巡り合わせのメッセージ
かるーいコメディ二作目です。突っ込みどころで突っ込みをいただければ嬉しいです。
前作である『最初で最後のラブゲーム』の続き、ということになってはいますが、前作未読でもいちおう読める話にはなっていると思います。
ただ構成上、どうしても主人公とヒロインとの関係性がわかりにくいものになってしまいました……ので、もし興味を持っていただけたなら前作から読んでいただけると本当にありがたいです。
天の川を越えて星々が逢瀬を重ねる七月、初夏の夜更けのこと。
僕はといえば、自室の机の背もたれに体重を預けて、眠れない夜と目下激闘を繰り広げているところだった。
うー、とか、あー、とか言いながら、過ぎていく時計の指針だけを凝視していたその時の僕は、傍目から見れば相当に奇怪な行動を取っていたに違いない。けれど僕には、そんなことを気にするだけの余裕なんかどこにもなかったのだ。
だって、そう、明日は……。
「兄ちゃん、起きてるー?」
がちゃり、唐突にドアが開く音。それと同時に、やたらと溌剌な甲高い声が僕の部屋に響き渡った。突然の来訪者に僕は思わず体を竦ませる。体重のかけ所が悪かったのか、その反動で徐々に後ろへと傾いていく椅子。あ、と思った時にはもう遅く、そのまま僕はがたんと背中から盛大に身を打ち付けてしまった。全身にびりびりと痛みが駆け巡り、一瞬意識が白みそうになる。
「あはは、なにやってんの?」
が、当の闖入者は適当にけらけら笑いながら、何事もなかったかのように僕の部屋へと入り込んできた。身内ながら神経を疑わざるを得ない行為である。兄のこの惨状を目の当たりにしておきながら、こいつの辞書に心配という文字はないのか。
「……ノックくらいしろっていつも言ってるだろ。急に入って来られるとびっくりするんだよ」
「いいじゃん、別に。兄妹なんだし」
「親しき仲にも礼儀ありって言うだろ……あー、いってぇ……」
痛む体をどうにか起こし、僕が倒れた椅子を直している間にも、チコはひょいひょいと僕のベッドに飛び乗り、本棚をあれこれ物色し始めていた。僕は慌ててチコの矮躯を本棚から引き剥がす。
「人の部屋を勝手に漁るな!」
「えー、いいじゃんかー。それともなぁに、見られたら困るものでも置いてあるの?」
「……お、置いてない! いいからそこから離れなさい!」
「兄ちゃんって嘘つくの下手くそだよね。そんなとこに置かないで、ちゃんと隠しておけばいいのに。チコだって子どもじゃないんだから知ってるよ? そうじゃなくても兄ちゃんには前科もあることだし」
「忘れろ! いいえ忘れてください! お願いだから!」
「あはははは、気が向いたらねー」
悪魔の所業だ。この世に神はいないのか。
この残忍極まりないちびすけは名を知子と言い、今年で中学二年生になる僕の妹だ。チコというのは昔からのあだ名なのだけれど、小学校中学年くらいからまったく背が伸びていないこいつにはそのあだ名が妙にしっくりくるので、僕は今でも妹のことをその名で呼んでいる。本人もその呼び方を気に入っているようで、いまや家族も含め、こいつを本当の名前で呼ぶ人間はほとんどいない。
まあ見ての通り、伸びない身長に反比例して、中身だけはやたらと耳年魔に育ってしまったわけだけれど。いつかの悪夢を思い出すたび、僕は今でも全身に戦慄を覚える。どうして僕の部屋には鍵がないのだろう。
「……で。こんな時間に何か用?」
こいつの兄として生まれてしまった人生に深い悲しみを感じながら、すでに日付も変わってしまった時計を指差して、僕は糾弾の眼差しでチコを問い詰めた。良い子が寝る時間はもうとっくに過ぎている。
「別に用なんかないけど。遊んでほしいなーって」
「寝れや」
「寝れないから言ってるんじゃん。兄ちゃんなんだからそれくらい汲み取ってよ」
「知るかよ……」
「わぁ、汚い机。掃除しなよ」
「やかましいわ!」
もはや嘆息するしかない僕などお構いなしに、チコは再び部屋の中を物色し始めた。今度は机をがさごそやりながら、お節介にも卓上の生理整頓なんかもやり始める始末。もう止める気すら起きなかった。
「トランプとかなかったっけ?」
「ないし、遊んでやる気もない。明日早いんだからもう寝かせてくれ」
「明日? 明日って休みだし、兄ちゃんって部活にも入ってなかったよね? なんか予定でもあるの?」
「ぅ――」
僕は己の発言を激しく悔いた。……よりにもよって、こいつの前で口を滑らせてしまった。
「と、友達と遊ぶ予定があるんだよ」
「ふーん、そうなんだぁ」
すぐにそう切り返してみせたものの、この小悪魔が返答までの一瞬の空白を見逃すはずもなく、チコはなにやら訳知り顔でにこにこと満面の笑みを浮かべている。正直、かわし切れる気がしない。
「友達って、女のひと?」
「僕はおまえの将来が怖いよ……」
僕が犯人でチコが警官なら、高々と両手を天に突き上げてしまいたい気分だった。
「へぇー、へぇー、へぇー。兄ちゃんにもとうとう彼女できたんだ。やるじゃん」
「か、彼女じゃない。沢渡さんはまだ友達で……」
「ふぅん。沢渡さんっていうんだ、相手のひと」
「……」
もう、自分から洗いざらい吐いてしまったほうがいいのかもしれない。本格的に観念した僕は、身を切るような羞恥とともに明日のことをチコに話して聞かせることにした。
「……まあ、その、沢渡さんっていうのは、僕のクラスメイトで……」
「そのひとのことが好きなんだ、兄ちゃんは?」
「……そうだよ。ああ好きだよ! 悪いかよ!?」
「あはは、別に悪くなんかないよ。それで、そのひとと明日、どこになにしに行くの?」
どちらが年上かわからなくなるほどの錯乱っぷりと落ち着きっぷり。本当にもう、自分が掘った墓穴でも構わないから、穴があるならいくらでも入ってしまいたい気分だった。身内に自分の好きな相手のことを話すというのは、ある意味でが当人に告白するよりも恥ずかしいものだと知った十六の夏。
努めて平静を保ちながら、僕はさらなる気力を振り絞って、続く単語を発言した。
「……その、沢渡さんと。明日は……明日は、……デート、なんだよ。初めての」
「わぁお」
顔面が沸騰してしまいそうだった。どうして実の妹相手に、こんな色恋話を聞かせてやらなければならないのだろう。
そんな僕の煩悶など露知らず、チコはにやにやと心底楽しそうな笑みを浮かべながら、僕の脇腹を人差し指でつついてくる。ああ、誰でもいいから助けてくれ……。
「なるほどねー。それで緊張しすぎて寝れなくて、こんな時間まで起きてた、と。くすくす、兄ちゃんにもかわいいところあるんだね?」
「何とでも言えよもう……」
もう言い返す気力もなく、僕はのそのそとベッドの中へ潜り込んだ。これだけ精神的に消耗した状態なら、きっと程なくして睡魔もやってきてくれるに違いない。その間にもチコがあれこれ言っていたような気がしたけれど、ぜんぶ適当に聞き流してしまうことにした。こいつの相手を続けていたら間違いなく日が暮れてしまう。
「ねーねー、兄ちゃんってばー」
「……寝る。僕は寝るんだ」
「つまんないなぁ。ねえ、明日のデートの集合場所ってどこ?」
「駅前……」
「駅前ね。わかった、おやすみ〜」
ばたん、と軽快に閉じられる扉。思惑通り急速に薄れゆく意識の中、チコにしてはやけに聞き分け良く出て行ってくれたなぁ……と、僕はそんなことだけをぼんやりと考えていた。
*
翌日、駅前にて。
時刻は午前十時半。沢渡さんとの約束の時間から、すでに三十分が経過しようとしているところだった。
「来ないねぇ、沢渡さん」
「…………」
「どうしたんだろうね?」
「…………」
「兄ちゃん? どしたの?」
「どうもこうもあるか! 今日は沢渡さんとのデートのはずなのに、なんで僕の隣にはおまえがいるんだよ!」
僕は激昂した。いったい何がどうなればこんな事態に陥ってしまうんだ?
