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水の声  作者: 森野 菫子
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平野君走る

 ホームルームが終わり、先生が教室から出た途端、がやがやと雑多な音が耳に絡んできた。

 それは、声だったり音だったり。

 今日は、帰り支度をできるだけぐだぐだとし、教室を出る最後になろうと、教室のあちこちでキーというやや不快な音を立てながら、机に椅子を戻す様子を、机の引き出しからゆっくりと教科書を出すふりをしながら注意深く観察していた。

 新しいクラスになり1か月が経過すると、すっかり気のあうグループができあがっている。

 部活を入ってる子らは、跳ねるようにそれぞれ始まったばかりの部活に向かっていく。ゆっくりと教室の入り口に向かう子らの隙間を駆け足で抜けながら。新入生が入り、先輩になってできることも増え、部活にいくのが楽しくて仕方ないのだろう。

 なんの部活にも入っていない、帰宅部の子たちも、それぞれ帰る方向が同じ子らで固まりながら、小テストの答え合わせしたり、ゲームの話を捲くし立てたりと、それぞれが1日の学校が終わった安堵感から放たれて笑顔で教室を後にしていた。

 43人の喧騒が収まるのに数分はかからなかっただろう。 

 まだ定期テストの予定もないし、教室にわざわざ残ろうなどというものはいなかった。それはわたしにとっては幸運なことだった。 

 ようやく私は教室に一人になった。

 ひとつ大きな伸びをして、椅子を窓側に向けて座り直した。

 私は先週の席替えじゃんけんに負けて窓際の一番前になった。この席は、日光が黒板に反射し、板書がしにくいためあまり人気がない。授業中、強い風で時々クリーム色のカーテンが顔に当たってかび臭いにおいが一瞬鼻をつく時もあるが、校庭がよく見えるこの席を私はまあまあ気に入っていた。

 板書ができないことも、私にとってはたいした問題ではなかったし。


 校庭の朝礼台の側には、樹齢百年のくすのきが、東中学校の主のように威張って立っている。

 毎週月曜日にはそこにスタンドマイクが置かれ、わたしたちは校庭で直立し校長先生のありがたいお話を聞かなければならない。

 今はそのグラウンドは、部活動の掛け声や、ボールを打つ金属音に占領されていた。

 一瞬の強い風がくすのきの葉を一斉に揺らした。

 グラウンドの土が舞い上がり目に入ったのだろう。ちょうど、グラウンドの中心では、ハードルを飛び終え、ゆっくりと歩きながら息を整えていた女子が、

「キャー。」

と、高い悲鳴を上げて腕で目をかばって立ち止まっていた。

 トラックの集団で走り込みをしていたマラソン部の男子数人が、悲鳴が上がったほうを振り返った。

 すぐに、問題ないと判断したのだろう。すぐに前に向き直り、少しスピードを上げた。

 その中には、今年クラス替えで別々になった平野君もいた。

 平野君は集団の先頭を走っていた。


 去年のことが、鮮明に蘇ってきた。遠くに見える山の緑が日毎に濃くなり、帰る頃には制服のブラウスにじっとりと嫌な汗がついてくるような季節だった。トラックを陸上部が走っていた。

これで平野君の走りを見るのは何回目だろう。

平野君はとっくに走り終えた先輩から、

「がんばれえ、ひらのお。」

と声をかけられても、小さくうなずくだけで、もつれそうになっている足を歩くのとほぼ変わらない速さで前に進ませていただけだった。加藤コーチからも、

「がんばれ、平野、あと2周だぞお。」

と、声をかけられ返事をしようと気持ちだけが口を開けさせているのだろう。しかし、顔は紅潮し、顎は上がり、開けようとする口は、ただパクパクと、餌を欲しがる金魚のように動かすだけで一言も発っさなかった。

 学校の門は、それぞれ正門、北門、東門と三カ所あり、それぞれ、自宅の方向に都合のいいどの門を使ってもいいことになっていた。ほとんどの生徒が正門ルートを使うのだが、私は、学校の北門から出て10分も歩いたところが自宅で、当然北門が一番勝手がいい。そのため、グラウンドの横を抜けていくのが一番近道になる。だから、毎日その北門ルートを通っていた。1300名を超える在校生の中で、北門を使うのは、おそらく50名もいないだろう。それくらい、人気のないルートだ。

 だから、グラウンドに沿って帰る北門組の生徒は目立つ。まあ、本人が思うほど目立ってないのかもしれないが、こちらから見るとユニフォームを纏って元気いっぱいですっていう子を横目に、グラウンド沿いに制服で歩くのは、ちょっと申し訳ないような、気恥ずかしい気がして、自然と早足になる。

 

 その日は、担任から用を言いつけられて、帰りがすこし遅くなっていた。ようやく雑務から解放されほっとしていた。ただ考えながらぼんやりと足を動かしていた。

 私は先生からよく雑務を言いつけられる。なぜなんだろう。

(なんでも言いつけてください、わたしやりますよ。)

なんて、従順な犬のように先生には見えているのだろうか。部活を入っていなくて頼みやすいのだろうか。しかし、帰宅部は私だけではないはず。頼みやすい顔をしているのだろうか。

