大切な人は譲れない
十一月七日、土曜日。今日は朝から朽野一家がやって来た。
星河祭当日、乙女は火の海へ落ちていく俺の姿を間近で見ていたためにそれがトラウマになっていたらしいが、病室で一人麻雀をやっていた俺を見て呆れたような笑顔を見せていた。
「なーんだ、結構元気そうね」
まぁ火傷もそんなに酷くはなかったし、頭蓋骨のヒビも放っとけば治る。右腕の骨は見事に折れてしまったが、逆にそれで済んで良かったぐらいだ。
「やぁ乙女。目の前で幼馴染が火の海に落ちていく姿はどうだった?」
「もう一度落としてやってもいいのよ」
「いや君が落としたわけじゃないだろうに」
そんな俺の元気そうな姿を見て、乙女の父親である秀畝さん、母親である穂葉さんも安心したように笑みをこぼしていた。
「まさか朧君がこの病院に入院しちゃうだなんて思わなかったわ。どう? 病院食は美味しい?」
「ちょっと味が薄めに感じますけど、そんな不満ではないですね」
「それは良かったわ。ずっと入院してるとラーメンなんかが恋しくなってきちゃうのよ……あんなに美味しいのに塩分とかコレステロールとか血圧がどうとか、ガミガミ言われるのも嫌になっちゃうわ」
この病院の食堂にはラーメンもあるが、まぁそれは入院患者向けのものではない。やはりシャルロワ財閥が運営しているからか病院食にも良い食材を使っているらしく、俺も喜んで食べさせてもらっている。まぁ俺も体だけは若いから量は少ないが。
すると、秀畝さんは持っていた紙袋の中から何かを取り出して俺に見せてきた。
「朧君が退屈してるんじゃないかと思ってね、はいこれ。◯△大学の過去問」
「そんなバカな」
「ほら父さん、やっぱりこんなの喜ぶわけ無いって」
「頭の良い朧君なら喜んでくれると思ったんだけどね……」
「いやもらえるなら嬉しいですけども」
でも入院期間もそんなに長引くわけでもないから、多分退院してから取り組むことになるだろう。乙女とかは絶対喜ばないお見舞いの品だと思うけど。
その後、かつてこの病院に長く入院していた穂葉さんは知り合いの患者さんや看護師さんに挨拶回りに行き、乙女もお手洗いに行ってしまったため、病室には俺と秀畝さんだけが残された。
そして二人がいなくなったのを確認した後、先程まで朗らかな笑顔を浮かべていた秀畝さんは一変して真面目な表情で俺に問いかけた。
「朧君。君は……私の娘関係で、何か悩んでるね?」
……たまに大人が怖く感じるぜ。昔から烏夜朧と朽野乙女の二人の関係を見てきたから、秀畝さんは何か些細な変化を察知したのかもしれない。
秀畝さんの問いかけは俺にとってまさに図星だったわけだが、何について悩んでいるかまでは、俺も答える気になれなかった。だが俺が答えを言い淀んでいるのを見て、秀畝さんはそれがやはりデリケートな問題なのだと気づいたかもしれない。
「やはり、こういうのは私の口から話すべきではなかったかな。でももし朧君が私のところに挨拶に来たなら、それは喜んで受け入れるよ。でも、もし朧君が他の誰かをパートナーに選んだとしても、勿論私は朧君を祝福するよ」
違う。
俺はそんな言葉が欲しいわけじゃない。
「朧君が乙女のことを大切に思ってくれているのは嬉しいよ。でもそれが君にとって重荷になってしまうのは私も望まない。
焦る必要はないよ、君はまだ若いんだから」
違う。
俺は、寄り添ってほしいわけではない。
いっそのこと、罵倒してほしいぐらいだ。
だが……俺の周りには、優しい人が多すぎるのだ。
その後、秀畝さんも穂葉さんと一緒に挨拶回りへと行ってしまい、俺はお手洗いへ行くついでに帰って来る気配のない乙女を探しに行くことにした。この病棟も結構広いから迷っているのではと不安に思いながらお手洗いを済ませて廊下へ出ようとした時──廊下から声が聞こえてきた。
「シャルロワ会長は、朧のことをどう思ってるんですか?」