そう、約束の時間を過ぎても沢渡さんは一向に現れる気配を見せなかった。その代わり、なぜか僕の隣には透かし編みのチュニックセーターとショートパンツに身を包み、普段ほとんどしない化粧までをも薄く施していらっしゃるチコがいた。こいつはちっこい体の割に足が長いので、それなりに様になっているところが余計に腹立たしい。
「いちゃいけなかった?」
チコは何を言われているのかわからない、といった風にきょとんと僕の顔を見つめ返してくる。一瞬だけ良心が咎めたけれど、しかしこの顔に騙されてはいけない。チコはすべてをわかった上で何も知らないフリを装っているのだ。その証拠にほら、もう我慢しきれなくなって小さな口からくすくすと笑い声が漏れ出している。事と次第によっては手が出ていてもおかしくないシチュエーションである。
「おまえってやつは……本当、勘弁してくれよ」
「あはは、勝手に後をつけてきたのは謝るね。でもね、ちゃんと沢渡さんが来てくれたら、チコは最後まで尾行に徹するつもりだったよ?」
「徹しないでください。帰ってください」
「いや、それは無理だよ。だって兄ちゃんがデートだよ? こんな面白いことなんて滅多にあるものじゃないし」
「人の恋路を面白がるな!」
「いやいや兄ちゃん、ドラマでもマンガでも小説でも、一様に恋愛ものが人気なのにはちゃんと理由があるんだよ。つまるところ、人の恋路って面白がるためにあるものだと思うんだよね」
「……」
もはや絶句するしかない僕だった。誰だ、こいつを僕の妹に生んだやつは。いっそ橋の下で拾われた子と言われたほうがまだ説得力がある。今度両親に問い詰めてみることにしよう。
「ま、来ないものは仕方ないよね。何か用事が入っちゃったのかもしれないし」
「……それでも、連絡くらいしてくれてもいいと思うんだけど」
「女々しいなぁ。もしかしたら後から連絡来るかもしれないし、そんな風にうじうじしてたらせっかくの休日がもったいないよ?」
「それは……その通り、だけど」
「うん、その通りだよ。だからさ、それまでチコとデートしようよ」
「……はぁ?」
チコは理解不明な一文を口にした。ひょっとすると僕の聞き間違えだったのだろうか。あるいは古代スワヒリ語とかそんな感じの。
「聞こえなかった? せっかく駅まで出てきたのに、何もしないで待ってるだけなんて時間の無駄でしょ? だからほらぁ、遊んでよー」
ぴょんぴょんと僕の周囲をせわしなく跳ね回るチコ。まるで散歩を急かしてくる犬のようだった。
正直、まったくもって気は進まなかったけれど、デートをすっぽかされてとぼとぼ帰途についてしまうというのもあまりに情けない話だ。僕はひとつ大きく溜息を吐き出して、ひとしきり運命の神様を呪ってから、ほとんど自棄気味に頷いてやった。
「……わかったよ。確かに、ここのところはチコともほとんど遊んでやってないしな」
「わーいっ!」
両手ばんざいで喜ぶチコ。まあ、そんな風に喜んでもらえること自体に悪い気はしないけど。
「なに買ってもらおうかなぁ」
たかる気満々だった。
うん、それくらいわかってたけどね!
「か、金ならないぞ?」
「嘘だぁ。見栄っ張りの兄ちゃんが、デート当日にお金を持ってきてないわけがないよ。兄ちゃんの財布の中身、当ててみせようか?」
「だ、だからほんとにないって言ってるだろ」
「三万円」
「なんで知ってるんだよ!?」
退路は絶たれた。財布の中の虎の子の三万円は、この瞬間に僕の手からするりと飛んでいってしまったわけだ。笑えるね!
「くすくす、もう観念しなって。そんなに無茶はさせないからさ」
「もう好きにしてくれ……」
がくりと項垂れる僕の手を引いて、チコは軽い足取りで先へと進んでいく。仕方なくその背中を追いかけようとした、その時のことだった。
「あの、すいません。西村さんというのは……あなたでしょうか?」
不意に背後から声をかけられて、そちらを振り向く。そこには駅前によくいるティッシュ配りの若い女性がいた。僕の記憶の限り、これまでに会ったことなんて一度もないはずの人だ。
そんな人が、どうして僕の名前を知っていて、かつ声をかけてきたりするんだ?
「突然ごめんなさい。実は昨日、沢渡遥さんという方から伝言を頼まれていまして。……この写真の方、あなたですよね?」
懐から取り出された一枚の写真。それは紛れもなく僕の顔写真だった。というかそれ中学のときの僕の卒業アルバムの写真じゃないですか、とかいろいろ突っ込むべきところはあったけれど――何より先に聞き返すべき、一番大事なことは。
「さ、沢渡さんが、伝言?」
「ええ。『昨日のことでしたね。あなたは覚えていますか?』だそうです。それでは、確かにお伝えしましたから」
「え、ちょ……あの……!?」
「すいません。仕事があるので」
申し訳なさそうにその場を去っていくお姉さんの背中を呆然と見送りながら、僕の頭の中では不可解な気持ちがぐるぐると回り回っていた。伝言そのものに込められた意味も、沢渡さんの行動の真意も、何一つ僕には理解できなかった。まさかその伝言は、沢渡さんがこの場に現れないことと何か関係があるとでもいうのだろうか。
でも『昨日のことでしたね。あなたは覚えていますか?』なんて言われても、沢渡さんが何のことを言っているのか僕にはちっともわからない。そもそも昨日、僕と沢渡さんは会ってすらいないのに。
「兄ちゃん、すごい顔してるよ」
「……そりゃ、すごい顔にもなるよ」
真っ白になりそうな思考回路が、ショート寸前のところで引き戻される。
とはいえ、落ち着けといわれてすぐに落ち着ける状況じゃない。……沢渡さん、本当に君は、何のつもりなんだ?
