秋の水辺(ハンス・リーンハイネ)(3)
「とにかく、私は自由になった」
ため息をついて、妃殿下は立ち上がり俺を振り返った。
「でも、せっかく自由になったのに、やりたいことがなんにもないの」
少し困ったような笑顔はとても綺麗で、俺はぞっとした。
マルセル王の乱で亡くなった貴族や騎士は千名を越える。
それ以外にも騒乱に巻き込まれて亡くなった平民もいれば、ユベント伯爵のように障害が残る怪我を負った人もいる。
ただ、この人が夫から自由になるためだけに。
俺たちはウサギで、この人は虎なんだ。
そして虎は、無意味にたくさんのウサギを屠ったあげく、のんびり寝そべって退屈している。
「……なんでマルセル王を直接殺さなかったんですか?」
質問は一つだけとさっきも言われたのに、つい口から出てしまった。
え、と妃殿下は首を傾げた。
考えたことがなかったらしい。
「……死ねばいいのにとは思っていたけれど、殺したいとは思っていなかったから、かしら。
彼が私と同等の存在であれば、その選択もあったかもしれないわね」
少し追い込めば勝手に自滅するだろうから、わざわざ手を下す必要を感じなかったということか?
俺にはその感覚はわからない。
戸惑っているうちに、後ろから足音が近づいてきた。
離れて待っていた侍女だ。
「カタリナ妃殿下、そろそろお時間です」
妃殿下が頷き、俺は来たときよりもぎくしゃくと肘を差し出した。
時計塔を見上げると、14時半を回っていた。
15時から午後の診療が始まる。
俺も皮膚科の診療を見学しなければならない。
少し足早に、俺達は遊歩道を登った。
「そうだ、私の質問に答えてもらわなきゃ。
なぜマルセルは、リリアナ嬢が自分の子だとあんなに強く思い込んだの?
あなたの顔を見てすぐに、アナベラ嬢と血がつながっていると思ったけれど、マルセルにはそんなに似ていなかったのに」
「ああそれは……」
化粧でマルセル王の眉とほくろを左右反転させて描いたのだと説明する。
だから、鏡に映る左右反転した顔を自分の顔だと思っているマルセル王だけが似ていると認識し、他の人はそう思わなかったのだと。
妃殿下は、思いついた人は天才ねと感心し、ご褒美にもうひとつ質問を許しましょうと笑った。
もう校舎は間近だ。
「ギヨーム殿下とリリアナ嬢がワルツを踊っていたとき、どういう気持でご覧になっていたのですか?」
口をついて出たのは、今更どうでもいいといえばどうでもいい質問だった。
でも、フローラ夫人は、妃殿下はお怒りだったと言っていたが、今日聞いた話からすると怒りというのはそぐわない。
小さく吐息をつくと妃殿下は俺の肘を離し、立ち止まった。
なんとなく、向かいあうかたちになる。
「あの時……
幸せそうに、生き生きと踊っているあなた達を見て……
天啓のように、これが本当の人間の世界で、私は偽の世界で生きているんだ、そんな風に感じたの。
私の世界には私しかいない。
でも、他の人達は皆、ひとつの世界で、心を通わせて生きている。
惹かれあい、愛しあい、慈しみあって。
美しく、優しく。
……そして私は、その世界には入れず、ずっと一人なんだって」
眼だけで彼女は笑んだ。
「でもあれも、本当の世界ではなかったのよね」
「そうです。
一世一代の、死にものぐるいの演技でした」
そういうものだわ、と妃殿下は笑い、右手を差し出す。
俺はかろうじて貴婦人との正式な別れの挨拶のやり方を思い出し、絹の手袋をした妃殿下の手を軽くとり、跪くと手の甲を自分の額に触れさせた。
では、と妃殿下は軽く会釈して、精神科の診察室がある棟の方へと去っていった。




