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秋の水辺(ハンス・リーンハイネ)(2)


「……さっき、俺たちは妃殿下のお役に立ったとおっしゃっていました。

 どういうお役に立ったんでしょう?」


 妃殿下は笑った。

 肝心の俺がわかっていないのが面白いらしい。


「マルセルを暴発させて、私が自由になる時期を早めてくれたわ」


「自由……!?」


「そう。自由。

 人間にとって一番大事なことは、自由だわ。

 自由の定義は色々あると思うけれど、私にとっては、誰にも喰い物にされず生きていけること」


 まるでわからなかった。

 この人は、かつては王妃だった。

 国で一番偉い女性だ。

 どんな贅沢も、どんな望みも、かなう立場だったんじゃないのか?

 女性は国政に関与できないこの国で、政治的にも強い影響力を持っていたはずだ。

 王妃でなくなり、権力もなくなった今の方が自由?


 よほど俺はアホ面を晒していたんだろう。

 妃殿下は、「きちんと説明するなら長くかかりそうね」と呟いてあたりを見回し、少し離れたところに粗末なベンチを見つけると、俺がもたもたハンカチを探したりする前にさっさと座った。

 ベンチは3人がけの大きさで、妃殿下は端に座ったが、一人分空けるとしても同じベンチに座るのは畏れ多すぎて、妃殿下の脇に立つ。

 妃殿下は、一度俺の方にちらっと視線を向けると顔を戻し、湖面を眺めて話し始めた。


「私がこういう考え方に至ったのは、7つの時。

 母方の叔父が亡くなって、祖父母の家で遺品の整理をしていたら、結婚前の母のスケッチが何枚も出てきたの」


 30年前からか。

 ……確かに長くなりそうだ。


「私が知る母は、いつも目立たないように、できるかぎり気配を消そうとして、結局失敗している人。

 でも叔父のスケッチではまったく違う、いろんな表情が描かれていた。

 いたずらっぽく笑ったり、すねてみせたり、母とはまるで他人だった。

 どうして叔父は母をああいう風に描いたのだろうと思っていたけれど、しばらくして父のせいだと気がついたの。

 父は、母にどうでもいいことを細々と()()して、時には恫喝して、自分が駄目な妻で駄目な母親で、父の温情でやっと生かされている、父よりはるか下の存在だと思い込ませてた。