「昨日って……何もしてないよなぁ、僕……」
「そだね。兄ちゃん、昨日はずっと部屋に引きこもってたもんね。せっかくの休みだったのに、ひょっとして兄ちゃんって友達いないの?」
「いるわ! おまえは少し黙っとけ!」
「わわ。怒られちゃった」
わざとらしく頭を垂れるチコはしばらく放っておくことにして、再び思索にふける僕。
……昨日のこと。
チコの言葉を認めるのは癪だけれど、昨日はずっと家で過ごしていた。その間、沢渡さんとの接点はゼロだ。だったら僕に心やましい点など何もないはずだ。
……ないはず、なんだけど、なぁ……。
「もー。せっかく遊びに来てるのに、そんな顔ばっかりしてないでよ。心当たりがないなら気にすることなんかないじゃん」
「元々おまえと遊びに来たわけじゃ断じてないからな。……でも、まあ、確かにそうだよなぁ」
「うん。わかんないなら、沢渡さんと会ったときに直接聞いたらいいんだよ。そういえば兄ちゃん、沢渡さんの電話番号は知らないの?」
「あ」
チコに言われて初めてそのことに思い当たる僕。そうだ、沢渡さんが来ないなら、こちらから連絡を取ってみればいいのだ。すぐにポケットから携帯電話を取り出して、沢渡さんの番号をディスプレイに表示させる。
ぽち、と通話ボタン。
どきどきと心を逸らせながら、電話が繋がるのを待つ。
『おかけになった電話は、電波の届かない場所におられるか、現在使われておりません』
「……」
一縷の希望が完膚なきまでに絶たれた瞬間だった。このときの僕の表情を似顔絵にしたのなら、タイトルは『絶望』の他にないだろう。
チコはそんな僕の顔を覗き込むと、半ば強引に僕の手を取って歩き出す。危うくバランスを崩して転んでしまうところだった。
「ちょ、ちょっと、何すんだよチコ」
「兄ちゃんはいちいちショック受けすぎ。もともと兄ちゃんみたいなのに付き合ってくれる女の人がいるだけでも奇跡なんだから、事実は事実として受け入れなきゃダメだよ。じゃなきゃこの先、とても社会で生きてなんかいけないよ?」
「…………」
中学生の妹に人生を諭される僕だった。
その言葉に対してもいちいちショックを受けるなとおっしゃられるのでしょうか、僕のかわいい妹様は。
「いいからほら、行こ行こ。チコ、服が見たかったんだぁ」
ぐいぐいと手を引っ張られながら、僕は引きずられるようにショッピングモールへと連行されていく。もうどうにでもなってくれ。
すると、今度はショッピングモールの入り口にて。
「ちょいと失礼します。西村さんってのは、あんたですかい?」
色鮮やかな半被を着込んだ、パチンコ店の呼び込みをしているらしい中年の男性が僕へと声をかけてきた。近くで見るとかなり強面の人で、思わず半歩引いてしまう僕だった。
「そ、そうですけど。な、なにか?」
「ああ、いえ。突然すいませんね。昨日、沢渡遥って子から伝言を頼まれてまして」
「……なんですって?」
不可思議は一度では終わらなかった。彼の手には先ほどのティッシュ配りの女性が持っていたものと同じ写真。目を白黒させる僕にも構わず、男性は言葉を続ける。
「『ショックだったんです。まさか西村くんが……』だそうですよ。何をしたのかは聞きませんが、あんなべっぴんさんを困らせるもんじゃないですぜ。んじゃ、確かにお伝えしましたんで」
「ちょ、ちょ――ちょっと、ま、待ってくださいよ! 僕が何をしたって? ……ええー……?」
「あっしに言われても困ります。その続きは彼女と実際に会って言ってあげてやんなさいね。あ、そうそう。十八になったらうちの店を頼んますよ。全台激アツ設定で大歓迎しますんで。えっへっへ!」
「は、はぁ……」
からからと景気のいい笑い声を飛ばしながら僕のもとを去り、男性はそのまま客引きに戻っていった。
なんというか、この人、パチンコって言うよりは風俗店の客引きみたいだ……。
あ、いや、僕はそんなところ行ったことないけどね?
「……じゃなくて。なんなんだよ、沢渡さん……意味わかんないよ」
「兄ちゃん、沢渡さんになんか嫌がらせでもしたの?」
「してねえよ! むしろこの場合嫌がらせを受けてるのは僕だと思うんだけどチコはどう思うかな!」
わけがわからなすぎて口調もわけがわからなくなる僕だった。
「あはは、まあ別に気にすることないんじゃないかな。身に覚えがないならいいじゃん、ってさっき言ったよね? 神経質な男はモテないよ?」
「う……」
チコの言うことはいちいち正論というか、反論しにくいのですごく困る。言葉に詰まってしまう僕を前に、にやにやと笑ってみせるチコ。僕の考えていることなんてきっと全部筒抜けなのだろう。あな腹立たしや!
「あっ、あの服かわいー。兄ちゃん、こっちこっち」
「あ、おい……!」
僕がひとり歯軋りしている間にも、チコはせわしなくショッピングモールを駆けていく。放っておくこともできずに、慌ててその背を追っていく僕。瞬間、つまづいて転ぶ。ずべし、と顔面から地面に思いっきりキスをぶちかます僕だった。
周りの視線に僕の姿はどう映っているのだろうか。きっとさぞ情けない兄と思われているのだろう。通行人がひそひそと小声で話しているのを見ると、「あんなちっちゃい妹に尻に敷かれちゃって……頼りないお兄ちゃんねぇ」とか言われているようにしか思えなくなってくる。
……帰っていいかなぁ?
帰っていいよね? 僕、何も悪くないよね?
「兄ちゃーん! 何そんなとこで寝てるのー? はーやーくー!」
「あああもうわかってるよ! ちくしょう!」
わざわざモール中に響くような大声で僕を呼ぶチコは確信犯としか思えなかった。
この女、黙ってれば調子に乗りやがって……あまり僕を怒らせるとどうなるか、思い知らせてやる。
……いつか、そのうちね(負け犬発言)! その日まで僕は今日の屈辱を絶対に忘れないぞ(負け犬発言)! 覚えてやがれ(負け犬発言)!
