第5話 術式
筆を取り出し、屋根に太陰を象徴する紋様を描く。更にその紋様を中心に円を描き、私は懐に筆を仕舞った。
―――本当に、これで上手くいくのだろうか。
私は半信半疑だったが、彼女の策を信じるしか無かった。
懐から符を取り出して掌に乗せ、呟く。
「―――飛べ」
符を空中に放り投げる。符はひらひらと空を舞い、しばらくして鳥へと姿を変じた。
仮初めの翼を広げ、鳥はリンファ達のいる方角へと飛んでいった。
「火乃紋様、起動」
詠唱を切っ掛けに、脚に刻んだ紋様のうち、火を象す紋様が朱く輝きだす。火傷でもしたかのように脚がひりつき、顔が歪んだ。
私は屋根の上を駆け、別の家屋の屋根を目掛けて跳躍した。
ふわりと身体は浮かび、しばらくしてゆったりと降下する。そのまま着地し、次の目的の家屋を目指して走り出した。
東の方角の、城郭の端に位置する家屋。その屋根に太陰を描き、先ほどと同様に円を描いて紋様を閉じる。
ふと視線を感じ、私は屈んだまま下を覗いた。
女がいた。赤い髪。赤い瞳。衣服から伸びる、死人の如き白肌の肢体。
件の咎人だった。
女が目線を上げてこちらを見た。笑っている。子供のような純真な笑顔。今までしてきた事、或いはこれから起こる事が愉しみで堪らない。そんな笑みだった。
全身に寒気が奔る。理性で無く、本能で理解する。あれは正に、捕食者の顔だった。
どれほど歯応えのある、美味な獲物だろう。そんな囁きが、耳元で聞こえたような気がした。
身を屈め、女が跳躍する。体重を感じさせない、しなやかな動きで屋根に飛び乗ってくる。
懐から玉石―――血玉を取り出す。
「刻まれし刻印にて、根拠の提示を省略す。刀身、形成」
形成された剣を正眼に構える。剣が妖しく輝き、刀身が緋く染まる。
刻印を通して剣に身体中の気が流れていく。
魂が徐々に凍っていく。そんな感覚に襲われ、知らず身震いする。
気の流出が止まる。深呼吸し、私は剣を構え直した。
緋色の突風が吹きつけてくる。剣を握った手が衝撃で痺れた。上段に剣を跳ね上げ、反動を使って後方に飛び退く。
「初めまして、紋様者さん?」
髪を掻き上げて女が嗤う。いつの間に生成したのか、手には硬鞭が握られていた。
「……お前、どれくらい喰らったんだ?」
「さあ、覚えてないなあ。百人越えた辺りで数えるのは止めたから」
何でも無い事のように女が言う。
―――事実、本人からしたら何でも無いのだろう。彼女にとっては、食事について聞かれたようなものだろうから。
ぎり、と私は歯軋りした。胸の内で感情が荒れ狂う。本能を抑える事なく。彼女は、自由気ままに―――。
「貴方は食べないの?」
「当たり前でしょうが」
「そっか」
不思議そうに彼女は呟いた。硬鞭を無造作に振るい、続ける。
「じゃあ見逃してはくれないよね?」
「当然でしょう……っ!」
前方に跳んだ。剣を真横に薙ぎ払う。
……陰気から陽気への転換。陽気から火行へ更に変換。そして、方向定まらぬ力から現実の現象への昇華。
剣を介して刹那の間に術式を組み上げ、廻転させ、術を行使する。
「―――あぁぁぁ!!」
剣から緋炎が噴き上がった。憤怒を象にしたかのような焔が女に纏わり付き、一層強く燃え上がっていく。
炎が掻き消える。
多少火傷の跡は有るものの、女はほぼ無傷だった。口角を上げ、女が硬鞭を振るう。捕食者の笑み。それが、目に焼き付いて―――。
身体が吹っ飛ぶ。屋根の上を勢い良く転がって行き、落ちる寸前で止まった。
息が詰まる。硬鞭での殴打が原因か、それとも落下の衝撃によるものか。
咳が止まらない。笑ってる膝で無理矢理立ち上がり、剣を構える。
緋色の残像が疾る。
突風どころの話では無い。まるで竜巻染みた一撃だ。寸前で躱し、連なる二撃、続く三撃を受け流す。剣を振り上げ、更に刃を返して水平に払う。腹を蹴り上げ、女を吹っ飛ばした。
女の身体が宙に舞う。
猫のように。あるいは豹のように。
軽やかに着地し、女の目線が私を捉える。
「じゃあね、名も知らぬ紋様者さん?」
女が屋根から飛び降りる。そのまま路を駆け抜け、女は姿を消した。