夕日に包まれて
成瀬紬は朝から夜まで規則正しい生活を送る事を良しとする。
例えば朝。
目覚まし時計に設定してある時刻、6:30に目を覚ます。
目をぱちりと開け、隣で眠っている母親を一度強く抱きしめてからベッドから足を下ろした。
パンをトーストしながら目玉焼きを作り、軽くバターを塗ってレタスを一枚。
目玉焼きを乗っけてケチャップとマヨネーズを美しく掛ける。
芸術的な程計算し尽くされた完璧なバランス。
一口食べた時、口の中に広がる幸せを噛み締めた。
歯磨きは右上、下、左上、下、の順番を計三回行う。
学校は絶対制服なので、すぐに着替え終えた。
紬は化粧をしない。
というか化粧という概念をほとんど理解していない。
一体あれは何の為に行うのだろうと考えることもあったが、今まで別段困らなかったので気にしなかった。
昨日の晩の内に用意しておいた鞄を手に取り、家から出て扉に鍵をかけた。
こうして7:00きっかりに家から歩き出す。
ここまでが彼女のモーニングルーティーン。
一秒足りともブレが無い、本物だ。
学校へと歩いていく中でも紬のルーティーンは行われる。
曲がり角をわざわざ曲がる事も、バッグを右左で持ち替える事も。
この曲がり角のルーティーンが紬の歩みを壊滅的に遅くするのだ。
彼女はただでさえ体が小さく、比例して足も短い。
スタスタ、ではなくちょこちょこ。
タッタッタ、ではなくとことこ。
そんな彼女が曲がり角の度に一度曲がり、中程まで行ってから引き返し、そしてもう一度曲がって本筋の復帰する。
遅くなるのは当然だ。
それでも紬がこの謎のルーティーンをやめる事は無い。
なぜならこれは彼女のルーティーンであると同時に、宝物探しでもあるからだ。
紬はずっと何かを探している。
それが何なのか、一体何故探しているのか、彼女自身何一つ分かっていない。
それでも何か、凄く大切なものが決定的に欠けている気がして。
そうして彼女は今日も歩く。
大事な何かを探して。
学校に着いた。
普通の人なら10分も掛からないであろう道のりを、紬は一時間掛けて登校する。
今は8:00。朝礼が8:50分から行われる為、部活で朝練の為に来ている人や、教室に謎に早く着いて本を読んでいる人くらいしかおらず、活気は無い。
さて、この時間に学校に着いた彼女が何をするのか。
それは異能による探知である。
異能は、及ぼせる範囲が決まっている。
例えば柊に発現した音を操る異能は、自分を中心として半径100メートルの範囲内に存在する音を操れる。
桑原に発現した肉体操作の異能は、自分と自分が接触した肉体だけを操れた。
これは異能の操作精度が大きく影響しており、精度が高ければ高い程範囲は拡大する。
桑原の異能精度がもっと高ければ、触れていなくても相手の肉体を操作して殺す、などという恐ろしい所業が可能だったかもしれない。
では成瀬紬が持つ異能の影響範囲は?
答えは地球全域だ。
この広い地球という星、そこに存在する全てが効果範囲内。
全ては彼女の掌の上。
といっても、紬の持つ異能はそこまで強力なものではない。
桑原の様に凶悪なものでは無いし、刃渡の様に戦闘向きでもない。
だが、探知向けではある。
なので毎日、この朝の時間に世界中の出来事を確認している。
例えば階段を踏み外して落ちそうになっていたお婆ちゃんをこっそり支えたり。
例えば道路に飛び出して轢かれそうになっていた子供をそっと掬い上げたり。
挙げ句の果てには籠城している強盗から銃を取り上げたり。
ほんの少し、紬からしてみれば些細な人助け。
それが誰かの命を救っている、守っている。
だがそれだけでは無い。
紬が最も嫌悪する、“悪”の捜索も行っている。
“悪”は別に異能犯罪者だけを指すのでは無い。
唾棄すべき邪悪。
見ただけで吐き気を催す程の醜悪。
それら全てを紬は許さない。
彼ら悪が如何に闇に潜もうと。
成瀬紬からは逃げられない。
「今日の五時間目、数学に変更らしいぜ」
「え〜、絶対寝るわ」
「しかも四時間目は体育とか……終わってんな」
紬は隣で行われた男子2人の会話を聞き、それとなく溜め息を吐いた。
確かに体育は大変だ。
だがマラソンや体操ならまだしも、次の授業はただのキャッチボール。
そこまで疲れるものでも無く、ましてやお昼に休憩出来るのだ。
全く、人としてだらしない。
紬はそんなことを気にしない。
四時間目が体育で、お昼ご飯でお腹いっぱいで、そこに追い打ちをかける様に彼女の苦手な数学の授業が来ても。
私は完璧に動ける。
絶対に寝ない。
そんな自負が彼女にはあった。
彼女は自他共に認める真面目人間。
授業中に寝るなんて……
有り得ない。
五時間目、机に突っ伏して寝る紬が可愛らしいと女子の間で騒ぎになった。
「さようなら〜先生!」
「おう、さようなら〜」
明るい女子生徒の声を聴きながら、やっと紬は目を覚ました。
彼女は五時間目を通り越して六時間目もたっぷり睡眠を取り、終礼まで置き去りにした。