ほとんど自棄になってその場から立ち上がり、チコの待つ洋服屋へと全力疾走していく僕。
息も切れ切れの僕に、チコは一言。
「兄ちゃん、ここんとこ運動不足なんじゃない?」
「ああ、その通りだね!」
言い返す気力もなかったのでいっそ肯定してみた。
余計に情けない気持ちになっただけだった。
「ねえねえ兄ちゃん、この服見てよ。かわいいと思わない?」
きらきらと目を輝かせながらチコが指差すのは店頭のショーウインドウ、その中に陳列された清涼感に満ちた水色のワンピース。その瞳が言わんとしていることが何なのか、チコの兄たるところの僕には容易く理解できてしまった。
確かにそのワンピースは僕の目にも可愛いと思えた。だが、だからと言ってこのまま流れに身を任せてしまえば、その結果はあまりにも予想できてしまう。そんな無駄な出費は何としても避けたい僕は、今度こそ反撃を試みる。僕がいつまでも言いなりのままだと思うなよ。
「いや、僕はそうでもないと思うぜ。そもそもおまえ、ワンピースって柄じゃないだろ?」
僕の言葉に、チコはむっと眉を潜めた。よし、反撃の狼煙はここに上がった。
「そんなの、着てみなきゃわかんないじゃん。似合ってたらどうするの? 男に二言はないよね?」
「とか言って、試着するのもダメだぞ。どうせ着た勢いで無理やり買わせるつもりだろ。その手には乗らないからな」
「……むー。兄ちゃんが小賢しい」
果たしてこの世に、実の妹から小賢しいと蔑まれる兄が僕の他にどれだけいることだろうか。
だが、いいのだ。その屈辱と引き換えに手に入れられるものが勝利なら、僕はどんな代償だって払ってみせる。
「兄ちゃんの甲斐性なし。中学生の妹にたったの服一着も買ってやれないの?」
「あー、今日は天気がいいなぁ。こんな日には何も考えず散歩するに限るなぁ。ほらチコ、いつまでもそんなところで物欲しそうな目をしてるんじゃありません。店員さんに悪いだろ」
「むー……」
どうだ、見たかチコ。この達観の域に辿り着いてこそ兄なのだ。あくまでも表情に出すことなく、僕は内心で勝利の喜びを噛み締めた。
もはやチコの罵詈雑言など僕の耳には入らない。聞こえたところで、せいぜいセミが鳴いている程度にしか感じない。
完全に勝者の余裕を吹かせていた、その時のことだった。
「沢渡さん、このワンピース似合うんじゃないかなー」
ぼそっとチコが漏らした言葉に、僕の耳は過敏なまでに反応した。
「……チコ、今なんて言った?」
「ん? いや、だから沢渡さんって、美人なんでしょ? そんな人がこのワンピースを着たら、すごく似合うんじゃないかなぁって思ってさ」
チコの言葉に、思わずそのワンピースを身に纏った沢渡さんの姿を想像してしまった。
見る者にすっきりと涼しげな雰囲気を与える水色のワンピースは、白百合の花のように凛とした沢渡さんの印象を更にいっそう引き立たせて見せてくれる。胸元のさりげない刺繍のおかげで綺麗さと可愛さが絶妙なバランスで融和され、袖口と丈下からはすらりと伸びた沢渡さんの長くて白い手足が覗いていて――
「超いい!」
思わず全力で親指を立ててしまう僕だった。
「でしょ? だったらこのワンピース、沢渡さんにプレゼントしちゃえばいいんだよ」
「なな、なんだって? 僕が、沢渡さんに、プレゼント……?」
「うん。だって兄ちゃんは沢渡さんのことが好きなんだから、別に不自然なことでもなんでもないでしょ」
「な、なるほど……確かに……!」
たった一瞬の想像の中でさえあれほど僕の胸を騒がせた沢渡さんのワンピース姿が、僕の行動次第で現実のものになるのだ。
そんなの……そんなの、迷うまでもないじゃないか!
「すいません! これください!」
次の瞬間にはもう、僕は大声で店員さんを呼びつけていた。店の中を歩いていた若い女性の店員さんは、僕のただならぬ熱意を感じ取ったのか、すぐにこちらへと駆けつけてきてくれた。
「ありがとうございます。こちらのお品物でよろしいでしょうか?」
「はい! こちらのお品物でよろしいです!」
「かしこまりました。こちらがですね、展示品限りの特別価格となっておりまして……定価の四割引きとなっている代わりに、返品等には応じることが出来かねるのですが、よろしかったでしょうか?」
「はい! よろしかったです!」
「ありがとうございます。では、あちらのレジでお会計をお願いします」
店員さんの手で綺麗に折りたたまれていくワンピース。期待に胸を躍らせながら、僕は言われるがままレジへと向かっていった。
「それではお会計、八千二百八十円になります」
「はい! 八千二百八十円です!」
いそいそと財布の中から一万円札を取り出して、店員さんに渡す。お釣りを受け取って、そして袋に入れられた品物が僕の手へと渡される。
「それでは、こちらがお品物になります。ありがとうございました!」
「おおおぉぉ……」
遠くない未来に沢渡さんがこのワンピースに袖を通す時が来ると思うと、いてもたってもいられない。店の中であることも忘れ、思わずその場で踊り出してしまいたくなる僕だった。
「ねーねー、兄ちゃん」
「おお、なんだい妹」
そんなこんなでテンション最高潮の僕に、チコは満面の笑みを浮かべながら、あることを尋ねてきた。
「沢渡さんって身長どれくらい?」
「ん、いきなり変なこと聞くな……僕よりちょっと低いくらいだから、百六十半ばってとこかな」
沢渡さんは女子にしてはけっこう背丈が高いほうだ。百七十センチはないにしても、そんなところで間違いないだろう。
「へー、そっか。じゃあ残念だけど、沢渡さんじゃこのワンピース着れないね」
「……は?」
「ん、だってさぁ。それ、Sサイズだもん」
言っている意味がよくわからなかったので、中身を取り出して確認してみる。……記載されているサイズ規格は、S。
たしかに、沢渡さんには小さすぎる、けれど。
「チコが着たらちょうどいいくらいだもん、それじゃ無理だよね。でもそれって展示品限りで返品もできないもんね。けど、兄ちゃんが女物の服持ってても仕方ないもんね? 残念だねー。でさ、そのワンピース、どうしよっか?」
「ぬおおおおああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁァァァァァァァァァ!?」
謀られたあぁぁぁぁ!!
こいつ! こいつが! 僕の目の前にいるこのちっこいのが! 謀りやがった!
そりゃそうですよ! 普段女物の服なんて買わないもんね! サイズなんて気にもしませんでしたよええ!
「にっひっひー。ありがとね、兄ちゃんっ」
語尾にハートマークが付くくらいの甘い声で、チコは茫然自失の僕の腕からワンピースを奪い去っていった。
あ……あぁぁ……悪魔だ……。
男の夢を弄び……踏みにじり……あまつさえ食い物にする……本物の悪魔が、ここにいる……。
「うちに帰ったらありがとうのちゅーしたげるね?」
「心底いらねえよ! うわああああああああああん!」
相手が中学生の実の妹で、ここがショッピングモールのど真ん中で、周りにたくさん知らない人がいるという中でも、泣くことが許される状況ってあると思うんです(高校一年生男子・談)。
ひとしきり周囲に醜態を晒してから、ようやく落ち着きを取り戻すことができた僕。もう本気で帰りたい。今すぐ帰りたい。どちらかと言えば土に還りたい。
「ええと、あの……」
そんな僕を見かねてか、先ほどの店員さんが申し訳なさそうに声をかけてきた。完全にチコのせいだとは言え、店に迷惑をかけているのは間違いなく僕らなので、何を言われても仕方ないだろう。僕は身を固め、続く言葉に備えた。
だが、それは僕の予想とは少し――いや、ずいぶん違っていて。
「今になって気付いたんですが、この写真の方って、お客様ですよね?」
そう言って見せられた写真。今日、これと同じものを僕はもうすでに二回も見ている。
ここまで来ると、もはや無視できるレベルではない。僕の与り知らないところで、何かとてつもない意思が働いているとしか思えなくなってくる。
「……確かに、僕ですけど」
「ああ、やっぱり。昨日、沢渡遥という方から伝言を頼まれたんです。『冗談が不利益をもたらすのは悲しいことです。わたしにそんなつもりはないのですけど』だそうです。よくわかりませんけど、確かにお伝えしましたから」
……そして挙げられる名前は、やっぱり沢渡さん。
わけのわからない伝言も、三度目ともなるとそこまで驚きはしなかった。むしろその言葉について冷静に思考を巡らせることができるくらいの余裕は取り戻せていた。
確かに沢渡さんにはなんの責任もないけれど、僕はたった今、沢渡さんのせいで莫大な不利益を被ったところである。具体的には八千二百八十円。僕個人の意見を言うならば、それはとても悲しいことだ。
けれど、沢渡さんの伝言というそれが果たして本当に僕のことを指して言ったものなのかどうかは疑わしい。
そもそも、店員さんによればその伝言は『昨日』言付けられたものなのだから、今日ここで僕がチコに服を買わされてしまったことなんて、未来視でもできない限り沢渡さんに知る術はないはずなのだ。
……相手が別の人なら、そこまで考えを飛躍させることはないのかもしれない。
でも、相手はあの沢渡さんなのだ。
もしかすると、いやもしかしなくても、これって――……暗号、なのか?