それは朽野乙女の声だった。お手洗いの出口の角からソーッと様子を伺うと、廊下の自販機の前で朽野乙女とローラ会長の二人が正面に向かい合って対峙していた。ローラ会長も丁度お見舞いに来ようとしていたのか。
とても今は、二人に声をかけられるようなタイミングではなさそうだ。おかげでお手洗いから出られない。
「それは、どういう意味かしら?」
ローラ会長は全く動揺する様子も見せずに答える。
「……朧のこと、好きなんじゃないんですか?」
乙女は一体どういうつもりで、ローラ会長にこんな話を? 確かに俺とローラ会長の関係は噂になるぐらいだし、乙女も怪しんでいただろう。それを白黒つけるために……そんな問いに対してローラ会長はどう答えるのだろうと、壁の裏側に隠れてソワソワしていると、ローラ会長の答えが聞こえてきた。
「別に、私と彼の関係は何でも無いわ。貴方が思っているようなこともない」
それは俺にとっては意外な言葉だった。
ただ妙に……冷淡で棘のある、昔のローラ会長が戻ってきたように感じた。
「彼はただ、私の言うことに喜んで従ってくれるだけよ」
「じゃあ、朧はシャルロワ会長のことが好きなんじゃないですか?」
「例えそうだったとしても、私は興味ないわ」
なんだろう、この違和感は。
エレオノラ・シャルロワの受け答えとしては自然に聞こえるのに。
どうして、アイツがこんな風に受け答えできるんだ?
「それに……彼みたいな輩が私なんかと釣り合うわけないじゃない」
彼女のその受け答えはまるで……わざと俺を突き放しているかのようだった。
お手洗いの出口からチラッと乙女達の様子を伺う。すると乙女もローラ会長のまさかの反応に呆気にとられているという様子だった。
そんな乙女に対してローラ会長は言う。
「貴方は、烏夜朧のことを好いているの?」
それは聞かなくてもわかりきっていることだろう。
だって、お前は知っているんだから。
「はい」
こうして隠れて盗み聞きしているだけなのに、改めて彼女の答えを聞くと気恥ずかしい。
「私は、朧のことが好きです。でも……多分、朧は迷ってるんです。
きっと朧にとって、シャルロワ会長の存在も大きいから」
違うんだ、乙女。それは烏夜朧ではない。
烏夜朧の皮を被った奴が、邪魔をしているだけなんだ。
「きっと、朧はシャルロワ会長のことが好きなんです。でも朧が好きなシャルロワ会長は、そんな風に答えるはずがありません。
本当の……貴方の気持ちを教えてくれませんか?」
乙女がそう問うても、ローラ会長の答えは聞こえてこない。乙女に向けて冷徹な目を向けているか、あるいは……彼女の真剣な眼差しを直視できず顔を背けているか。
俺はすっかりお手洗いから出ていくタイミングを失ってしまい、二人の話がどうしても気になって盗み聞きするしかないのだが……黙ったままのローラ会長にしびれを切らしたのか、乙女が先に言う。
「もう、いいです。私は、何としてでも……朧に、私のことを好きになってもらいます」
乙女はローラ会長に向かってそう宣言して、その場を立ち去ろうとした。俺も壁の裏から様子を伺って、乙女の後ろ姿が視界に入ったが──その時、ローラ会長が動いた。
「ダメ!」
ローラ会長が、乙女の後ろから彼女の肩を掴んで止めた。
「いくら乙女ちゃんが相手でも……彼を、私の、大切な人は譲れない」
あぁ、そうだ。
最初から素直にそう言えばよかったんだよ、月見里乙女。
「……ふふっ。シャルロワ会長も、やっぱりそうじゃないですか」
乙女は満足したように笑いながら言う。
「じゃあシャルロワ会長は、私の恋のライバルってことですね。私、今度の修学旅行で絶対に朧を落としてみせますから」
え、何それ怖い。修学旅行で一体何が起きるの?
そんな乙女に対し、ローラ会長も負けじと余裕そうな笑みを浮かべながら言う。
「なら私は、それよりも前に決着をつけてあげるわ」
え、何それも怖いんだけど。
なんか……乙女とローラ会長が仲良くなったのは全然良いんだけど、これって俺を取り巻く環境は何も変わってないんじゃ……?




