死者からの手紙(ユベント伯爵夫人フローラ)(2)
王立学園は3年制で1学年200名前後の、主に貴族の子女を対象とした学園である。
入学式は4月で、前期が4月から7月、後期が9月から12月の2期制となっている。
王都から少し離れた小さな町にあり、長期休暇を除いて、原則、全員寮で暮らす。
生徒は国内の貴族が8割、国外からの留学生や成績優秀な平民などが残りを占める。
学園内では、身分の壁は作るべきではないとされ、同窓であれば相手が平民でも敬称をつけて呼ぶ習慣もあるのだが──
実際には、いくつも壁がある。
一つは貴族と平民。
さらに同じ貴族でも、大公公爵侯爵の上位と伯爵男爵騎士爵の下位と分かれ、また王都で暮らす宮廷貴族出身の者と、地方で育った領主貴族の間にもある。
わたくし自身は地方で育ったので、地方育ちの貴族と親しくつきあうことが多かったけれど……
「今は存じませんけれど、わたくしが通っていた頃は……
なんだかんだで、貴族の生徒が我が物顔でのし歩き、平民の生徒は目をつけられないよう、おとなしく固まって過ごすことになりがちでした。
アナベラ様の場合、貴族なのか平民なのか、どっちつかずのお立場である上に、入学式の後、少々目立つことをなさいました。
……今の陛下、当時の王太子殿下にいきなり話しかけて、舞踏会に出席する時が来たら、ぜひ自分と踊ってほしいとおねだりした新入生がいるという噂が、ぱっと広がったのです」
これが最初に聞いたアナベラ様の噂だ。
その夢自体はわからなくもない。
どうせ学園長は例年通り、生徒同士は対等の存在として共に学んでいってほしいと訓示したのだろうから、その建前を真に受けて、次にいつ遭遇できるかわからない「王子様」にいきなりお願いしてしまったというのは、そんなに責められることではないだろうと今なら思う。
当時のわたくし達の反応としては、「なんて命知らずな」という一言に尽きた。
言うまでもなく、殿下は学園の女王たるカタリナ様の婚約者である。
殿下にちょっかいをかけるだなんて、虎の顎にみずから首を突っ込むようなもの。
考えただけで震えあがると友人と話した覚えがある。
そもそも殿下は、見た目こそ金髪碧眼の整った顔立ち、高身長で、鍛えられてはいるが細身の体型と理想的な王子様だったけれど、嫌らしい振る舞いをされることがままあり、女子生徒の間ではそこまで人気がなかった。
いつだったか、厩舎でたまたま行きあった時に、乗馬服姿のわたくしの体型をじろじろ眺めたあげく、「これはないな」とばかりに肩をそびやかしながら視線を外された時は、ぶっ殺して……は全力で自重するとしても、せめて肥溜めに3日3晩ほど、首までつけこんで差し上げるくらいのことは是非させていただきたいのですが!と強く思ったものだ。
基本的には闊達な方だから、男子生徒には人気があったようだけれど。
アナベラは子供の頃から、いつかお姫様のようなドレスを着て、素敵な王子様と踊りたいと言っていましたから、とお兄様は遠い目になる。
お母様は早くに亡くなり、友人は近所の商会の子息子女が多く、貴族とのつきあいはほとんどなかったそうだ。
お父様が家庭教師をつけられてはいたけれど、学園で過ごすための常識を伝えきれていなかったのかもしれないと仰った。
「そのせいもあって……
貴族からは『自分たちとは常識の違う方』、
平民からは『うっかり関わったら、貴族達から睨まれるかもしれない方』、
と、警戒されるようになってしまったのではないかと思います。
そういう空気に頓着しない、留学生と仲良くなられていたようなのですが、それがまたよろしくないことになってしまって」
話が長くなってしまいそうだ。
紅茶で咽喉を潤す。
「留学生は、近隣国の王族や王族に随伴してきた将来の側近候補の男性です。
アナベラ様は玉の輿狙いで、そういう方々にまとわりついているのではないかという見方がされるようになってしまいました」
昼食を摂るカフェテリアなどで、異国の男性達と盛り上がっているアナベラ様を見かけたことが幾度かある。
当時はわたくしも噂に毒されていたから、やっぱりあの話は本当だったのか、分不相応にもほどがあると呆れて眺めた記憶がある。
後で殿下がなさったように殊更にべたべたするとか、おかしな振る舞いがあったわけではないのに。
アナベラ様の行動をそう解釈する空気の大元は、当然カタリナ様の周辺である。
表立っていじめたり、わかりやすく爪弾きをしたりということは、私の知る限り一切なかった。
未来の王妃たるカタリナ様がいらっしゃる学園にはふさわしくない行為だからだ。
でもいつの間にかアナベラ様は「あの子はそういう子」として、面白半分悪意半分で観察される立場になってしまった。
「そのうち……入学して1ヶ月、いえもう少し後、5月なかばの頃でしょうか。
当時3年生だった王太子殿下が、アナベラ様をお目に留められました」
そこで言葉を切って、お兄様夫妻の反応を見る。
ある程度は予想されていたらしく、やはりそういうことか、と嘆息されたものの、2人には、大きな驚きはない。
けれど……
「あの、ハンス君はこのまま聞いてくださってもよろしいのですか?」
ここまでも学園入学前の年頃の子供に聞かせるのはどうかと思う話だったが、ここから先はもっと嫌な話になる。
夫人がハンス君の肩を抱いて、顔を覗き込んだ。
ハンス君は、ものすごく迷惑そうな顔をしているが、わたくしの前で振り払うわけにもいかないのか、おとなしく頷く。
「……ハンスが、アナベラのメモを見つけたのです」
そうです、と利発そうなハンス君が頷く。