わざわざ伝言という手段を選ぶあたり、えらく手間が込んでいるとは思うけれど……あの女ならやりかねない。
沢渡さんは、そういう人だ。それはきっと僕が世界で一番よく知っている。
「どしたの、難しい顔して?」
「ん……ああ、いや……」
不思議そうに僕の顔を覗き込んでくるチコに、僕は曖昧な返事だけを返す。
こいつにだけは余計なことを言いたくなかった。ただでさえ今日の予定はメチャクチャなのに、これ以上引っ掻き回されては堪らない。
そう。この暗号は、僕と沢渡さんの、ふたりだけの勝負なのだ。そういう風に沢渡さんが仕組んだに違いないのだ。
暗号を解ければ僕の勝ち。解けなければ、沢渡さんの勝ち。僕が勝てば、きっと沢渡さんは僕の前に姿を現してくれる。
……そうか。そういうことか、沢渡さん……!
「今度はなんか楽しそうだね。チコは許したげるけど、客観的に見るとけっこうキモいよ兄ちゃん」
「黙っとけや!」
チコに一発突っ込みを入れて、僕らは店を後にした。時計を見ると、時刻はちょうど昼の十二時。そろそろお腹も空いてきた頃だ。
「兄ちゃん、お腹すいたー」
「まあ、いい時間だしね……ファミレスでいいか?」
「うん。ミラノ風ドリア食べたい」
「あー。あれ美味しいよな」
味覚に関しては安上がりな奴なので助かる。これならあまり財布も傷まずに済みそうだ。
……って、待てよ。僕は今、無意識のうちにチコにおごることを考えていたのか?
……まあ、いいけどさぁ。
なんか妹に財布出させるのって兄としてカッコ悪い気がしてきたし(死亡フラグ)。
そして僕らはショッピングモール内の某ファミレスで昼食をとった。チコが頼んだのは宣言通りにミラノ風ドリア。ついでに半熟卵もせびられたけれど、さっきのワンピースに比べればかわいいものだ。ドリアをはふはふと口に運ぶチコはとても満足そうだった。ちなみに僕の注文はパルマ風スパゲッティに、フレッシュチーズとトマトのサラダ。
「兄ちゃん、トマトばっかりだね」
「好きだからな。トマトってすごく完成された食材だと思わない? このなんとも言えない甘酸っぱさとさ、固いところとゼリー部分との食感のバランスが堪らないよな。ああ、どうして僕はトマト農家の息子に生まれなかったんだろう。僕ほどトマトを愛している人間もこうはいないと思うんだけどなぁ」
「トマトについてそんなに熱弁されても困るんだけど……」
「トマト好きに悪い人はいない。けれど、トマト嫌いな奴は全員が僕の敵だ」
「囲まれたら間違いなく死ぬくらいには敵多いね、兄ちゃん」
チコが突っ込みに回る珍しいパターンだった。
と、そんなとき。
「あの、失礼ですが……西村さま、でよろしかったでしょうか?」
空いた皿を下げに来てくれた店員さんが、胸元から例の写真を取り出しながら言う。
「あ、はい。僕ですけど」
「突然すいません。実は昨日、沢渡遥という方から伝言を頼まれまして」
さあ来た。勝負の趣旨を理解した僕に、もはや動揺することなど何もなかった。
見ていてくれよ沢渡さん。いつか君の隣に並び立つ者として、僕はどんな暗号だってクールに解いてみせるさ。
万全の体勢で、続く言葉を迎え撃つ。
「ではお伝えします。『トマトは大嫌いです。なんというか、食感が』だそうです」
「僕らは戦わなければいけない運命なのかぁぁぁァァァーっ!?」
クールでもなんでもない僕だった。
*
僕とチコのデートもどきは、それからもつつがなく進んでいった。
妹とのデートの内容を事細かに綴っても気持ち悪いだけなので、ここからは大事なことだけを要約することにする。
大事なこと――つまり、行く先々で僕に伝えられた、沢渡さんからの伝言のことだ。
映画館のチケット売り場にて、『ほんと参りました。まさかこんなことになるなんて』。
ゲームセンターの店員さんから、『無理に背丈を伸ばしてみても、いいことなんてありません』。
お菓子が食べたいというチコのために寄ったコンビニで、『きっと二人なら大丈夫。一人じゃ出来ないことでもね』。
戻ってきた駅前で、今度は違うティッシュ配りの人から『夜は人の背後に、昼は人の影の中』。
帰りがけに立ち寄った公園で遊んでいた子どもから、『鍵を持たないで出てきてしまった時、すごく焦りませんか』。
以上、ここまでが本日の出来事のすべてだった。
……まあ待とう。僕はまず、落ち着いて状況を整理するべきだろう。
思いっきりチコの遊びに付き合わされた結果、もうすっかり空はこんがり焼けた茜空。そろそろ戻らなければ夕飯の時間になってしまうので、僕は仕方なく駅前を離れたわけだ。
それでもまだ未練がましく可能性を信じて、普段は足を運ぶこともない公園なんかに立ち寄ってみたら、結局そこでも伝言を受け取っただけで。
カラスの鳴き声が響く帰り道、僕の隣には上機嫌でスキップをするチコ。そりゃ一日ずっと遊んでやったんだから、おまえはさぞ楽しかったことだろうね。
……ええと、あのさ。
沢渡さん、いつ出てくるの?
僕、そろそろ泣いちゃうよ?
一日に二回も泣きたくないよ?
そういうわけで、僕は完全に哀愁タイムに突入しようとしていた。気を抜くと本当に涙が滲んできてしまいそうだ。
この一日はいったいなんだったんだろう。これじゃあ、ただチコのお守りをしていただけじゃないか。その上決して安くはない無駄金まで使わされて……。
「なあ、チコ」
「んー、なぁに?」
「殴っていいか?」
「やだよ!」
兄にあるまじき発言は当然のように拒否された。まあ、本気で殴る気なんてないけどさ……。
溜息はいくら吐いても尽きることはなかった。本当に、どうしてこんなことになったんだろう。
やっぱり、僕がまったく暗号を解けていないからなのだろうか。沢渡さんのメッセージについて一応考えてはみているものの、意味はさっぱりわからないままだった。
そもそも、この伝言ゲームがいつ終わるのかもわからないのだ。判断材料が十分なのか不十分なのかすらわからないこの状況では、正直なところ、どうしようもない。
「はぁ……」
「……」
何回目かわからない溜息を吐く僕。そんな僕を横目に、チコはなにやら意味深な表情を浮かべて黙っていた。こいつは喋っているときよりも黙っているときのほうが珍しいやつなので、その表情は逆に僕の目を留めることになった。
「どうかしたのか、チコ」
「……うーん、いやぁ。いくら兄ちゃんとはいえ、そろそろ可哀想になってきたかなぁって」
「……はぁ?」
訳知り顔で意味深な台詞を呟くチコ。言葉の意味を思わず聞き返した瞬間、チコは突然その場で足を止め、僕のほうを振り向いた。
そしてチコは、このわけのわからない一日の中でも最も意味のわからない言葉を、どこまでも真顔で口にしてみせた。
「ほんとは家に帰ってからっていう約束だったけど、今言っても一緒だしね。可哀想だからもう教えたげる。これから伝えるのが、沢渡さんからの最後の『伝言』だよ、兄ちゃん」
「…………はぁぁ?」
混乱するばかりの僕。ええと、ちょっと待ってくれ。言っている意味がまったくもってわからない。チコが沢渡さんからの伝言……
って、えええー……?
