世界の温度
成瀬紬、と名乗った少女はどこまでも異常だった。
美沙都は今尚その手にジャックを握り締めている。
服には血飛沫の跡が付着し、表情は暗い。
一体誰がこんなに危険な雰囲気の人間に近づくというのだろう。
だが彼女は全く気にしなかった。
驚くほど自然に、戸惑いなく美沙都の横に腰掛ける。
度胸、だとか。無邪気、とか。
そんな類のものでは無い。
まるで知り合いの隣にそっと寄り添う様に。
気心の知れた友人に対する様に。
そうしてどこまでも安心する声色で美沙都に話しかけた。
「泣いてる」
たった四文字。
問いかけでもなく、励ましでも無い。
ただ事実。
紬が見て感じた言葉を口に出しただけ。
「泣いてないよ」
美沙都は自分の目元を触れながら答えた。
やはり指に水滴は付かなかった。
ほら、泣いていない。
美沙都は涙を流さない。
最後に泣いたのはいつだったか。
少なくとも、片手で数えるのすら馬鹿らしい位しか泣いた事が無いのは確かだろう。
きっとそうな筈なんだ。
「嘘」
「嘘じゃないよ」
「でも本当じゃない」
「本当だよ」
子供っぽい掛け合いだ。
最も今時、小学生でもしない程には低レベルだったが。
「瞳だけが泣くって誰が決めたの?」
「え?」
不思議に思う美沙都の胸をトントンと二回、人差し指で小突いた。
美沙都はようやく理解した。
目の前の少女は私の心が泣いていると言いたいのだろう。
心が泣いている、ありきたりで陳腐かつ使い古された表現だ。
だが的を得ている。
美沙都は泣いているのかもしれない。
心が引き攣れて、ずっと棘が刺さっている様な感覚。
体が上手く動かせない。
どこか無気力で、何か大事なものをふと失った喪失感。
全て、今の美沙都を締め付ける鎖と成りて。
これが罰。
これが悪行。
善人に悪行は向いていない。
口でどう取り繕っても、顔に笑顔を貼り付けても。
きっと、心のどこかにずっと罪悪感が居座っている。
それは人間が本来当たり前に持っている道徳と呼ぶべきもので。
道徳とは人の心を縛り付ける鎖であるのだ。
「青空を見たら元気になれるの。地球さんが描いた作品の様に思えるから」
ぽつり、ぽつりと語り出した。
別に少女に聞かせたいと思ったわけでは無いし、自分の罪を誰かに話して楽になることは罪の上塗りだと考えているから。
だから今日やった犯罪については話さない。
このまま警察に自主しに行こうと思っている。
ただ。
ただ何か少しだけ、心を整理したくなったのだ。
「風が吹けば笑顔が浮かぶ。この大地に一筆、また描き足されたと思えるから」
美沙都は自分の作品だけでなく、全ての作品が好きだ。
誰かが自分の描きたいものを必死にカタチにしたということだから。
それって、例えどんなカタチだって敬意を払うべきだと思わない?
「子供がクレヨンを握り締めて家族の絵を描いて。それを馬鹿にする人なんていないと思う」
美沙都自身、何を話したいのかは分からない。
ただ心の赴くまま、口から零れ落ちるままに言葉を膨らませる。
「悲しいよね。大人になって、同じ絵を描いたら誰もが馬鹿にする様になるんだ」
人は大人になるにつれ、求められる能力が増えていく。
自分と他人を見比べ、少しでも自分が優れているところを探して優越感に浸る。
自分が優れていれば何を言っても良いんだ。
下手だとか、才能無いだとか。
自分の小ささを露呈している事には気がつかない。
「世界中のみんなが、もっと優しく在れたら良いのになぁ」
誰もがナイフを振るう。
言葉は鋭利に研ぎ澄まされ、胸へと深く突き刺さる。
気がつかない内に心を殺していたんだ。
世界には殺人鬼が蔓延っている。
もっと、温かな世界が見たかった。
美沙都でも、こんな異常な考え方の彼女でも。
理解して貰える様な世界。
互いに尊重しあって、互いを想い合って。
支え合って、寄り添い合って。
そんな世界だったら。
「こんなに芸術的なのに、世界は残酷で冷たいよ」
なんて、殺人鬼が言う事じゃないか。
そう思いながらも手を力なく握り締めた。
手の中のジャックが鼓動し、反応を返す。
生物特有の温かみ。
───泣かないで
「泣けないよ」
涙を流してはいけない。
自分の殺しに責任を持たねばならないから。
美沙都は一人の少年の未来を刺し殺した。
この事実は何が起きても変わらずそこにある。
後悔など、何の意味もないさ。
失われた命からすれば、それは自慰行為に過ぎないのだから。
だから涙は流せない。
流しちゃ駄目なんだ!
