切り裂きジャック
第二章開幕!
絵、というのはどの時代においても多くの人間を魅了してきた、人類が誇るべき文化の内の一つだろう。
テストが早く終わってしまい、余った時間に少し落書きをしてみたり。
デジタルも活用し、ネットへと発信する人もいる。
それらは古くから人類が紡いで来た歴史。
少しずつ、少しずつ画法が考案され、洗練されていく。
初めは有り得ないと考えられた画材が一般的に使用される様になる。
リアルな人物画こそ美しいとされていたのにも関わらず、いきなり現れて人々の心を鷲掴みにした二次元イラスト。
初めは忌避されていただろうに、気が付けば今では誰もが認める一大ジャンル。
それらは研磨され続け、完成へと近づいていく努力の成果。
画家だけでなく、イラストレーターという職業が出来るほどまでに成長した。
一本の鉛筆、一筋の絵の具。
血と、汗と、涙と、努力。
塗り重ねられた芸術の結晶。
新井美沙都はこの芸術を何よりも愛している。
少し調べるだけで浮き上がってくる先人達の足跡。
亀よりも遅い歩みで着実に刻み込まれた確かな技術達。
それら全てに盲目的にのめり込んだ。
自分の好きな絵を好きなだけ描く。
寝る間も惜しんで、食事も最低限にして。
時間が出来れば描いた。
時間が無ければ作った。
紙を前にして画材を握り締め、何を描こうかと考えるだけで幸せに浸れた。
ただただ筆を振り続け、鉛筆を握り続け、部屋の中一杯に作品が詰まっている。
全てが彼女の生み出した愛すべき芸術達。
「下手くそだな」
誰かが言った。
「何これ、落書き?」
違う誰かがまた言った。
「絵の才能無いよ」
人間というのは残酷な生き物だ。
周りが馬鹿にすれば自分も馬鹿にして良いと思ってしまう。
少数より多数の意見が優位に立ち、一度その立場に収まると自身の道徳の範囲内なら何を言っても良いと勘違いする。
自分が振るうナイフがどれだけ心を裂いているか気づいていない。
知らずに劇毒を押し付けていることも分からずに。
新井美沙都に芸術の才能は無かった。
だがそれは彼女も分かっていた事だ。
猫の絵を描いて、自分ですら判別できない何かが出来上がった時。
彼女の胸を埋め尽くしたのは己の才能の無さへの失望ではなく、新しくこの世に生み落とされた芸術への愛情だった。
何て可愛らしいんだろう。
自分で描いただけで、ほら! こんなにも愛おしい。
描き続けた。
下手くそと罵られても気にしない。
生み出し続けた。
愛しい我が子が増えていく。
幸せだった。
別に他人からの評価など気にしない。
ただ自分の思うまま、描きたいままを描き出せば。
心の中にほかほかと温かな何かが充満するのだ。
それが彼女の人生の全てであり。
彼女が生きている理由でもあった。
ある日の事だ。
彼女はその日も教室でプリントの裏に落書きをしていた。
落書きと言っても一つの芸術。彼女は自分が描いたものは例え落書きでも無類の愛情を注ぐ。
窓から風が入り込み、腕を上げていた美沙都の机からプリントを巻き上げた。
ゆらりゆらりと左右に揺れ動き、踏み出された靴の丁度真下へと滑り込む。
「あ、悪いな」
稀によくある偶然の重なり合い。
誰にも悪気は無く、タイミング悪くプリントを踏んでしまった男子学生、小林は一応軽く謝りながらそれを拾い上げた。
「は?」
プリントに描かれた落書きには足跡が刻まれていて。
美沙都にはそれが、自分の子が踏み躙られている様に見えてしまって。
「痛かった? 大丈夫?」
小林の手からプリントを引ったくり、心底心配しながら頭の辺りを優しく撫でた。
足跡が残ってしまったのは本当に残念だが、それを悔やんでいても仕方がない。
それすらも芸術に組み込んであげるから、そう我が子を慰めた。
「え、引くわ」
小林の声が聞こえた。
周りもザワザワと騒ぎ始める。
明らかに異常だろう。
まさかそこまで本気で絵を愛しているなんて。
「正直、気持ち悪い」
誰かが言った。
その場にいる全員の心の声。
「あ?」
美沙都は我が子を傷つけられて立腹していた。
加害者であるお前が、あろう事か反省の意も無く罵倒してくる・・・だと?