「ごめんね、兄ちゃん。一気に言ってもわかんないと思うからひとつずつ話すね。チコ、実は今日のデートのこと全部知ってたんだ。兄ちゃんに聞く前から」
「……知ってた、だって?」
「うん。だって、沢渡さん本人から教えてもらったんだもん」
「はぁぁぁ……?」
「兄ちゃんは部屋に引きこもってたから知らないと思うけどさ、昨日うちに来たんだよ、沢渡さん。兄ちゃんの言った通りだねー。すっごい綺麗なひとだった」
この時点ですでにもう、僕の頭の中はクエスチョンマークで飽和状態だった。チコはいつもより気持ちゆっくりめの口調で続ける。
「そんで頼まれたの。明日はチコに、兄ちゃんを町中引っ張りまわしてほしいって」
「……つまりおまえも共犯だった、ってことだな?」
「ぶっちゃけた言い方をすればそうなるね。伝言はぜんぶで十個で、最後の一個は家に帰ってからチコが伝えることになってたんだけど、なんか兄ちゃん、放っといたら今にも死にそうだったからさ。少しくらいフライングしたげてもいいかなっていう妹心でした」
しれっと言い放つチコに、僕はいったいどんな感情を向ければ良かったのだろうか。
こいつが妹じゃなければ今度こそ本当に手が出ているところだぞ……?
……いや、でも、うん。
「……正直、言いたいことはものすごくたくさんあるけど、とりあえずおまえの言ってることは理解したよ。そりゃそうだよな。不特定の場所であれだけ大勢の人を使った伝言ゲームなんて、そもそも協力者がいなければ成り立つわけがないんだ。……わかった、ああ、わかったよ。そのことに気付かなかった僕が悪うございました。はい、どうもすいませんでしたー!」
「なんかやけっぱちだね、兄ちゃん?」
「そりゃ自棄にもなるわ! ただのピエロじゃねえか今日の僕!?」
いやもう、ほんとに。こういうの、お願いだからやめてくれないかなぁ……?
惚れた弱みがなければショックで引きこもりになったっておかしくないよ?
僕の身の回りには悪魔が多すぎる。この町は実は魔界なのか?
「あはは。まあ正直、あんなすごい人についていける兄ちゃんもすごいと思うよ? そのことは沢渡さんも言ってたもん。「西村くんは絶対に呆れないでいてくれるから、わたしも本気で仕掛けを用意できるんです」って」
「……へ、へえ。そんなこと言ってたんだ、沢渡さん」
「あれれ兄ちゃん、まんざらでもない?」
「そ、そんなことないぞ?」
嘘です。超まんざらでもなかった。
沢渡さんがそんな風に思ってくれているなら、僕も誠意をもって沢渡さんとの勝負に臨まなければならないだろう。その意気だけで挫けかけていた気持ちが一気に元通りになっていく。ああ、我ながら単純なやつ。
「じゃあチコ、沢渡さんからの最後の『伝言』っての、教えてくれよ」
「あ、うん。えっと……『疲れさせちゃってすいませんでした。さて、西村くんにはわたしの言葉が伝わりましたか?』だってさ。これで十個。伝言はぜんぶ出揃ったね」
「……うーん」
言葉をそのままの意味で捉えるべきではない、というのは先に理解したとおりである。それは間違いない。
「っていうか兄ちゃん、そもそも伝言ってぜんぶ覚えてる?」
「そりゃ当然覚えてるさ。だって沢渡さんの言葉だろ? そんな大事なことを、この僕が一言一句たりとも忘れるわけないじゃんか」
「……あ、う、うん。そっか。ならよかった」
チコが若干引いているように見えた。ふん、沢渡さんに関する僕の熱意と記憶力をなめてもらっては困るぜ。
そういうわけで、出揃った伝言を並べてみよう。
『昨日のことでしたね。あなたは覚えていますか?』
『ショックだったんです。まさか西村くんが……』
『冗談が不利益をもたらすのは悲しいことです。わたしにそんなつもりはないのですけど』
『トマトは大嫌いです。なんというか、食感が』
『ほんと参りました。まさかこんなことになるなんて』
『無理に背丈を伸ばしてみても、いいことなんてありません』
『きっと二人なら大丈夫。一人じゃ出来ないことでもね』
『夜は人の背後に、昼は人の影の中』
『鍵を持たないで出てきてしまった時、すごく焦りませんか』
『疲れさせちゃってすいませんでした。さて、西村くんにはわたしの言葉が伝わりましたか?』
これで十個、全部だ。順番も正しいはず。
……ん、待てよ。順番?
「なあチコ。おまえさ、沢渡さんから僕を誘導するように頼まれたって言ってたけど……それって、それぞれの場所に行く順番も指定されてたか?」
「え? あ、うん。最初は駅前で、そのあとはショッピングモール。それから服屋さんに行って……って感じで、ちゃんと順を追っていくようにって頼まれたけど」
やっぱり。これは大きなヒントだ。
「他に何か言ってたことはなかったか?」
「他に……あ、そうそう。兄ちゃんがゲームのルールに気付いてくれたら、一個だけヒントを出してあげてほしいって言ってたね」
「そのヒントってのは?」
「えーっと……これは『巡り合わせのメッセージ』だって」
「……ふむ」
ここまで出た情報をまとめて、僕はもう一度頭の中を整理してみることにした。
言葉そのものに意味はない。言葉は文字。きっと、それ以上でもそれ以下でもない。
そして、指定された伝言の順番。
さらに沢渡さんからのヒント。巡り合わせのメッセージ。
巡り、合わせる。
……なんのことだろう?
「うーん……なんだろ、巡り合わせって」
「なんか兄ちゃん、楽しそうだね」
「馬鹿言えよ。こんなのほとんど罰ゲームだろ」
「そうは見えないよ? 兄ちゃん、いつもより生き生きしてる感じ」
そう口にするチコのほうこそ、なんだか楽しそうだった。いちいち受け答えするのも悔しかったので、ああそう、と適当に流しておくことにした。
……言われてみれば確かに、謎解きを楽しんでいる自分がいるのも否定できないんだけれど。
「ふーむ……しかし、巡り合わせ……巡り合わせねぇ……」
「何かが出会うのかな?」
「……何か、ねぇ。暗号、メッセージ……」
ぶつぶつと独り言を呟きながら、僕は色々な可能性を脳裏に思い描く。が、そのどれもが今ひとつ説得力に欠けるものばかり。これという決め手には至らなかった。
そんな折、チコがぽつりとこんな言葉を漏らした。
「関係あるのかどうかわかんないけど、クロスワードってあるよね」
「……クロスワード?」
「うん。あれってさ、文字と文字が巡り合ってるよね。縦と横で。だからなんとなく思いついて言ってみたんだけど……いや、でも違うね。ごめん、なんでもなかった」
縦と、横。
文字と文字を、巡り合わせる。
「――チコ、それだ」
チコのその一言で、僕の頭の中にひとつの閃きが走り抜ける。なるほど……そういうことか!