ただ凝視しろ。
お前は罪を犯したんだ。
涙で視界を曇らせるなよ。
殺しに言い訳は立たない。
ただ事実だけが存在する。
空は曇り。
元気になれやしないな。
「でも」
俯く美沙都の頭を柔らかな手が撫でた。
それは何処までも温かく、何よりも儚い。
「お姉さんはあったかいね」
その言葉が胸に染み渡る。
温かくて、優しくて、涙が零れ落ちそうになる。
許されない事だ。
犯罪者たる自分に触れていてはこの美しい少女が穢れてしまう。
ふとそう思ってしまったから。
「お姉さんもう行くわ」
ベンチに縫い付けられたかと錯覚する程に動けなかった体を無理やり動かした。
「ちょっと用があってさ」
「そう」
警察に行かないと。
殺しましたと、逮捕してくださいと、裁いてくださいと言いに行かないと。
「だからさ、この子を受け取って欲しいんだ」
美沙都はずっとその手に握り締めていたナイフを紬へと差し出した。
黒い刀身は美しい光沢を放ち、洗練された形状は切り裂く事だけに特化している様に思える。
鞘もなく、収納機能なんて便利なものも付いていない扱い辛いものだ。
彼女の娘、切り裂きジャック。
この子に罪は無い。
私がこの手で殺したんだ。
この手は穢れていても、ジャックは穢れていない。
「いいの?」
急にナイフなんて渡されても困ってしまうだろう。
だが目の前の少女ならどうか。
この美しく、優しく、温かい少女なら。
「うん。大事にして欲しいな」
「分かった、ありがとう」
きっと受け取ってくれる。
彼女になら娘を任せられる。
私なんかの元にいるより、ずっとずっと幸せに生きていける。
「じゃあね紬ちゃん」
「うん」
だからさよならだジャック。
貴方の行く末に幸せが待っていますように。
紬ちゃん、最後に貴方に会えてよかった。
やっぱりそうだ。
この世界は美しい。
まだまだ、温かいものが眠っている。
◆
警察署までの道を歩く。
あんなに良い感じに別れたけど、やっぱり少し名残惜しいや。
でもこれで良いんだ。
私は体に湧き上がった衝動のまま暴力を振るい、殺人を犯した。
この手は穢れている。
もう我が子を描き出す事は出来ない。
こんな私から産まれてくる子供達が可哀想でならないから。
だから私は刑期を終えたら死のうと思う。
何も描けない。
何も生み出せない。
そんな世界じゃ生きられない。
本当は今すぐ死にたいくらい、体中に寒気が走っているけれど。
それって逃げだ。
死によって罪を償うと言う考え方は自己満足に過ぎない。
だから私は罰を受ける。
受け切ってから死ぬ。
それが母親として、我が子に恥じずに出来る最後の事だから。
警察署に着いた。
恐らくもう学校からは通報されているだろう。
捜査は開始され、自主なんてしなくたって幾許も無く私は捕まる筈だ。
手が震える。
この扉を開けて中に一歩踏み入れたら。
後はもう辛い事しか待っていない。
覚悟は決めたつもりだった。
それでも、笑っちゃうや。
やっぱり怖い。未来が怖い。
それでもダメだ。
私は罰を受けないと駄目なんだ!
一歩、一歩で良い。
そうすれば中に入れる。
逃げるなんて考え、起こせなくなる。
だから動いて私の足!
