奇跡が起きても
悪い夢を見た。
この世界を照らしていた希望の光が暗雲に包まれ、終末の刻を知らせるラッパが鳴り響いているかのように感じた。
世界の希望、というのは大袈裟な表現に聞こえるかもしれない。でも、私にとって彼はそんな存在だった。
これまでに何度も、私は烏夜朧の死を見てきた。ネブスペ2のヒロイン達のバッドエンドに偶然登場したかと思えば、時には火災に巻き込まれた友人達を救うために犠牲になったり、発狂したヒロインに惨殺されたり、屋上から飛び降りたヒロインと衝突してしまったり、事のついで感覚で毒死されてしまったりと、プレイヤー達が選んだ選択肢次第で、主人公と共に命を失う運命にある。
そんな死の運命を乗り越えたとしても、烏夜朧の死は唐突にやって来る。十二月二十四日、彼の誕生日の前日に、メルシナ・シャルロワを庇って死んでしまうのだ。律儀に全ヒロインのグッドエンドとバッドエンドを回収し、トゥルーエンドの世界へ辿り着いたプレイヤーのみ、烏夜朧が生きている世界を見ることが出来るけれど……このエンディングは何なのだろう?
ただ、私にとっては紛れもなくバッドエンドだった。
私の悪夢は、今も続いている。
早朝の病院の診察室にて、彼の頭部を映したレントゲン写真を見させられ、手術を担当した医師であり、初代ネブスペのヒロインであるアクア・パイエオンが、彼の状況を説明してくれていた。
「彼に直撃した看板の重さは五百キロ以上。当たりどころが悪かったら即死だったでしょうね」
それは、奇跡としか言いようがない出来事だった。
彼は五百キロ以上の看板の落下の直撃を受けながらも、生還したのだ。
「仮に当たりどころが良かったとしても、普通ならこんな重いものが直撃した時点で死んでいてもおかしくないし、こんな看板の下敷きになってしまったら、遅かれ早かれ圧死していた可能性もあった。迅速な救助が功を奏した形ね」
事故が起きた直後、大きな衝撃音を聞いてやってきたノザクロのマスターがやって来て、その怪力で看板を持ち上げ、下敷きになっていた彼を救出してくれたのだ。
すぐに救急車もやって来て彼は葉室総合病院へ救急搬送され、緊急手術で一命を取り留めたけれど……奇跡は、そこで終わりだった。
「十一月、地球を襲撃した宇宙船が月ノ宮を攻撃した時、彼が大怪我を負ったのは貴方も知っているはずよね?」
彼の頭部を映したいくつかのレントゲン写真の中には、十一月に彼の頭蓋骨にヒビが入った時のものあった。あの時、屋上から落ちた私を助けるべく、そして私を守るために、彼は大怪我を負ったのだ。
そして今回の事故により、彼の頭蓋骨の一部は破壊され脳に強い衝撃が加わり、所謂脳挫傷に陥った。
「その時の頭蓋骨自体に問題はなかったけれど、まだ治りきっていなかった患部に強い衝撃を受けたことで、内部の脳組織に大きなダメージが入り、脳波はかなりフラットな状態……彼の脳は殆ど活動していないわ」
あの事故から彼が生還したことは、紛れもなく奇跡だった。
でも、なんとか『生存』しているという状態に持ち込むだけで限界だったのだ。
「つまり、これは所謂、脳死というものね」
時に、植物状態とも呼ばれる。
生きていたとしても……ただ最低限の生命維持活動をしているだけの状態。
「残念ながら、目覚める可能性は皆無と言っていいぐらいよ。意識を回復する事例もあるけれど、重度の障害が残る可能性が高いわね。
こんなことは言いたくないけれど……例え回復してどれだけリハビリを繰り返しても、かつてのような日常生活に戻れる可能性は殆どないし、そもそも意識が回復しないという未来を覚悟した方が良いわね」
その言葉は、私の心のどこかに残っていた僅かな希望を、跡形もなく打ち砕いたのだった。
容態が安定し彼は集中治療室から出ることが出来たけれど、彼のために用意された病室で、様々な器具を取り付けられた状態で、ベッドの上に寝かされていた。
頭には包帯が巻かれており、元々骨折していた右腕だけでなく肩や足も骨が折れてしまったからさらにギプスも増えてしまっているけれど、彼の寝顔はとても安らかに見えた。
今すぐいつものように目覚めるのではないかと、そんな淡い期待を抱いても……どれだけ待てば、彼は目を開いてくれるのだろう?
