これがきっかけとならないように
もうすぐ夏休みを迎える月学は若干浮ついた雰囲気ではあるが、クラスの友人達といつも通り接しているつもりなのに、やはりどこか落ち着かないというかぎこちないという感覚に襲われる。
先週末には月学への爆破予告騒動なんてのもあったが、結局は昨今のネブラ人に対する排斥運動に感化された人物による犯行だったようで、今朝逮捕されたというニュースを聞かされた。
ネブラ人と地球人が共に学び成長する場所である月ノ宮学園だが、七夕事件を境に俺達の日常は変わってしまっていた。
八年前のビッグバン事件の直後は、この月ノ宮でもネブラ人を迫害する人々も少なくなかった。それでもまだ多くのネブラ人が月ノ宮に集まっているのは、結局のところ彼らを受け入れる地球人の方が多数派で、むしろ彼らを迫害する少数派が月ノ宮を去っていったという経緯がある。
それに月ノ宮学園に通う生徒の多くは幼い頃からネブラ人と接してきているし、近隣の町や遠方からネブラ人との交流のために入学する生徒だっている。そのため七夕事件という騒動があってもネブラ人を表立って嫌ったり迫害する住民はいない……はず、だ。
しかし、絶対にそうではない、とネブラ人は不安を抱えながら生活しているはずだ。今まで自分達に優しく接してくれている人々が今も本当に自分達の味方なのか確信を持てず、常に疑念を抱きながら暮らすこととなる。それは地球人側も一緒だ。お互いにお互いを疑うようになってしまい、やがて些細なことから大きな軋轢が生じる可能性もあるのだ。
世界では人種や民族、宗教などの違いから差別や迫害が多く生まれることがあるが、俺達はもう一度その歴史を繰り返してしまうのだろうか──。
「はい、烏夜君」
「え?」
俺がハッと我に返ると、世界史の授業をしていた秀畝さん、いや朽野先生から丁度指名されたところだった。
「第一次世界大戦のきっかけとなったサラエボ事件。現在このサラエボを首都とする国家は?」
「ボスニア・ヘルツェゴビナです」
「……うん、正解。ボーッしてる気がしたんだけど、君には簡単だったかね」
ふふっ、甘いぜ秀畝さんよ。俺が一体どれだけこれまでのループで全く同じ内容の範囲を履修してきたと思ってるんだ。何度も同じ内容の授業を見てるから暇すぎて俺は将来に供えて抜かりなく大学受験とか資格の勉強までしてるんだぜ。
「では、次はいよいよ第一次世界大戦が始まるというタイミングで今回は終わりにしようか。近代の歴史が本格的に始まるのは来学期からですがね」
「せんせー、まだ時間あるよー? もしかしてもうお腹空いたの?」
「早弁をする犬飼さんとは違うんです」
「今日はしてないもん!」
いや前科あるのかよ美空。だが美空の言う通り、後十分程残して秀畝さんは授業を終わろうとしている。教卓の上に広げた教科書や資料を片付けた後、秀畝さんは俺達生徒の方を向いて口を開いた。
「さて、予習としましょうか。では朽野さん」
「え、私?」
「第一次世界大戦の戦没者の合計は何人でしょう? 軍人や民間人を含めての数です」
「え~っと……五百万ぐらい?」
「じゃあ烏夜君、正解を」
「私が答える必要あったの?」
「大体千五百万から千七百万人ぐらいでしょうか」
「はい、そのぐらいですね」
大体東京都の人口に川崎市の人口も加えたぐらいの数だろうか。四年ちょっとぐらいの戦争でそれだけの人々が命を落とした上、第一次世界大戦をきっかけに起きたロシア内戦やトルコ革命、希土戦争などの戦没者は含まれていないため、もっと膨れ上がる数だろう。
だが、世界大戦はそれだけで終わりではない。
「ではさらに予習としましょうか。ではスピカさん」
「はいっ」
「第二次世界大戦の戦没者の合計はわかりますか? 先程と同じく、軍人や民間人を足しての数です」
「約五千万人だと思います」
「そうですね。約五千万から八千万と言われています」
第一次世界大戦時よりも幸か不幸か科学技術が発達したことによって、さらに犠牲者数は増してしまった。それらの反省から人類は世界大戦と呼べるほどの規模の戦争は起こしていないものの、戦後七十年以上が経過した今でも、世界のどこかで戦火によって命を落とす人々がいる。
「では……私が月学で教えることはないですが、ネブラ史からの問題です。アイオーン星系で勃発した最後の世界大戦による戦没者の合計がわかる人はいますか?」
「はい」
「では烏夜君は手を下げて」
「どうしてですか!?」
「君が答えても意味はありません」
せっかく挙手したのに拒否されることある!?
