死装束を選ぶ店
鮮やかなワンピースやスカートで満たされたラックを眺めながら私は、死んでよかったと少し思った。
生前にも私は、こんな華やかな服屋に訪れたことなんてなかった。一着ずつじっくり見たい気持ちがあるがなんだか躊躇してしまって手が伸びず、ただそれを眺め、歩き回ることしか出来ないでいる。
「試着しますか?」
近くにいた女性店員が私に話しかける。彼女も私と同じく死んでしまったのだろうか、だがそれにしては不自然なくらい明るい笑顔を、私に向けていた。
「いや、大丈夫です」
私は思わず顔を背け、店員から距離を取ってしまう。やけに広い店内にはそれこそ夥しい数の服が並んでいるように見える。そして店内には私とその店員しかいないようだった。胸の高揚を僅かに感じているものの、何故か湧き出る緊張がそれを押しとどめている。
そもそも私はなぜこんなところにいるのだろう。私はただ死んだのではなかったのだろうか。
これまでまともな服など持っていたことはないように思う。私は貧しい家に生まれた。私にとって貧しさとは飼い犬のようなものだった。幼少期からそれは当然のように私達家族の傍らにあったし、ほとんど撫でていたに等しいくらい自然に生活に馴染んでいた。だが私が小学校に上がり、友達の家に遊びに行かせてもらうことがあった時、その自分の生活とのあまりもの剥離に、私は私の生活が貧しいというものに属しているのだということを知った。それは飼い犬に手を噛まれるよりも随分と大きい衝撃だった。
自分の貧しさを知ると、それはこれまでの視界が嘘だったかのように至る所に浮き出るのだった。自分の持ち物や衣服、それに私の髪は友人達と比べても随分と傷んでいるように見えたし、夏休み明けのお土産を私は一方的に貰うばかりで、あげられたことなど一度も無かった。
両親はいつも笑っているような人達だった。だからこそ私は貧しさに気づかなかったのだろうし、家の中にいる間は、私は少なくともいつだって幸福だった。それに両親には感謝をしていなくてはいけないのだと思っていた。貧しいながらも懸命に工面して私に困ることの無い程度の生活を与えてくれ、きちんと行きたかった高校にまで行かせてくれた。
高校に入るとバイトが出来るようになり、家にいくらかの金を入れながら、余ったお金で友人たちと遊びに行くくらいは出来るようになった。それでも時々は友人らとの差に心を痛めることはあった。友人に連れられ入った洋服屋で、彼女たちは次から次へと洋服を手に取っていき、数分後にはそのいくつかの服をいとも簡単に買っていたりするのだった。まともに試着もせず買っていることだってあった。私にべったりと染みついていた貧しさはそんな行為を強く拒絶し、恐怖すら私に与えるのだった。
学校帰りに誘われるファミレスやドーナツ屋などでは制服でよかったし、時々の休日は私が唯一持っていた赤いワンピースがあればよかった。それは高校入学祝いに両親が買ってくれたもので、それまでまともなプレゼントなど経験してこなかった私にとっては、それはどこまでも特別な一着だった。特に高価といったわけじゃない、むしろ割と安価なありふれたワンピースだったと思う、だけど私はどれだけ洗濯を重ね、ほつれや色の抜けが各部に見えだしても、それをいつまでも大切にしようと思った。
そして高校も最終学年に上がり、学校から帰宅後、母親にお使いを頼まれた。近所のスーパーで卵が安いとのことだった。私は百円だけ手に握るとスーパーに向かい、その途中にあった横断歩道を渡っている際に、信号無視で飛び込んできたトラックに轢かれ、死んだ。
私に向かってくるその巨大な壁のようなトラックの景色を最後に、私の意識は途切れ、気づけばこの服屋の中にいた。
「まだよく分かってないんでしょう?」
気づけばまた横には店員が立っていた。さっきと変わらぬ笑顔を浮かべ、私に語りかけている。
「……あの、私死んだんじゃ、」
「ええ、そうだと思いますよ」
「そうだと思いますって、」
「死んだら天国に行くでしょう?だから天国に行く前に、みなさんにはここで着替えていってもらうことが出来るんです。時々いるんですよ、死んだときに限って不本意な恰好だったとか、気の抜いたダサい服のまま死んじゃったとか。なのでここではそんな人達が満足した状態で旅立ってもらえるように、好きな服に着替えることが出来る場所なんです。どうなさいますか?確かに今の制服姿でも十分素敵だとは思いますけど、この機会に色々試してみるというのは」
「あの、けど私お金無くて、」
「死人から金とる馬鹿がどこにいるもんですか。どれでもお好きにお選びください。ここにはありとあらゆる洋服がそろってますから」
もちろん私は服自体にはとても興味があったから、その途端に溢れんばかりの幸福感に全身は包まれた。