お父様の手紙にも、最近になってわたくしがアナベラ様に関わっていたと知ったとあったことを思い出した。
ですから、是非ハンスにも、と重ねてお兄様に言われ、わたくしは少しためらいながら口を開いた。
「後で従姉妹から聞いたことですが、わたくし達が入学する前にも、殿下がとある令嬢を気に入られて、まるで恋人のように扱っていらっしゃったことがあったそうです。
でも、カタリナ様が入学されてからは、女子生徒の間で、殿下とはできる限り距離を取って接するのが当たり前のことになっておりました。
そのあたりのこと、アナベラ様はまったくご存知なかったのです。
殿下からお声がかかれば、なにしろ見かけだけは憧れの王子様ですから、他の女子生徒と違ってほがらかにお話されておりました。
殿下もアナベラ様が可愛くなられたようで、じきに殿下がアナベラ様の頭を撫でられたり、腕を組んで庭園を散歩するお姿が見受けられるようになりました」
入学式後の、今にして思えば無邪気なお願いだけでも、恐ろしいと震えたわたくし達である。
いったいアナベラ様はなにを考えているのか、カタリナ様は怖くないのか、玉の輿狙いとしても無謀すぎると震えに震えたものである。
あの頃、わたくし達には、アナベラ様が常識を踏みにじる怪物のように見えていた。
「殿下が国王となられれば、いずれ側妃を迎えることもありえます。
ですが、それは正妃との間に十分な後継者が出来なかった時のこと。
あくまで後継者の確保のためですから、それなりの血筋の方が選ばれますし、恋人であった方を、後から側妃として立てた例はこの国にはありません。
ですから、アナベラ様は、殿下と学園時代の恋人としてお付き合いできればそれで十分だとお考えなのか、殿下とカタリナ様との婚約を解消させてご自分が正妃として立つおつもりなのか、それとも慣例を破って後から側妃となられるおつもりなのか、どれにしてもめちゃくちゃだと、わたくし達はびっくりしておりました。
そして、いつの間にか殿下がアナベラ様を囲い込んで、留学生の方々からも切り離してしまわれたので、アナベラ様に、いったいどういうおつもりなのか、お伺いできるだけのつながりがある方は学園にはいなくなってしまったのです」
殿下に伺うとしたら、それができるのは側近以外ではカタリナ様だけだったろう。
ただ、カタリナ様とて、当時はたったの16歳の少女。
ご自身の婚約者である殿下と恋敵であるアナベラ様の間に入って、上手に切り離せなかったのは、無理もないことだ。
「そのまま夏休みに入って、9月に学校が始まりましたら……
殿下がアナベラ様の腰を抱いて堂々と歩かれるようになって。
もうびっくりしました。
舞踏会ならとにかく、たとえ婚約者が相手でも、学園の人目があるところで異性の腰を抱くなんて絶対にないことです。
ましてや殿下の婚約者はカタリナ様なのですから。
おまけに、アナベラ様が、王族用の特別寮に移られたとかで、もう大変な騒ぎになりました。
公爵家ご出身で、王族の血も引いているカタリナ様でも女子寮にお住まいなのに、と」
これはご一家もご存知なかったことらしく、驚きの声を漏らされた。
当時は、これはいくらなんでも酷すぎると、とにかくカタリナ様に二人の様子を目に入れないように、生徒の多くが気を使っていた。
動線がどうしてもかぶりそうな時には、背の高い男子生徒が目隠しとしてカタリナ様と殿下の間に入るようなことまでしていた。
誇り高いカタリナ様は、寂しげに微笑まれるばかりだったが、殿下の仕打ちはあまりにもお気の毒だと皆が思っていたからだ。
「カタリナ様に近い方で、アナベラ様にそのような行動を慎むよう直接注意された方もいらっしゃいました。
ですが、アナベラ様になにか申し上げれば、すぐに殿下が飛んできて反論されるようになって。
しかも、言葉尻を捕まえては、ご自身への攻撃だと悪く悪くおとりになり、はては黒幕はカタリナ様だろうと激昂されるので……
その頃、学園にいらっしゃる王族は殿下お一人でしたので、もう誰も、何も申し上げられなくなってしまったのです」
学園側にしても、アナベラ様を特別寮に住まわせたほどだ。
学園長以下、教師たちも殿下の意のままになっていることはあからさまだった。
こうなっては、公爵家から王室へ申し入れされるくらいしか手立てはなかったけれど、申し入れても駄目だったのか、そもそもこんな馬鹿げた事態をカタリナ様が父君に打ち明けられなかったのか、わたくしは知らない。
「……そのうち、殿下とアナベラ様は、特別棟に引きこもられるようになられました。
それでも殿下は時々先生を部屋に呼んで、勉強は続けられていたようですけれど、アナベラ様がなにをされているのか、まったく伝わって来なくなってしまって。
殿下はアナベラ様に狂わされてカタリナ様をないがしろにしている。
アナベラ様は、先々、国を揺るがす毒婦なのではないか。
当時の学園の認識はそういうものだったと思います」
さすがにお兄様が、いやそれは、と声を上げられる。
わたくしは慌てて、違います、と言い足した。
「でも、本当はそうではなかった。
そうではなかったんです。
わたくしは、違うと知っていたのに、なにも出来なくて……
わたくしがもっと巧く立ち回れていれば……」
アナベラ様は、お兄様が仰ったような、つらい、悲しい亡くなられ方をしなかったのではないか。
涙が堰を切ったように溢れ出した。
アナベラ様にもご家族にも申し訳ない。
声を殺しながら深々と頭を下げた。
いえあのその、とご夫婦が慌てられるけれど、自分の不甲斐なさが心苦しくていたたまれない。
一度溢れてしまった涙は止まらず、しばし取り乱してしまった。