「ではお腹が空いている犬飼さん」
「どうしてお腹が空いてるってわかったの?」
「時計をチラチラ見ているのでわかります。私が出した問題の答えはわかりますか?」
「え~っと……一億人ぐらい?」
億となると桁違いだが、アイオーン星系に住んでいたネブラ人達はそれぞれの惑星に巨大な文明を築いて、惑星間で争いを繰り広げていたのだ。人類より遥かに優れた技術力を持つネブラ人が起こす戦争となると、さらに犠牲者の数は増すだろう。
「正解は百億人以上です」
だが秀畝さんの口から放たれた事実は、さらに桁違いだった。そのあまりにも桁違いな数を聞かされた教室内が少しざわついていたが、それを気にも留めずに秀畝さんは話し続ける。
「百億人という数は現在の地球人口よりも遥かに多い数ですが、これは最低百億人の犠牲者が出ているという意味で、この記録を残していたネブラ人がアイオーン星系を脱出した時点で確認されていた数です。
当時、アイオーン星系に住んでいたネブラ人の総数はおよそ二百億人。そして現在、アイオーン星系は大戦によって完全に破壊されたと考えられているため、その殆どが犠牲になったと考えるべきでしょう」
いずれ地球の人口が百億人を超える時代が来るとされているが、ネブラ人はその倍以上もいたというわけだ。まぁ地球人と違って一つの惑星ではなく十個以上もの惑星に分散していたため窮屈ではなかっただろうが、それだけの人口を抱えると世界大戦もさらに大規模なものになるだろう。
「さて、ここまでは前置きです。
ではなぜ、これらの大戦が引き起こされたのか? なぜ一国の皇位継承者夫妻が暗殺された事件をきっかけに第一次世界大戦が起きたのか? なぜナチスドイツのポーランド侵攻をきっかけに第二次世界大戦が起きたのか? なぜ一つの星系が滅亡するほどの大規模な大戦をネブラ人は起こしてしまったのか?
貴方達の先輩であるはずの大学生や社会人に聞いても、それに至る経緯を説明できる人は、残念ながら多くありません。ネブラ史ならまだしも、この地球の歴史でさえその惨状です」
日本史における第一次世界大戦は中国のドイツ領や南洋諸島を中心にした戦いが出てくるぐらいで、欧州での大規模な戦いによって日本経済が潤ったという、どちらかというと世界大戦の裏側の歴史がメインとなる。しかし第二次世界大戦は、日本では太平洋戦争という形で、例え日本史や世界史の授業でなくとも、この日本に生きていれば何度もその言葉を耳にすることになるだろう。
「ですが、それらの経緯を完璧に答えるのは難しい。例えば第一次世界大戦は、サラエボ事件が引き金となったのは確かですが、要因はそれだけではありません。遡っていくとビスマルク体制の崩壊、ウィーン体制、ナポレオン戦争、フランス革命……とヨーロッパを中心とした歴史をいつまでも辿っていくことになります。それは第二次世界大戦だけでなく、他の戦争も同じです。
偶然、たまたま、誰かの気の迷いで起こるわけではありません。それまでの人類が長い歴史の中で築き上げてきた様々な文化や風習が軋轢を生み、それが争いへと発展します。他の誰かが諌めようと口を出したところで、長い歴史の中でずっと対立してきた人々に対して、全く違う文化圏の人間がその真意を理解できるわけがありません」
全ての歴史には必ず因果がある。今、世界のどこかで起きている出来事のきっかけを辿っていくと、長い歴史を学ぶこととなるだろう。戦争に直接的な原因こそあれど、それで全てを語ることが出来るわけではない。
「私達は先人達が残した歴史を学ぶことが出来ます。しかし日本史や世界史は受験などでは軽視されがちな科目で、生徒の殆どはただの暗記科目だと思っていることでしょう。よほど勉強熱心な人でない限り、社会人として一人前になった頃には殆どのことを忘れてしまっているはずです。
ですが、私が世界史教師として教鞭をとるのは、ただ世界史を皆さんに教えたいと思い立ったわけではなく、『歴史を知る』ということがどれだけ重要かを教えたいからです。戦争というものが国家の利益だけでなく悲惨な結果をもたらすこともわかりきっているはずなのに、どうしてその手段を選んでしまうのか、どういった経緯でそれらの対立が生まれてしまったのか……それらを知ることで、私達は歴史から本当の学びを得ることが出来るでしょう」
そして、授業の終わりを告げるチャイムが校舎に鳴り響き、秀畝さんの授業は終わった。
秀畝さん自身は明言しなかったものの、わざわざ授業の時間を使ってこんな話をしたのは、七夕事件後の世界の状況を憂いてのことだろう。流石に戦争が起きるような予兆はないものの、今を生きる俺達がわかっていないだけで、もしかしたら七夕事件がより大きな騒動のきっかけだった、という可能性もある。
授業が終わって昼休みを迎えた教室内がいつもより神妙な雰囲気だったのは、秀畝さんの言葉が生徒達に伝わったからだろうか。
そんなことを考えていると、静かな教室に突然グウウウウウウウウッ!という獣の雄叫びのような、腹の虫の音が鳴り響いた。
「えへへ……」
どうやら美空の空腹度が勝ってしまったようだった。だが彼女の呑気な腹の虫を聞いたクラスメイト達は、それでいくらか緊張がほぐれたようだった。




