もう一度彼女に問うた。するとポツリ、と私の頭に水滴が落ちた。
ゆっくりと顔を上げると、やはり彼女もポロポロと涙を流していたのだった。
「悲しい、ですよ」
涙を流しながらも、彼女は私に笑ってみせた。
「でも、私達は信じるしかないんです。朧が目覚めることを……」
あぁ、やっぱり。
やっぱり、彼女は私と違う。
今、彼を信じることが出来るのだから……。
「きっと朧なら、変なタイミングで急に目覚めて、ケロッとした様子でいつもみたいに笑ってくれますよ。きっと……」
その後、私と彼女は二人きりで泣き続けた。お互いにお互いを力強く抱きしめながら、自分達に襲いかかる不安を、恐怖を取り除くために、ギュッと、力強く。
「シャルロワ会長は、朧から告白されて、嬉しくなかったんですか?」
彼女の胸の中に顔を埋めながら、私は首を横に振った。
「なら、良かったです。きっとその方が、朧も喜びますよ」
ダメだ。
やっぱり、この世界は私に優しすぎる。
彼が言う通り、本当にこの世界は、私の願いが具現化してしまった世界なのだろうか。
ならばどうして、彼があんな目に遭わないといけないの……?
その後、続々と彼を見舞うために知人達がやって来た。第一部から第三部までの主要なキャラだけでなく、天野太陽やブルー、さらにコガネやレギナなど、初代ネブスペの面々もやって来るだなんて、彼の人望には驚かされる。
やはり知人が突然植物状態になってしまったことに皆はショックを隠せないようで、涙を流す者もいた。それでも、皆……彼が目覚めて、再び元気になることを望んでくれていた。
しかし、お見舞いに訪ねてきた人々の中で、彼が本当に目覚めると信じている人はどれだけいたのだろう。
やはり彼は目覚めない。静かに眠り、穏やかな寝顔を私達に見せるだけ。頬を叩けば、彼の名前を呼べばパッと目を開けるんじゃないかと思うけれども、そんな簡単に彼は目覚めなかった。
しかし、彼が目覚める可能性なんて殆どないのに、私や朽野乙女、そして十六夜夢那は、いつか彼が目覚めるんじゃないかと、病室で彼の寝顔を見つめ続けていた。
僅かな希望と、大きな絶望を胸に抱きながら……。




