秋の水辺(ハンス・リーンハイネ)(1)
王立医学校は、王都にほど近い湖畔沿いにある。
5年前に起きた「マルセル王の変」──乱心して摂政ギヨーム王太子殿下ほか有力者を粛清しようとした先代国王マルセルを、グイド殿下、すなわち今の陛下を旗頭とした領主連合軍が鎮圧した20日ばかりの騒乱──の際には、ここからさほど遠くないところでも戦闘が行われ、戦傷者を多数収容したこともあったそうだが、樹々の紅葉を映した水面は静かだ。
俺、ハンス・リーンハイネは、授業の空きコマに図書館にこもり、窓に向かった閲覧席で期末の試験勉強対策に励んでいた。
各期末に、科目別にそれまで学んだことすべてを対象とした試験があり、合格しなければ進級できないし、2年続けて落第したら退学となる。
今見ているのは、精神科の授業のノートだ。
精神科という科自体が五十年ほど前に立てられたばかりで、内科や外科など古くからある科ほど知見の厚みはないが、その分、新しい手法がどんどん出てきて面白い。
同じ症例でも解釈が分かれたりするから、試験対策はやりにくいのが難だけど。
偏頭痛や失声、失神発作に悩む少女「症例ドラ」、家族3人を惨殺し、狂気によるものと診断されて減刑されたものの、後に獄中で自殺した青年「症例ピエール」と、症例集と講義ノートを突き合わせながらメモを整理していく。
次は「症例クララ」。
この症例も重要なものらしく、折りに触れ教授が紹介するのだが、症例集には掲載されていない。
友達のカルロは、クララは我が国の貴族ではないかと疑っているけど、患者の身元を探るのは禁忌だ。
クララの症状は、自分が生きている感じがしないという強い離人感、他者との共感能力の低さだ。
誰かに好かれたり愛されても、好きとか愛するということ自体が理解できないらしい。
この症例については家族、特に父親との関係に起因しているというのが教授の解釈で、父親が家族を些細なことで怒鳴りつけて萎縮させ、意思を奪った上で、自分の駒として徹底的に利用するタイプだったらしい。
そのせいで、クララは、常に場面場面に合わせて、自分という人形を演出するような気持ちで子供の頃から生きているらしい。
……やっぱりクララは貴族っぽいな。
本人は自分はそういうものだと思っているので特に困っていなかったそうだが、母親があまりに不憫だと受診したらしい。
研究に協力するため、成人後も定期的に受診しているそうだが、症状の寛解は遠いらしい。
ふと、目を上げると、陽が書庫塔に重なって陰った窓ガラスにうっすら人影が写り込んでた。
小さな帽子と顎下までを隠すヴェール、蜂のように胴をくびれさせ、後ろを張り出させたバッスルスタイルのドレス姿の女性のようだ。
距離が近い。
俺の斜め後ろからじっとこちらを見ているようだ。
この学校にも女子学生は少しだけいるが、誰もこんな動きにくい格好で学校に来ない。
真っ昼間でなければ幽霊だと思っただろう。
全力で勉強しているふりを続けていたら、俺の耳元に顔を寄せるような気配があり、ささやき声で声をかけられた。
「リリアナ嬢。お久しぶりね」
思わず、びくっと震えて振り返ってしまう。
「あ、あ、あなたは……!」
4年前、令嬢に変装して潜り込んだ舞踏会で見た、先王の妃殿下だった。
まとっているのは濃いグレーで帽子からドレス、手袋、靴まで揃えた半喪服だ。
うっすらと笑みを浮かべて、少しお話できるかしら、と言われ、思わず椅子をガタガタ鳴らしながら、妃殿下からなるべく遠ざかるように俺は立ち上がった。
妃殿下の後ろには、侍女と、護衛2人がついている。
逃げ道は綺麗に塞がれていた。
お話をと言われても、家族でもない異性と医学生が内密に話せる場なんて用意されていない。
それを口実に、とにかくご遠慮しようとしたのだが、妃殿下は少し考え、では湖畔を散歩しましょうと言い出した。
ノートや本は席に置いたまま、おつきの3人を後ろに従え、ぞろぞろと外に出る。
「……ええと、俺、いや私は平民ですし、妃殿下にどうお話したらよいのか……」
祖父は一代男爵だったが、父の代からは平民だ。
俺が接したことがある貴族はユベント伯爵ご夫妻くらいで、令嬢としての喋り方はリリアナ嬢強化合宿で叩き込まれたものの、すっかり抜けている。
湖畔をぐるっと一周する遊歩道に入ったところで、妃殿下に訴え、侍女の方を振り返って助けを求めたのだが、侍女や護衛はかなり後ろに下がっている。
既に大声でなければ届かない距離だ。
いつの間に。
「気にしないで。
あなたが喋りたいように喋ればいいわ。
私もそうするから」