体中から噴き出る冷や汗。
痙攣した様に震える両足。
バクバクと鳴り止まない心臓。
もう良いから。
さっさと行けよ犯罪者!
自分に叱咤する。
そうして一歩踏み出して。
その瞬間、足元に作られた暗い穴に吸い込まれた。
抵抗する暇も無い。
美沙都はその場から姿を消し、静寂だけが残される。
幸か不幸か、その現場を見ていた人間は誰一人としていなかった。
◆
成瀬紬は先ほど貰い受けたナイフを懐にしまい、帰り道を歩き始めた。
今はもう夕方。
もうすぐ太陽が沈む時間。
紬はこの時間が好きだ。
小さい時、母親が帰ってくるのはいつも太陽が沈む直前だった。
毎日欠かさず人助けをしていた母だが、一日だってこの時間に帰ってこなかった事は無い。
───暗いと紬が寂しがるでしょう?
そう言って笑う母の言葉が嬉しくて。
紬はいつも、黄昏時になると玄関前に座り込んでいた。
他愛もない事をつらつらと考えている内に気づけば家の前だ。
家の鍵を下、上の順番で開けて中に入る。
母親を抱きしめ、食材を素早く冷蔵庫へと詰める。
その後ナイフを取り出し、丁寧に水洗いしてタオルで拭き取った。
何度見ても美しいナイフだ。
うんうん、と頷いて包丁ホルダーに差し入れた。
紬は毎日テレビを見る。
ニュースを確認する為だ。
このニュースというのは本当に有能だ。
いつだって紬に情報を与えてくれる。
例えば今日の星座占いは紬の乙女座が四位で、ラッキーカラーは赤色だという事だとか。
どこどこのラーメン屋が凄く美味しくて行列が出来ているだとか。
例えば、犯罪についてだとか。
『天定市の蔵元高校で傷害事件が発生しました。警察は現在も捜査を続けており、容疑者は同校に通っている───』
紬は思わず手に持った人参の袋を取り落とした。
仕方のない事だろう。
容疑者として写真を載せられた少女は。
今さっき、紬が会話をしていた新井美沙都その人だったのだから。
「え?」
とてもじゃないが、犯罪を起こす様には見えなかった。
確かにナイフを持っていたし、服には血の跡が付いていたが、そういう事ではない。
異能を極めていくと、何か精神的な部分が感じ取れる様になってくる。
美沙都と相対している時、伝わってきたのは温かくて優しい何か。
“悪”では到底持ち得ない物だったのだ。
何か理由があったんだ。
紬はそう理解した。
でないとおかしい。
美沙都からは母に似た何かが伝わってきたから。
絶対に悪い人じゃない、そう思える様な人だったから。
「同期、枢糸」
紬の体からキラキラと光を照り返す糸が飛び出していく。
それは人間の目では到底捉えられない様な細さであり、何千、何万と数えるのも億劫なほどの数だ。
「行け」
それらが開いた窓から飛び出し、蔵元高校の方向へと凄まじい速度で広がっていった。
その間に紬は支度を済ませる。
服は黒いドレス調の物を。
小さな鞄には貰ったナイフをタオルで丁寧に包んで入れた。
靴は革靴。
磨き上げられたそれは鈍い光を放つ。
そうして待つ事少し。
「見つけた」
蔵元高校、その捜査現場。
紬の出す枢糸は感覚を同期している。
つまり、視界も共有しているのだ。
学校の中に無数の糸が張り巡らされていき、全ての情報を洗っていく。
「クラスは2-A。現在校内に生徒無し」
ならば探しだす。
近場に住んでいるであろう2-Aの生徒を。
そして5分程で二人見つけた。
町中に広がった糸がその二人の場所へと集まり、それぞれの体の中へと入り込む。
口から、鼻から、汗腺から。
申し訳無いが、時間が無い。
「神経接続、強制同期」
そうして紬は情報を得た。
二人と自身を同期させ、その記憶を覗き見たのだ。
「協力ありがとう」
接続を切り、糸を消した。
これで何の跡も違和感も無く、ただ情報だけが紬の手に渡る。
「行かないと」
紬は母親をもう一度だけ抱きしめて、家を後にした。