そんな彼が横たわるベッドの傍らで、彼の体に被せられた布団に顔を埋め、泣いている茶髪のポニーテールの少女が一人。烏夜朧の妹である夢那が、もう二度と兄が目覚めないかもしれないと知らされ、人目なんて気にせず泣き喚いて……そんな彼女の姿を見ているだけで、息が詰まりそうになるほど、心が痛かった。
そんな彼女を哀れむように見つめるのは、私だけではない。ビッグバン事故で両親を失った烏夜朧を引き取った叔母の烏夜望が、医師と見紛う白衣姿のままで駆けつけていた。
彼女は涙を流すことはなかったものの、夢那の姿を見て、大人の自分だけでも冷静でいなければならないと、強い覚悟を決めた表情だった。おそらく彼女は、最悪の未来をも覚悟しているのだろう。
同じく病室で、呆然と彼の姿を見つめていた私を、二人は責めようとしなかった。
むしろ、彼が事故に遭う瞬間を目の前で目撃した私を気遣ってくれて、彼女達もかなり辛いはずなのに、私に慰めの言葉をかけてくれた。
違う。
私が望んでいるのは、そんな優しい世界じゃない。
私は、罰を望んでいた。
私が、彼をこんな状態に追いやったのだと。
私が、彼を誑かしたことで、こんな事態を招いてしまったのだと。
私は、十一月の事件でも彼に大怪我をさせた。それを踏まえれば、私が故意でなかったとしても、何か悪い噂が流れてもおかしくはない。
きっと、ネブスペ2原作の世界でこんな事故が起きていたなら、ますますシャルロワ家に悪評が立っていただろう。
しかし、この世界は違った。
ネブラ文明の優れた科学技術を持つシャルロワ家は確かに世界から注目され恐れられていることもあるが、二度に渡る敵ネブラ人の攻撃から月ノ宮を、そして世界を守ったことで、英雄視されるようになった。
そのおかげで、世界中の人々、特に月ノ宮の住民のシャルロワ家に対する心象はかなり良いものになった……いや、なってしまったのだ。
これも、仕組まれたことなのだろうか?
こんな事故が起こることを見越して、私は英雄扱いされなければならなかったのだろうか?
シャルロワ家が月ノ宮と地球を救って英雄視されていなければ、きっと十六夜夢那も烏夜望も、私のことを恨んでくれたかもしれない。私という存在が原因で、こんな事故を招いたのだと。
誰か、私に罰を与えてほしい。
ありったけの罵詈雑言を浴びせてほしい。
私の心が二度と再生できなくなるぐらいまで、完膚なきまでに破壊してほしい。
きっと、私と彼を取り巻く状況を、真実を話せば、彼らは私を責めてくれるだろう。
いっそのこと、話してしまいたい。もう……こんな世界に、明るい未来なんて来ないのだから。近い内にネブラ彗星が地球に衝突して、世界が滅ぶに違いない。
……いや、おかしい。
どうして、この世界はまだ続いているのだろう?
誰かのグッドエンドなら、その後の世界の様子が描かれる、つまり私達の現実が続いてもおかしくないけれど、どうしてこんなバッドエンドのようなイベントが起きたというのに、新しいループが始まらないのだろう?
もしかして、もうループすることは出来ない?
あるいは……月野入夏なき世界で生きることが、私への罰というのだろうか?
十六夜夢那と烏夜望を病室に残して、私は病室を出て人気の少ない廊下を一人で歩いた。もう何時間も水分を取っていないのに、全然喉が渇いたように感じない。自販機で飲み物を買っても、それが喉を通るかさえもわからない。
自販機が並ぶスペースに置かれた椅子に腰掛け、私はテーブルに突っ伏した。
これからどうすれば良いのか、彼のために何が出来るのか、さっぱりわからない。
いや、もうそんなことを考えたくもない。
ただ……私が生み出した幻の月野入夏がいる世界に、入り浸っていたい。例えその世界に、残酷な終わりが来ようとも……。
「シャルロワ会長」
私の名前を呼ぶ少女の声が聞こえて、私は顔を上げた。
テーブルの側に立っていたのは、黄色のジャケットを羽織った、紫色の髪の少女。
烏夜朧の幼馴染である、朽野乙女だった。