自分の感性が他と違うことなんて分かってる。
だから悪気のない彼には向けない様にと怒りを押さえていたのに。
溶け出す。
グツグツと、その温度を上げていく。
「は? え? ん?」
視界が真っ赤に染まるほど頭に血が上った。
過剰に力の入った体がガタガタと震えている。
赫怒。
この一言に尽きる。
「口を開くな殺人鬼。お前の息で娘が穢れる」
踏み躙られた時点で、彼女の娘はその場で一度死んでいる。そこから何とか生き返らせてあげようとしていたのに。
「は? 意味分かんねえんだけど」
彼は困惑を隠さずにそう言った。
全く悪気はなかったし、踏もうと思って踏んだ訳では無い。
不幸な事故だった。
そんな事は美沙都だって分かっている。
だがその悪びれない態度は何だ。
人の子を踏みつけておきながら気持ち悪いだと?
あーあ
本当に、全く、これっぽっちも。
許せない
「今、敵を取ってあげるからね」
美沙都は胸元で抱き締めた娘に優しくそう語り掛けた。
彼女は立ち上がり、小林を真正面から見据える。
それは母の目。
何でも出来ると、そう言わんばかりの据わった目。
空気がザワつく。
何かが起きる前、誰もが肌で感じるだろう。
あの鮮明で純粋で何の混じり気も無い──
────暴力の匂いを
「いつまでボーッと突っ立ってんだ」
美沙都は人生で初めて、怒り狂っていた。
「まずは土下座だろうが!」
そして動いた。
小林の後頭部を鷲掴みにし、思いっきり机に叩き付ける。ゴツンっと嫌な音がするが、彼女は止まらない。
「謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ!」
ゴツンっ、ゴツンっ、と頭が叩きつけられる音が鳴り響く。
「おい、何とか言ってみろよ。御免なさいって泣き叫べよ!」
ゴツンっ、という音はやがて少しずつ丸みを帯びて行き、今では液体が粘つく様な音も混じっている。
「紅い涙は良く映えるなぁ」
それでも止まらない。
教室にはグチョ、グチョ、と断続的に肉が潰れる音が木霊した。
初めは抵抗していた小林も、今は意識が朦朧として考える事すらままならない。
美沙都はやっと机に頭を叩きつけるのを止めた。
だが終わった訳では無い。
ここからだ。
ここからが贖いだ。
美沙都は小林を床に捨て投げ、その頭を踏み躙った。
「ほら、お前も味わえよ」
これが私の娘の痛みだと。
お前はこれをやったのだと。
「ジャックちゃん、おいで」
美沙都は自分の胸に抱き締めた紙に向かって呼び掛けた。それは彼女の呼び掛けに応じて黒く染まっていく。
やがて美沙都の手には一本のナイフが握られていた。
「切り裂きジャック。愛しい我が子」
彼女は心底愛おしそうにナイフを撫で、一つキスを落とす。
「一緒に絵を描こう。きっと素晴らしい作品になる」
痛みに呻く小林の背中に刃が突き立てられた。
一度ビクン、と跳ね上がったが、もう動かない。
「どんな屑でも血は美しい。命で線を繋ぐ、ゴッホリスペクトだ」
何度も何度もナイフが突き立てられ、時にはそこでグリグリと動かされる。
肉を切って血でくっつけ、小学生の図画工作の様に無邪気に描く。
「完成! なんか可愛く見えてきちゃった」
ボロボロになるまで弄ばれた死体を前にして美沙都は嬉しそうに微笑んだ。
「作品名は“初めての共同作業”」
血に塗れたナイフを服で拭い、美沙都は自慢気に名付けを行った。
始めの方の不機嫌は何処に行ったのか、今では機嫌が良さそうに娘を撫でている。
教室は異様な雰囲気に包まれていた。
誰も身動きがとれない。
少しでも動けば次は自分が・・・
そう思うと足が動かないのだ。
初めて目の前で見たショッキングな事件に吐き気を催す者もいたが、張り詰める恐怖の前でそんなことを気にしている暇は無い。
「行こうジャック。お腹が減ったよ」
だがそんなもの、美沙都には関係が無い事だ。
彼女は娘の敵を取るついでにもう一つ、そこにあった“画材”で芸術を生み出しただけ。
別に他の人間に興味なんて無い。
そうして美沙都は教室を去った。
異能者、新井美沙都。
彼女は狂った芸術家。