第四話 女と少年
室内に足を踏み入れた途端、空気が変わったように感じられた。
町中に立ち込めていた、身体中に纏わりつくような澱んだ気配が消え失せている。
屍人等の邪悪な存在を否定する結界が、この部屋に張られていたのだろう。
……それも、屍人の放つ瘴気ごと浄化するほどの高位な結界が。
「……もう良いよ」
低く、呼びかけるように彼女が呟く。私に言ったのか、あるいは別の誰かに呼びかけたのか判断を下す前に、その者は姿を現した。
子供だった。少年といって良いような幼い容姿だが、見る者を戦慄させるような気配を発していた。
黒の旗袍に双剣を差し、腕に何らかの紋様を施したその少年は、符を握っていた。恐らく、その符で姿を隠していたのだろう。私は少年の気配に気付かなかったのが不思議だったが、女の気配が強すぎて少年の気配に気づかなかったのか、あるいは握られている符に気配さえも隠蔽する力があったのだろうと納得した。
「その少年は?」
「私の弟子兼従者。盗賊に焼き払われた村で拾ってきて、以降は私の傍に置いてるの」
女が少年の頭を撫でる。少年は嬉しそうに頬を染めた。が、すぐむっとした表情になり、彼女の手を乱暴に跳ね除けた。
「子供扱いは止めろって言ってるだろ」
「子供なんだから黙って撫でられなさい」
女はまた少年の頭を撫で、傍にある椅子に腰を下ろした。
卓を挟み、私も椅子に座った。少年が荷物から椀を二つ取り出し、茶を入れる。それを私に差し出した後、もう一方を自身の師の前に置いた。
茶を一口啜り、私は口を開いた。
「この城郭に何が起こったのか。そして、貴方たちは何者か。話して頂けるだろうか」
「ええ。後で其方の事情を話して頂けるなら」
女は薄く微笑み、事の経緯を話し始めた。
女―――リンファは旅の紋様者だった。弟子のイーフェイと共に旅先で仕事を請け負いながら、或る知り合いを探していたのだ。
そしてこの城郭に彼女達は辿り着き、依頼を探しながら尋人の捜索を開始した。
市場などはまだ活気があり、人で賑わっていたという。
―――城郭に血の雨が降ったのは、それから二日後の事だった。
リンファが溜息を吐いた。
「大勢の屍人を連れて、女の咎人がこの城郭に現れた。連中は二手に分かれ、一方は役所を、もう一方は駐屯してる警備隊を襲い、完全に殲滅した。あっという間の出来事だった。……私達は符で結界を張り、屍人達から逃れたの」
「……城郭にいた警備隊もろとも、連中に喰われたというのか」
恐怖で、身体が冷たくなっていく。
……絶望感で、目の前が暗くなるようだった。
最悪の状況だった。
それも、想定していた状況より尚酷いものだった。
私は、咎人と普通の市民だった数百名の屍人を処理すれば終わりだと気楽に考えていた。だが、それは余りにも甘い見通しだった。戦闘訓練を積んだ屍人達もいるのならば、掃討は困難になる。
……否、これでさえも楽観的な想定に過ぎないのかもしれない。
―――もしも、警備隊の中に紋様術に長けた者もいたとしたら。
紋様術に対する結界や盾を作成された場合、対集団に有効な術は、威力の減殺ないし無力化されてしまう。
もしもそうなったならば、一体ずつ地道に殺していくしか方法がない。
その場合、戦力が多く、軍集団もいる屍人の群れに対し勝ち目は無い。
推し包まれて喰われるか、連中の仲間入りをする事になるだろう。
「少なくとも、軍関係以外の全ての人間は連中の食糧になったと考えるべきでしょうね。……屍人の力は、生前の身体能力に比例する。真っ先に軍の駐屯所を襲ったのは、つまりはそういう事でしょうから」
―――敵側の戦力減少と、屍人側の戦力増強を企図したが故の行動。
「連中は何処に?地方軍は屍人達の討伐にはまだ来ないのか?」
「駐屯所にいたわ。連中が篭ってから隣の城郭に式神を送ったんだけど、未だに帰って来ないのを見ると……」
まだ隣の城郭に辿り着いていないか、或いは連中の哨戒に引っかかったのか。
――どちらにせよ、救援は来ないだろう。
「――そうか。ならば、此処から逃げる算段を付けないとな。……と言っても、逃げ延びれる可能性は低いだろうが」
知らず、溜息が溢れる。そんな私とは対照的に、リンファの顔は涼しげだった。いや、むしろ愉しげでさえもある。
「なんだその顔は。何か策でもあるのか」
私は首を横に振った。この絶望的状況を打破出来る、起死回生の一手。そんな物、ある訳が無い。
……だが、もしもあるとしたら。
苦々しく首を振る私を見て、彼女は薄く微笑った。
「ええ。貴方が協力してくれるなら、この状況を変えられる」
――挑むような、あるいは挑発するかのように。
「どう?乗ってくれる気になった?」
微笑みながら、彼女は言った。