私は恐る恐るラックにかけられたブラウスやスカートの一つ一つを手に取っていった。
「気に入ったのがあったらすぐ教えてください。がんがん試着しちゃいましょ!」
鮮やかな紺色のスカートは触れると肌を優しく撫でるように柔らかで、その光沢は一目でそれが本来ならば高価で良い物であると分かった。淡いクリーム色のブラウスは裾に飾られた花びらのような装飾が綺麗だったし、形の良いリネンシャツは雲一つない青空みたいに健やかな色をしていた。一つ一つの服を手に取るたびに、私の心は躍ってしまい、無意識に頬は緩んでいくのだった。
突然に経験したことの無い豊潤な選択肢を与えられた私は、何を選べばいいのか決められる気がしなかった。新たな服が目に触れ、手に触れるたびに濃厚な幸福が私の中で花開いた。幸福や喜びはどれほどまでに重なったとしても、それらが色褪せることは無いということを私は初めて知った。それらは互いの足を引っ張り合うどころか、まるで何かの化学反応みたいに混ざり合い、増幅していくものなのだった。
いくつかの服を手に取ると、店員さんは私を試着室に案内した。そしてそれらの服の美しさは、袖を通した途端にさらにその輝きを増すのだった。薄いピンクのブラウスは桜の花が開いたみたいに華やかで、下に履いた白いスカートは私が左右に身体を回すたびに、ふわりと風を包んで優しく揺れた。
「靴も色々ありますよ」
店員さんに渡されたのは艶やかな一足のハイヒールだった。私はハイヒールなんて履いたことが無く、いつも学校指定の合皮で出来たローファーか、くたびれたスニーカーを履いていた。スニーカーは汚れが目立ってくると家の外の水道で洗っていたが、落としきれない薄いシミが残っていた。
息を止め足を入れた。心臓の高鳴りは耳のすぐそばで鳴っているようだった。まるで握手をする時のように、ハイヒールは私の足をぴたりと包み込んでくれていた。店員さんの手を借り、ゆっくりと立ち上がると、目の前の鏡には、私には勿体ないくらいの、私が写っていた。
「……シンデレラって、こんな気持ちだったんでしょうか」
店員さんはまた優しく微笑むと、次に着替える洋服を次から次へと持ってきてくれた。上品で清潔なロングシャツは着るだけで少し背筋が伸び、その上に水色のカーディガンを着せてもらうと私は鏡の前で何度もくるくると回り、自分の全身を眺めた。琥珀色のチュニックは着るだけでなんだか暖かくて元気が出てくるようで、私の笑顔もその色によく馴染んだ。何気なく手渡された濃紺のジーンズは履いてみると、私の脚は意外に綺麗で長かったのだということを教えてくれたし、くすんだグリーンのシルクシャツに袖を通すと、なんだか格好いい大人の女性になったようで、いつか友達が言ってくれた「ほんと鼻筋通ってて綺麗だよね」という言葉を思い出した。
「洋服って言うのはね、あなたの本当に良いところを、思いきり引き立たせてくれるものなんですよ」
店員さんはそう言った。私は洋服屋さんで夢中になって買い物をしていた友人たちの気持ちを、ようやく分かることが出来た気がした。
「奥の方は古着とかですね。新品に無いアジみたいなのが好きな方もいらっしゃるので」
私は店の奥の方まで足を伸ばした。もう高揚とか嬉しさとかに押しつぶされて、あんなに大きかった緊張は消え去ってしまっていた。
着こまれたレザージャケットやエキゾチックな柄をしたシャツ、生地の厚いスウェットなど、新品の持つ鮮やかさや華やかさとはまた別種の、深い雰囲気のようなものをそこに並べられた服達から感じ取ることが出来た。
何かに導かれるように私は、そのラックに並んだ服を順に見始めた。手に触れるその一着一着からは誰かの気配の匂いを感じられる気がして、私はもし人が死んでも、彼らの服達はこうしてそれからも生き続けるのではないかと思った。そのラックの一番奥に、その服はかかっていた。その瞬間に、それは私が着なくてはいけない服だと、そう思った。
「少し失礼かもしれませんが、本当にそれでよろしいんですか?」
「はい、これがいいんです」
「もっと良い服ならたくさんあると思いますけど、ほらあのブラウスも、このシャツも、どれも大変お似合いでしたよ」
「けどこれを着ていた方がお父さんもお母さんもいつか、私を見つけられる気がするんです」
店を出るとそこは真っ白な一本道だった。私はいつもの赤いワンピースを着て、まっすぐにその道を歩いた。ワンピースを見るとやっぱり所々色褪せているし、くたびれていて、とても綺麗な恰好とは言えないだろう。だけどそれでいい気がした。色んな服を着てみて、色んな姿になった自分を眺めてみて、やっぱり私はこの服が一番好きだと、この服を着た自分が一番好きだと、思うことが出来たから。