死者からの手紙(ユベント伯爵夫人フローラ)(3)
ようやく涙が止まり、落ち着いたところで夫人がお茶を替えてくださる。
お兄様は大変恐縮され、また後日にでもとお申し出をいただいたが、わたくしは首を横に振った。
せめて、お伝えできることはお伝えしてしまいたい。
「その年の11月の終わりの、放課後のことです。
わたくし、温室に忘れ物をしてしまって、一人で取りに戻りました。
探すのに手間取っていたら、雷が鳴り出して、激しい雨が降り出しました。
ようやく見つけて、女子寮へ戻ろうと近道を急いでいたら、特別寮の方から叫び声が聞こえて……」
今は夏なのに、急に暗くなった空、冷たい大粒の雨、轟く雷鳴を思い出す。
無意識に、両腕で自分の身体を抱いてしまった。
「特別寮には近づかないようにしていたのですけれど、思わず様子を伺ってしまいました」
その時見た光景を思い出すと、今でもきゅっと胃が縮む思いがする。
「建物から少し離れた芝生で、殿下がアナベラ様を打擲されていました。
アナベラ様が倒れられたら、お身体を蹴って。
アナベラ様は、声も上げず、身体を丸めてじっと耐えていらっしゃいました」
泣いたり抗ったりしたら、さらに折檻されるとご存知だったからなのではないかと思う。
まさかそこまでされていたとはと、ご一家が息を飲んだ。
「………殿下は、アナベラ様にそれは酷いことを仰っていました」
呟くように口にしたが、ここからは、どうお伝えしてよいのかわからない。
あの時、殿下がアナベラ様に投げつけられていた罵言は忘れられないが、ご家族の前で口にすることなどわたくしには出来ない。
嘘つき。
娼婦。
こんな汚い言葉がこの世にあるのかと驚いた、娼婦に類する──もっともっとえげつない言葉。
ご家族を侮辱し、身の程を知れと嘲笑し、平民臭いんだよとさらに蹴る。
髪を掴んで引き起こすと、またアナベラ様のお心をえぐりつけるような罵言を浴びせ──
「詳細は、到底申し上げられませんけれど……
要するに……」
本当に、ご家族になんと申し上げてよいのかわからない。
でも、アナベラ様がどんなことをされたのか、お伝えしなければならない。
思わず早口になった。
「殿下は、暇つぶしにアナベラ様の身体をおもちゃにされただけだと。
アナベラ様ご自身のことはどうでもよく、ただカタリナ様に嫌がらせがしたかったからだけだと。
アナベラ様が懐妊されたというのは嘘だと。
嘘でなくとも、それは自分の種ではないと」
「え!! 懐妊!?」
ご夫婦が揃って、一斉に声を上げる。
その翌月にはご実家に戻られたはずだから、てっきりご存知かと思っていたので、逆にこちらがびっくりする。
ハンス君が一番冷静だった。
「叔母様は、お悩みで月のものが止まられたのではないでしょうか。
若い女性には、ままあることだと読んだことがあります。
それを勘違いされたのかと……」
「あー……」
それだ、と大人三人が嘆息する。
勘違いされた、という話は十分ありえる。
ご結婚3年目に、妃殿下の推薦で、多産で知られる家系の伯爵令嬢を側妃として娶られたのに、結局妃殿下にも側妃様にもお子様はない。
もちろん、一流の医師が何人もついているのにだ。
その後、側妃を新たに娶られることもないので、陛下に問題があると診断されたのだろうという推測が、貴族社会だけでなく平民の間でも暗黙の了解になっている。
わたくしは、アナベラ様は陛下のお子を懐妊されたとばかり信じていたから、子ができないのは因果応報ということだろうと思っていたけれど。
それにしても14歳の男の子とは思えない指摘だ。
もしかして、お医者様志望なのかと訊ねたら、そうだと頷かれた。
医学校に進むために先取りして勉強を進めていて、当時のままにしてあるアナベラ様の部屋で教科書を漁っていたら、講義ノートの端に書き込まれたメモや、わたくしのハンカチを見つけたそうだ。
テーブルの上に重ねて置かれているノート類がそれだ。
メモは、その折々の心象を走り書きにしたようなもので、人名は頭文字で書かれていたそうだ。
当時の事情がわからないご家族には、「M様」という殿下か王族に近い上位貴族らしい男性になにかとんでもなく悪いことをされて大変お悩みだったこと、「C様」に助けを求めたがひどく突き放されたこと、「C様」とは別の女性に助けられたことがあったことくらいしか読み取れず、結局ハンカチの家紋から私にたどり着いたらしい。
「M様」とは当時のマルセル王太子殿下、「C様」とは、十中八九カタリナ様だろう。
話を続ける。
「わたくし一人でお止めできる様子ではありませんでしたから、人を呼ばねばとも思ったのですが、呼びにいった隙にもっと酷いことになってしまうのではないかとおろおろしておりましたら……
殿下がアナベラ様を突き倒されたまま、ふいとお部屋に戻られました。
駆け寄って、とにかく殿下から離さなければと、アナベラ様をお支えして、本館の方へ向かおうとしたのですけれど……」
アナベラ様は抗われた。
自分は汚れているから、清らかな令嬢は触れてはならないと。
もうなにもかも終わったのだから、捨て置いて欲しいと。