クロスワードそのものとは違うけれど、考え方はまさにそれだったのだ。定められた順番、沢渡さんのヒントの意味。その二つが、かちりと噛み合った瞬間だった。
「え……今のでわかったの、兄ちゃん?」
「答えはまだだけど。たぶん法則性は見つけた」
そう言うと、チコはずいぶん驚いた顔をしていた。これまで散々馬鹿にされてきたせいもあってすごく小気味いい。
「つまりさ。縦と横を巡り合わせるんだ。言葉を平仮名に直して並べて、縦と横に数字を振る。そんでもって、同じ数字を合わせる」
「……え、え? どゆこと?」
「わかんないかな。気付かせてくれたのはチコだぞ? えっと、つまりこういうこと」
僕の言っている意味がまだわからないらしいチコのために、僕はカバンからメモ帳とペンを取り出して、さらさらとその内容を書き写していく。
十行目まで書き終えてから、僕はそのメモ帳をチコに見せてやった。
「ほれ。これなら一目でわかるだろ。十文字目以降は必要ないから省いたよ」
「……ああ! なるほどね!」
そのメモに目を落とし、ようやくチコも理解したようだった。
要するに、順列遊びだ。縦の列と横の列の同じ数字が重なる文字を抜き取って、順に並べていけばいい。
「……っていうかほんと、兄ちゃんって気持ち悪いくらい記憶力いいよね」
「まあ、唯一の取り得みたいなものだし」
「神は二物を与えずとも言うしねー。他が可哀想な分、ひとつくらいは飛び抜けてなきゃ人としてどうかと思うもんね」
「自分で言うのと他人に言われるのとじゃ腹立たしさが違いすぎる!」
まあ、そんな茶番もようやく答え合わせの時間を迎えることができたわけだ。僕とチコは互いにメモ帳へと視線を落とし、法則通りに文字を拾っていく。
さあ沢渡さん、僕は解いたよ!
ずいぶん遅くなっちゃったけど、これで出てきてくれるよね!
一二三四五六七八九十
一きのうのことでしたね
二しょっくだったんです
三じょうだんがふりえき
四とまとはだいきらいで
五ほんとまいりました。
六むりにせたけをのばし
七きっとふたりならだい
八よるはひとのはいごに
九かぎをもたないででて
十つかれさせちゃってす
「………………」
「………………」
さすがのチコも黙り込んだ。
そして、哀れむような物悲しい眼差しを浮かべて、凍りついたままの僕の肩にぽんと手を置いて。
「……どんまい、兄ちゃん!」
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!」
結局また泣く僕だった。
*
沢渡さんから僕の携帯に着信があったのは、その日の夜のことだった。
『西村くん、こんばんはー。今日はお疲れ様でした。チコちゃんとのデート、楽しかったですかー?』
ワンコールで電話を取った僕に、沢渡さんは何も悪びれた様子もなく、さっそくそんなことをお抜かしになられた。
「きみは……きみって奴は……っ!」
怒りで電話を握り潰しそうになってしまう僕。この女の……この女のせいで……僕は……僕は……っ!
言葉にならない僕の怒気を感じ取ったのか、さすがの沢渡さんも、続く言葉は若干声を潜める。
『……ごめんなさい。自分でも、冗談にしてはちょっと性質が悪かったと思ってます』
「本当だっての! 本気で傷付いたわ!」
『楽しんでもらえると思ったんですけど……』
これが冗談でもなんでもない、沢渡遥の素の発言であるというのだから本気で人格を疑う。本当に僕はこの子のことを好きなのかどうかすら怪しくなってきた。
『あのですね、何を言っても言い訳にしかならないと思うんですけど……いちおう、行けなかった理由はあるんですよ?』
「そりゃ、理由もなしにあんなことされたら首吊るよ……」
『わたしのせいで死人が出たら困ります。やめてください』
「あんたがやめてくれよ!?」
近所迷惑も忘れて叫んでしまう僕だった。マジでなんなの、この性格破綻者。
『ええと、その、理由というのがですね。遠くから知り合いが来たので、今日一日接待をしなきゃならなかったんですよ』
「へえ。遠くって、どこから? 電車で一時間くらい?」
『ロシアです』
「……はぁ?」
『だから、ロシアから来たんですよ、知り合いが。わたしが昔ホームステイしてたのって言いましたっけ?』
「いや、初耳だけど……」
『中学二年のときだから、二年前ですね。そのときのホストファミリーがこっちに遊びに来てくれたんです。どうやらうちの家族と共犯でサプライズにしておきたかったらしくて、わたしがそのことを知ったのが昨日の朝でした』
「……」
電話先で未知の言語が飛び交っていた。なんかこう、人間としてのレベルの違いを感じるというか。
沢渡遥という少女はすごいのだと、そんな当たり前のことをいちいち再認識させられるのが腹立たしい。
『わざわざロシアから日本に来てくれるっていうのに、それを放ってわたしが遊び歩くわけにもいかないでしょう?』
「……それは、確かにね。その通りだよ」
『まあ、事情を話せば遊びに行かせてくれたとは思うんですけど……』
「……ですけど?」
『たぶん、ファミリーのみんなもついてきましたよ。「ハルカのボーイフレンドだって? それはぜひとも見に行かなきゃ!」みたいなノリで』
「……」
それは、嫌だ。
嫌すぎる。
何が悲しくて、見知りもしないロシア人家族に沢渡さんとのデートを邪魔されなきゃいけないんだ……。
『まあ、そういうわけだったんです。けれど事情をありのまま西村くんに伝えたってつまらないでしょう? だから自由に動ける昨日のうちに、いろいろと今日の仕込みをしておきました。西村くんの家にまで来たのはさすがにリスクを犯しすぎかなとは思ったんですけど、狙い通りに妹さんが出てきてくれて助かりました。そうそう、チコちゃんって言うんですね。ちっちゃくてすごくかわいい子じゃないですか。うちの妹に来てほしいくらいです』
「あんなのでいいなら喜んでプレゼントするよ……」
『そんなこと言ったらダメですよ。わたし、ひとりっ子だからきょうだいってすごく憧れます。西村くんが羨ましいです』
とても返答に困る言葉だった。今日一日を振り返るだけでも、僕に羨まれるようなところが果たして一個でもあっただろうか?