 人によく道を聞かれる人とそうでない人がいるように。

 フランス人に道を尋ねるときは、異性に聞いたらうまく行くって、フランス旅行のガイドブックに載ってたなあ。でも、わたしだったら同性に聞くわ。などと少しずつ思考が寄り道していった。

 こうなってくると、先生が頼みごとをすることの理由なんてどうでもよくなってくる。

 いろいろと、解答を探してみたところで、答えを知っているのは結局は私ではないので、考えるのはやめたほうがいいだろう。夕飯の献立を推理するほうが、数倍楽しいかもねと、そんなことを思いながら、ゆっくりとグラウンドを眺めながら歩いていた。すると、マラソンの集団の中にひとりずいぶんと遅れて走ってる子がいるのに気づいた。 

 わたしはいつの間にか立ち止まってその子をずっと目で追いかけていた。

陸上部の体形、特に長距離ランナーの体形にはやや似つかわしくない、決して太ってはないが、贅肉が削がれた体形とはやや言い難い、極めて普通の体形の少年が一人走っていたのだ。いや、ほとんど歩いていたのだ。もう、彼は気力だけで進んでいるようだ。必死に足を動かしながら、前に崩れかかるように交互に右足と左足をほんの少しだけ浮かしながら進んでいるように見えた。そうして、ちょうど、わたしの横を通り過ぎたとき、一瞬だけその子と目が合ったような気がした。わたしにすこし微笑んでくれたような気がした。

 それが、初めて平野君が走っているのを見た日だった。


 翌日、教室に入り、席に着くと、同時に、

「河野さん、おはよう、」

と、滑るようにこちらにやってくる男の子がいた。明るく、屈託のない笑顔だった。

「おはよう、ございます。」

初めて話すその子にすこしぎこちなく挨拶を返した。

「えっと。」

「あ、ぼく平野といいます。平野健太郎です。」

「あ、はい、河野です。よろしくお願いします。えっと、わたし何かしましたか。」

「いや、昨日河野さんぼくと目があったでしょ。」

「え、いつ」

「僕走ってるときに。」

「あ、あー、あのとき。同じクラスだったんですね。すみません、わからなくて。まだ、クラスの名前も顔も憶えていなくて、同じクラスだったのに、失礼ですね、わたし。」

「ぼくは知ってましたよ。河野さん、河野ひなたさんですよね。いつも静かですよね。」

「いや、いや、そんなことはないです。ただ、お前は話さなかったらそこそこ美人に見えるが、話すとがっくりするからあまり話すなといわれてまして。またほんとに人見知りが激しいもので、なかなか積極的に交友関係を構築しようとしていないだけで、ほんとに失礼な態度で申し訳ありません。」

「いやあ、そんなに、ぺらぺらと話すことができるのなら、人見知りではないでしょう。」

にっこりとほほ笑んでくれた平野君の目はくしゃくしゃだった。

「ねえねえ、河野さん。昨日、僕走るの見てくれてたでしょ。」

「はい、見ました。」

一瞬、沈黙のあと、

「平野君はなんで陸上部に入ったんですか。」

「あー、僕がすっごく遅かったからそう思った?」

「いや、そういうわけでは。」

図星である。言ってすぐに後悔した。平野君は困っただろうか。どうしてずけずけと物をいうってしまうんだろう。すると、おはようと同じ口調で、

「ぼくね、ずっと早く走ってみたかったんだ。大丈夫だよ。今は一番遅いけど、見ててね。早くなるから。」

と、笑った。その時、ちょうど始業のベルがなった。

「またね。」

と、言いながら上靴を滑らせるように平野君が席に戻っていった。


 それからは、晴れた日は放課後走っている平野君を横目で追いながら校庭を横切って帰る日が増えた。

  

 二学期に入ると、夏休みの特訓をやり切った平野君は、もう周回遅れではなくなっていた。みんなにすこし遅れながらも喰いついて走っていた。

先輩が、

「ひらのー、あと少しー、ピッチ上げろー。」

と叫ぶと、平野君は、苦しそうな声だがしっかりとした声で

「はいっ。」

と、叫び、すこし速度を上げた。

その声はしっかりと先輩に届いていたのだろう。

「いいぞー、平野その調子だ。」

先輩が、平野君のほうを振り返りながら、嬉しそうな声で答えていた。

その頃には、平野君の短パンからはすっかり長距離ランナーのしなやかな絞られた足が伸びていた。


 そして今、校舎に沿って植えられた桜は、去年と同じように咲き、そして散って、とっくに葉桜になっている。今は、集団の一番前を顎をすこし引き気味に、力強く地面を蹴って走っている。

「全員あと5週、ファイトオー。」

 その声は去年話しかけてきた時とは、明らかに変わっていた。変声期に差し掛かって以前の高い声に比べたらすっかり面影が消え、低くなった平野君の声が響いた。かわいらしい声だと女子には好評だった。私も彼の素直な性格がそのまま表れているようなあの声が好きだった。変声期とはなんともつまらないものだ。

 後ろについている7,8人のランニングシャツが、

「はい。」

と、呼応する。真っ白なシャツの背中に汗を滲ませた男子の声の集団が五月の空が吸い込まれていく。

 平野君をただ眩しく見ているひとりの時間が、今日はわたしは欲しかったのだ。


 

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