身も世もなく、泣きじゃくっていらした。
冬の嵐の中、そんなことはないとなだめすかし、無理やり引きずるようにして、どうにか本館近くまで行った時──
「殿下の側近候補と言われていた上級生が三人、わたくし達の前に立ちふさがられました。
猫撫で声で、殿下とアナベラ様の間に行き違いがあったと仰って。
アナベラ様は、しばしご静養いただいた上で実家にお返しすると。
このことは、家族にも友人にも他言無用だと。
とにかく救護室で手当して差し上げたいと申しましたら、殿下の意向に歯向かうかとひどくお叱りになって──」
現在、その三人は、国の要職についている。
一人は侍従、もう一人は近衛師団幹部、そして内務副大臣だ。
「わたくし、もうそれ以上なにも言えなくなってしまって──
ありあわせのハンカチで、アナベラ様のお顔を拭って差し上げて、お元気になられたらお手紙くださいね、どこか楽しいところに遊びに行きましょうと申し上げるのが精一杯でした。
わたくしに気を使って、ほんの少しだけ笑みを見せて頷いてくださったのが最後で──」
目を伏せた。
その後、アナベラ様がお元気になられることなど、なかったのだ。
アナベラ様を衆目に晒すことになろうと、騒げるだけ騒いで人を呼ぶべきだった。
あの三人にしたって、学園内で仮にも伯爵令嬢であるわたくしを手にかけるのは無理だ。
でも出来なかった。
わたくしは、怖かったのだ。
男性がひとたびその気になればどれだけ酷いことが出来るか、初めて目の当たりにして、心の底から怯え、竦んでしまったのだ。
「その後、アナベラ様は退学されたと伺って、とにかく殿下と離れられてよかったと思いました。
ご連絡がないのは、わたくしと会えばどうしてもあの時を思い出されるからだろうと思い、ご遠慮したまま月日が流れてしまって……」
お互い、触らない方がよいのだろうと勝手に思い込んでいた。
まさかあのまま、亡くなられていただなんて──
ご夫妻が深々と吐息をつく。
重い沈黙が降りた。
お兄様は俯き、顔の下半分を手で覆ったまま動かない。
アナベラ様が殿下に深入りする前に引き止めていれば、傷つけられてしまった後でもどうにかしてアナベラ様のお心癒やすことができればと、悔やんでも、悔やみきれないことがたくさんあるのだろう。
「あの……」
沈黙を破ったのは、ハンス君だった。
「……陛下は、このままなんですか?
叔母様に酷いことをして、なかったことにして、自分は王様だからって威張ってる。
それでいいんですか?」
目が、少年らしい怒りにきらめいている。
「それは……」
夫人が戸惑ったように、お兄様と私を見る。
お兄様は、沈痛な表情をされたまま、小さく首を横に振った。
「……ハンス君は、陛下にどうしてほしいのかしら。
犯罪者として罰を受けてほしい?
それとも15年前、悪いことをしましたごめんなさいって公表して、退位してほしい?」
この国では、男性に傷つけられた女性が、法に訴えることは少ない。
そうした行為を罰する法律はあるのだが、被害を訴えれば被害者の方が好奇の目に晒され、負担が大きすぎるからだ。
被害者が亡くなって久しく、今となってはわたくしの目撃証言とアナベラ様のメモしかない15年前の話で裁判をするのは難しすぎる。
しかも相手は王族で、学園ではアナベラ様が殿下を惑わせていると思われていたのだ。
仮に当時訴えたとしても、受理もしてもらえなかっただろう。
どちらも無理なことは説明しなくてもわかったらしい。
ハンス君が困ったように視線を泳がせる。
「芝居や、小説にして、みんなに知ってもらうとか……」
「馬鹿な!
アナベラは自分に起きたことを恥じて、父上にも私にも打ち明けずに死んだんだ。
勝手に晒すなど、絶対にありえない!」
お兄様が大きな声で拒絶される。
あなた、と夫人がお兄様をなだめた。
ハンス君は考え込む。
まだ諦めていない様子の彼に、続きを目で促した。
「……陛下を罪に問えないなら、せめて悪いことをしたんだって反省してほしい」
わかるけれど、あの方にはそんな反省ができる知性と品性はないんじゃないかしら。
「……それも無理なら、」
思ったことが顔に出てしまったようだ。
「叔母様のことは『なかったこと』じゃないんだって、思い知らせたい。
亡くなったお祖父様も、お父様も、叔母様のことはずっと気にかけてたし、今はお母様も僕も、叔母様がひどい目に遭ったって知ってるんだから」
そうね、とわたくしは頷いた。
「わたくしもアナベラ様のこと、忘れてはいないわ。
陛下がどうしようもない、最低な人間だってことも」
貴族の口から直接的な国王批判が出るとは思っていなかったのか、ご夫妻とハンス君が驚く。
できるだけ、貴族の奥様らしく微笑んでみせた。
「わたくしは貴族といっても宮廷では下の立場だし、たいした人脈もないけれど──
主人に相談して、なにが出来るか考えてみましょう」
わたくし自身はとにかく、夫や子供達、リーンハイネ家の方々に傷がつくようなことはできない。
でも、アナベラ様のことを「なかったこと」にはさせない。
ハンス君と私は、頷きあった。