 母の方が王家の血が濃かったから、父は自分が上だと思い知らせたかったんでしょうね」


 ……どっかで聞いたような話だ。

 貴族の家庭によくある話なんだろうか。


「私は、母のように生きるのは絶対に絶対に厭だと思った。

 そんなことを思っているところに、王子と婚約という話が出て、マルセルに会ってみたら、」


 どうだったかわかる?と妃殿下が俺を見上げてくる。


「……父親と同じタイプだった」


 よくできました、と妃殿下が笑う。


「しかも、父よりはるかに馬鹿だった。

 怒鳴りつければまわりが言うことを聞くと思っている、ただの馬鹿。

 父は、自分が母を駄目にしていることにまわりが気が付かないよう立ち回れる人だったけれど、マルセルにはそんな狡猾さもなかった」


 妃殿下は馬鹿という単語を強調して、吐き捨てるように発音した。

 昔、フローラ夫人の「最低」発言を聞いた時も思ったが、貴婦人の王族批判はなんでかこっちの胃に悪い。


「でも婚約は避けられなかった。

 だから思ったの。

 私が先にマルセルを駄目にするしかないって」


「先に駄目にする……って、」


 思い出した光景があった。

 デビュタントとして王族に拝謁した時、俺を見て動きが止まった当時の陛下に対して、妃殿下が扇を鳴らして動くよう促していた。


「陛下がやらかしたら、些細なことでも妃殿下がそっと注意する。

 人前で繰り返しそうすることで、陛下は公務をきちんとこなせない人間で、妃殿下なしには王室は立ち行かないという雰囲気を作る、とか?」


 妃殿下は、そうそうと頷かれた。


「大きかったのは、あなたの叔母様、アナベラ・リーンハイネ嬢との出来事。

 あれで、マルセルは自分を律することができない人間だと知れ渡ったから。

 特に、側近候補で一番優れた人が、こんな人には到底仕えられないと離れてくれた。

 彼ならマルセルに利害関係の調整の仕方を少しずつ学ばせて、自分で判断できるよう育てたでしょう」


 甥である俺の前で、若くして非業の死を遂げた叔母のことを駒の一つのように語る口ぶりにあっけにとられ、続いて怒りがこみあげた。

 助けを求めた叔母の心を折ったのは、ただマルセル王の評判を貶すためだったのか!?

 マルセル王と妃殿下、どっちも叔母をなんだと思ってたんだ。


「……あなた、傍観してただけじゃなくて、助けを求めた叔母を突き放してますよね。

 叔母に、悪いことをしたと思ったことは一度もないんですか!?」


 ちらりとこちらを見上げた眼に、表情はない。

 質問は一つだけと言ったでしょう、と妃殿下は静かに言った。


 たぶんこの人は、一度も、ほんの少しも悪いことをしたとは思っていない。

 虎がウサギを食べて、なにも思わないのと同じだ。

 毒気を抜かれてしまった。

 なんなんだこの人は。


「王太子妃になって、王妃となって。

 マルセルはどんどん馬鹿になり、宰相達にも依存されるようになって。

 政務は厭じゃなかったけれど、マルセルが死ぬまで、私は馬鹿の面倒を一生見続けないといけないのかとうんざりしていた──

その時に、『リリアナ嬢』が現れた」


 俺は斜め後ろから妃殿下を眺めている。

 だが、横顔だけで彼女がほがらかに笑ったのがわかった。


「マルセルは、『リリアナ嬢』が自分の子だと思い込んだ。

 少し調べれば、アナベラ嬢は子供を産んだりする前に亡くなったってわかったのにね。

 自分は本当は子を作れると思い込んだ途端、マルセルは嵩にかかって私を人前で罵り、4人も新しい側妃を娶ると言い出した。

 そんなことを急に言い出したって、貴族院で可決されるはずもないのに」


 妃殿下は楽しそうに言う。


「私は、女官を通じて先々代大公を焚き付け──」


 王都の話題をさらった、いろんな意味で伝説的な演説が行われた。

 マルセル王は王位にふさわしくないという評判が、貴族の間でも平民の間でも囁かれた。


「陛下は最近お悩みが深いようだから、興奮したあげく自傷されるかもしれない。

 よく気をつけてほしいと侍女や護衛に周知し──」


 だからマルセル王に襲われた侍女は、すぐに「ご乱心」と声を上げ、護衛が駆けつけて騒動になり、皆が恐れていた通りに自分を傷つけようとしたとして王は離宮に押し込められることになった。


 そういう風に、妃殿下が長年、マルセル王の評判を操っていたのなら……


 この国には離婚という制度はない。

 マルセル王から完全に自由になるには、彼が死ななければならない。

 ギヨーム殿下があのまま即位していれば、マルセル王は幽閉されたままだったろう。

 いったんマルセル王を離宮から出し、殿下達と命の奪い合いになるまで対立させたのはきっと妃殿下だ。

 まだ王立学園の生徒だった、おとなしいグイド殿下がみずから領主連合軍を率いて近衛師団と戦われたのは、兄と慕うギヨーム殿下が獄中で毒を飲まされ、命が危ういと知らされたから。

 そのグイド殿下側の旗色が悪くなった時、東部領主軍が電撃的に参戦し、マルセル王は敗死した。

 誰が王を討ち取ったのかは、いまだにわかっていない。


 ……どこからどこまでこの人の手が入っているんだ?

 眼がくらむような思いがした。


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