誰もが驚くド派手な睡眠だったが、女子が睨みを効かしていたので誰も起こすことが出来なかったのだ。
紬は口から垂れた涎を拭い、辺りを見回す。
そして状況を理解し、絶望した。
まさか、この成瀬紬ともあろう者が寝てしまうだと……
まあそんな事もあるだろう。
紬だって人間だ。仕方のないところもある。
バッグを整理し、学校から歩き出した。
今日は幸い、といって良いのかは分からないが、よく眠れた。
頭もスッキリして思考は明瞭だ。
今日は帰ったら何をしようか。
料理を凝るのも良いかもしれない。
そう考えたなら即行動。
紬はスーパーの方向へと足を向けた。
スーパーは紬の生活の一部に組み込まれている。
それ位来る頻度が高い場所なのだ。
それに伴い、彼女の頭にはどうやって食品売り場を通るか、どの順番で品物を取れば効率が良いのかのチャートが格納されている。
これはセールの品を出来るだけ確保する為に紬が考えた涙ぐましい努力の結晶だった。
彼女は貧乏だ。
基本的にお金が入ってこない。
収入源は紬が運営しているサイトからの物だけ。
そのサイトは何でも屋と銘打たれており、文字通り犯罪行為以外なら基本何でも受け付けている。
それらの依頼を全て遠隔で完了する事が出来る紬にぴったりの仕事だった。
とはいえ、何でも屋だ。
怪しさと頼もしさの比率が100:0である。
依頼はそこまで来ない。
となると今ある貯金を出来るだけ切り崩す事無く生活して行かなければならない訳だ。
更にそこに学費と光熱費、水道代。その他諸々全て襲いかかってくる。
サイトの稼ぎを全て使っても赤字は確定。
減らせるところは減らさなければという考えで、一番初めに削られた所が食費だった。
だが紬は美味しい物が大好きだ。
そこは譲れない重要なポイント。
結果、彼女は自炊を身につけた。
出来るだけ安く食材を手に入れ、自分で料理してやり繰りする。
昼ごはんは食べずに我慢。
一日二食で美味しい料理を。
導き出された結論に、紬は満足した。
そうしてスーパーでの買い物を終え、帰り道を歩く。
スーパーから家への帰り道は既に何度も歩いており、一々学校まで戻ってから帰宅する必要も無い。
そうして家に帰る途中にある公園に差し掛かる。
紬は公園のベンチに腰掛けている一人の女性に目を奪われた。
といっても、別に惚れたとかそういう訳では無い。
ただその女性は特有の匂いを放っていたのだ。
そう。
残り香だ。
◆
新井美沙都は肩を落として公園のベンチに座り込んでいた。
少しずつ暗くなっていく空はまるで美沙都の心の中を表している様で。
美沙都は百人中百人が異常だと思う位には異常だ。
そして彼女自身、自分が異常だということも分かっている。
ただそれは“美沙都が絵を愛している”、という部分に関してだけだ。
その他は普通の人間と同じ。
ただ彼女にとって、自分の絵は、娘は、命よりも大事なだけ。
貴方に子供がいたとして。
その子は目に入れても痛く無い程可愛くて。
そんな息子が、娘が、誰かに踏みつけにされて、死んでしまって。
そうして怒りを抑えながら我が子を抱きしめたら、謂われの無い中傷を受けた。
彼女からすればそういう事だった。
それだけの大事だったのだ。
「ねぇジャック。私もう帰れなくなっちゃった」
あの時、怒りのままナイフを振るったとは思えない程、悲しげな瞳。
もう分かっている。
きっと私は帰れない。
あの幸せな生活を取り戻す事なんて出来やしない。
美沙都が絵に愛情すら持っている事を理解しながらも背中を押してくれた大好きな母と父。
彼女の部屋一杯につまった宝物達。
もう会えない。
美沙都は自分のした事が間違っていた、なんて思っていない。
自分の行為を後悔していない。
あれは許されない事だった。
彼女からすれば、あれを放っておくのは自分の心を殺す事と同義だったのだ。
だが自分のした事は間違いだったと分かっている。
世間から見て、他人から見て、きっと誰も美沙都の思いを分かってくれる人なんていない。
あぁ、どうしてなんだろう。
今でも手には肉を裂いた感覚が残っている。
気持ちが悪い、嫌な生温かさが想起されてやまない。
「う、うぉえ」
思わず、胃の中の物を吐き出した。
「はぁ、はぁ」
この手は罪に染まっている。
そうして、一度犯した罪は拭えない。
もう描けないや。
漠然とそう思った。
何故なんだろう、目から零れ落ちる涙が止まらない。
もうかけないや。
ぽつりと、頭の中にその言葉だけが遺された。
どうしてだろう、なきごえがきこえてくるんだ。
「お姉さん」
その時、美沙都に声が掛けられた。
彼女は俯いていた顔をゆっくりと上げる。
そうして、ほぅっ……と息を吐き出した。
目の前にいたのは幻想的なまでに美しい少女。
夕日に包まれて、まるで天使の様にも見える。
「大丈夫?」
そして何よりその瞳は。
夕日よりも暖かな光を灯していた。