世の中はきっとないものねだりに満ちているのだ。持たざる者は持つ者を羨み、けれどその逆も一緒。
そのことを実感として感じることはできないけれど、たぶん、そういうことなんだと思う。
『……西村くん、やっぱりまだ怒ってます?』
そんなとき、ぽつりと呟くように紡がれた、こちらの機嫌を窺うような言葉。
それが引き金になって、胸に詰まった白いもやもやが思わず口をついて出てしまう。
「……そりゃあね。行けない理由があったってのはわかったけど、それにしたってやり方はあったんじゃない? 今日はほんとに楽しみにしてたんだよ?」
『……ごめんなさい。そのことについては、本当に申し訳ないと思ってます。やっていい冗談と悪い冗談があるというのがわかりました』
「それがわかってくれたなら……まあ、いいけど」
まだまだ言いたいことはあったけれど、ぐっと言葉を堪える。沢渡さんが完全に悪いわけじゃない。それは知ってる。それは知ってるから……だけど、やっぱり釈然としない気持ちがあるのも事実で。
「……おやすみ、沢渡さん。また明日、学校でね」
『わかりました。おやすみなさい、西村くん。また明日』
これ以上口を滑らせてしまう前に、僕は自分から電話を切ることにした。沢渡さんもそれ以上の言葉を返すことはなく、拍子抜けするくらいあっさりと通話は終わった。
携帯電話を閉じた途端に、部屋の中がなんだか気持ち悪いくらい静かになったように感じた。なんだかひどく後味が悪い。
……こんな一日になるはずじゃ、なかったんだけどなぁ。
椅子の背もたれに体重を預けて、ぼんやりと電球の明かりを眺めていると、不意にドアを叩くノックの音が聞こえてきた。
「チコだけど。入るね、兄ちゃん」
僕は自分の耳を疑った。今まで何度言っても聞かなかったチコが、わざわざノックをして僕の部屋に入ってくるだって?
当惑する僕をよそに、がちゃりと扉を開けて入ってくるパジャマ姿のチコ。風呂上がりなのか、その頬にはまだほんのり赤みが差している。
「ごめん。立ち聞きするつもりじゃなかったんだけど、聞いちゃった」
「……今の、電話のこと?」
「うん。いちおうチコにも共犯としての責任はあるし、やっぱり兄ちゃんにはちゃんと謝らなきゃいけない。今日はごめんね、兄ちゃん」
やけに殊勝なチコの態度に、僕はかえって面食らうばかりだった。こんなに素直なチコなんて、逆に気持ち悪い。
そんなことを思っていたら、チコの言葉にはまだ続きがあった。
「でもね。今の電話は、兄ちゃんが悪いよ」
「……僕が悪い、だって?」
「うん。兄ちゃん、女心がぜんぜんわかってない。そりゃ兄ちゃんの気持ちもわかるけど、自分のことばっかりなのはよくないよ」
どうやらチコは、先程の電話の内容に対して怒っているらしかった。
言われていることは何となくわかる。あんな風に会話を終えるべきではなかったのだ。それくらいは自覚しているけれど――
「……でも、あれでもだいぶ我慢したんだぞ? ほんとはもっともっと言いたいことはあったのに」
「だから、違うってば。兄ちゃん、沢渡さんに自分の気持ちしか伝えてないでしょ? すごく楽しみにしてたのにって。……あのさ。これはあくまでもチコの意見だけど、ひとりの相手のためにあそこまで色々やってみせるのって、すごいと思うんだよね」
「……沢渡さんのこと?」
「うん。それが結果的にどうだったかはともかく、それだけの労力を割けるのって、すごいよ。少なくともチコだったら、どうでもいいと思ってる相手にそんな面倒なことはできないな」
そこまで言われて、ようやくチコの言葉の真意がわかってきた。同時に、僕が沢渡さんに対して放ってしまった失言にも思い当たる。
「今日をすごく楽しみにしてたのって、兄ちゃんだけじゃないと思うんだ。それなのに、兄ちゃんは自分の気持ちだけをぶつけちゃった。沢渡さんも悪いと思ってるから何も言わなかったんだろうけど、けっこう堪えたと思うよ」
「……そうか。そうだよな」
チコの言葉は、悔しさすら浮かばないほどにその通りだった。確かに僕はずっと自分のことばかりで、沢渡さんの気持ちなんてぜんぜん考えていなかった。
……でも。沢渡さんの気持ち、なんて言われても。
「けどさ。僕には自信がないんだよ。本当に沢渡さんが、僕のことをそこまで考えていてくれるのかどうか」
「……はぁ。兄ちゃんって、ほんとに女心がわかってないんだね。そういうのもかわいいと思うけどさぁ……大事なときくらい、ちゃんと決めてあげなきゃダメだよ。女の子は言葉と気持ちが真逆のときだってあるんだから。相手が何を考えてるか、心の裏側まで読んであげなくちゃ」
「心の裏側、って言われても……どうすりゃいいんだよ、そんなの」
「そこまで面倒見きれない。そもそも、沢渡さんのことはチコより兄ちゃんのほうがずっとよく知ってるはずでしょ? 兄ちゃんなりに考えてみなよ。それじゃ、チコはもう寝るね」
「……わかったよ。おやすみ」
「うん。あ、それともういっこ」
扉を開けて部屋の外に出たチコが、最後にくるりと振り返って、言う。
「今日、すっごく楽しかった。気が向いたらまた遊びに連れてってね。ワンピース、大事にするからね。それじゃ、おやすみ〜」
眩しいくらいに満面の笑みを浮かべて、チコは自分の部屋へと戻っていった。
……言いたいことばっかり言いやがって。兄貴の面子も何もあったものじゃない。
こうなったら意地でも考えてやる。沢渡さんの本心とやらを。
「……とは言ってもなぁ」
それでも、わからないものはわからないのだった。そもそも僕が沢渡さんについて知っていることなんて、とにかくすごい女の子だということと、何を考えているのかわからない女の子だということだけで。
何を考えているのかわからない相手の心なんて読めるわけがない。
八方塞がりになって、ふと机に目を落とした、その時のこと。
そこにあったのは、今日の夕方に僕が絶望の淵に叩き落されることになった、例のメモ用紙。
そのメモとしばらくにらめっこをしているうち、僕はちょっとしたことを思いついた。
すぐさま消しゴムでその部分を消して、書き換える。馬鹿なことをしているとは思う。けれど、僕と沢渡さんを繋ぐものなんて、今はせいぜいこのメモ用紙くらいしか思いつかないから。
チコは言っていた。女の子は言葉と気持ちが真逆のときだってあるんだ、と。
その言葉を頼りに、思いつきを形にしてみる。
……すると。
「……っ!」
そのときの僕の驚きを、いったいどう言葉にしたらいいのか。
あまりの衝撃にぶるぶると手が震えている。それだけ驚いた、というのはもちろんあるのだけれど――それだけじゃない。
これは、歓喜の震えだ。
こんな馬鹿みたいな思いつきが、本当に形を成してしまったということに対する驚きと。
そんな馬鹿みたいな思いつきを、僕たちふたりで共有することができたのだという喜び。
こうしちゃいられなかった。僕はすぐに携帯電話を開き、アドレス帳から沢渡さんの名前を探す。もう夜も遅いし、電話じゃ迷惑だろうから、メールにしておこう。
『次の休日はいつ?』
心ばかりが急いて、なんの飾り気もない文面が出来上がってしまう。けれど、構うもんか。僕がいま沢渡さんに聞くべきことはそれで十分なのだから。
……返事が来るまで眠れそうにない。
いや、それでもいいか。いっそ朝までだって待ってやろうじゃないか。
その間に僕は、次のデートコースのことでも考えておけばいいだけの話。
一二三四五六七八九十
十きのうのことでしたね
九しょっくだったんです
八じょうだんがふりえき
七とまとはだいきらいで
六ほんとまいりました。
五むりにせたけをのばし
四きっとふたりならだい
三よるはひとのはいごに
二かぎをもたないででて
一つかれさせちゃってす
了