5年前、妃殿下を見た時は、ものすごい美人ではあるけど、とにかく冷たくて上下関係と礼儀にうるさそうな人だという印象だったが、さばけた、妙に若い口ぶりだ。
どことなく捨て鉢で、礼儀などもはやどうでもよいことだと投げ出しているような印象だった。
ヴェール越しではあるが、顔立ちがはっきりわかる。
翡翠のような深い緑の切れ長の眼、やや細面の整った顔は当時と変わらず美しい。
なんの香りかわからないが、良い匂いがした。
遊歩道が下り坂になり、少し足場が悪くなる。
俺ごときがこんなことをするのは非礼ではないかと思ったが、他に支えられる者がいないので肘を差し出すと、妃殿下は流れるように掴まった。
指は長く、骨ばっていて、爪は短く整えているのに猛禽類を連想した。
それにしても、なぜ俺のことがわかったんだろう。
あの頃より、背は30cm近く伸びた。
身体つきだって、医学生と名乗ると騎士見習いじゃないのかと驚かれるくらいだ。
父や叔母と同じくピンクがかったブロンドだった髪も、背が伸びるのにつれて色が濃くなり、今じゃ立派な赤毛だ。
「……俺のこと、なんでわかったんですか?」
なにを言っているのか、と訝しむように妃殿下は首を傾げた。
「あなたがギヨーム殿下と踊っている間に影に確認させて、王宮からユベント伯爵邸に戻った馬車を追わせていたの。
リリアナ嬢はユベント伯の手の者に守られながら確かに伯爵邸に入り、翌日の午後に髪色が似た女性が馬車で広場まで送られて、その後下町に向かって行方がわからなくなった。
でも彼女は、耳のかたちがリリアナ嬢とは違っていた」
「耳!?」
「影は、人間が変えにくい特徴を目印に人を見分ける。
見分け方を覚えるとなかなか便利よ。
で、これは囮だなという話になって、もう少し見張っていたら、翌々日、下働きのような格好の、帽子をかぶった男の子が伯爵邸の裏口から出てきて、あちこち移動したあげく、リーンハイネ家に入った。
髪は茶色に染めていたし、耳も帽子で確認できなかったけれど、他の特徴はリリアナ嬢と一致したと影は報告したわ」
「そう、だったんですね……」
王室の影、怖い。
俺達家族を巻き込んではいけないと、万一監視されていた場合に備えて伯爵家が偽装を手配してくれ、俺も面白半分にわざと人混みをすり抜けたり、出口が複数ある店を通り抜けたりしたけど、影は一枚も二枚も上手だったらしい。
湖畔の水際に着いた。
妃殿下は、俺の肘をとったまま、のんびりと対岸を眺めている。
高く蒼く抜けた空に薄い雲が流れ、赤く色づいた木立が、秋の陽光の下、鮮やかに輝いている。
「……妃殿下は、俺たちのこと、なんで放っておいてくれたんですか?」
「もしユベント伯爵家がリリアナ嬢を王の庶子だと主張してくれば、叩き潰すつもりだったから、念の為調べただけ。
あなた達がしたことは、私の役に立ってくれたし」
役に立った? なんのことだろう。
デビュタントの後、フローラ夫人は妃殿下はかなりお怒りの様子だったと言っていた。
マルセル王に投獄された時に毒殺されかかり、命はとりとめたものの今も療養されているギヨーム殿下と俺が踊っているのを見て、婚約者が自分をないがしろにして叔母を恋人扱いしていた頃のことを思い出したんじゃないかというお話だったと思う。
俺は令嬢らしく踊るのでいっぱいいっぱいで、ちらっとしか見てなかったけど。
戸惑っている俺の顔を、妃殿下はじっと見ている。
「その後、ユベント伯爵家とは?」
「しばらく、人目に立つようなつきあいは避けていましたが……
去年、閣下がベルリヒンゲン教授の診察を受けに来られた時に再会して、今年の夏休みには、長女のアンリエッタ様の家庭教師をさせていただきました」
マルセル王の変の時、ユベント伯爵は自領から王都へ、途上の他領の騎士団を糾合しながら駆け向かった。
出発した時は百騎ほどだったが、王都に向かううち、八百騎を越えていたそうだ。
王都に着いた時、近衛師団二千騎は当代陛下を支持するために集まった王都近辺の領主軍千三百騎を押しているところだった。
その近衛師団の横合いからユベント伯爵他東部領主連合軍が突っ込み、戦線は混乱。
近衛師団は潰走して師団長は降伏、取り残されたマルセル王は討ち取られた。
この時、伯爵はみずから槍を奮って戦われたが、いくつも大きな傷を負われた。
特に弩で撃ち抜かれた左膝の予後が思わしくなかったが、教授があらたに開発した機能回復訓練を受けられ、今は杖を突けば歩ける状態まで回復されている。
俺も訓練のお手伝いをしたが、閣下にもフローラ夫人にも大変喜んでいただき、医学の道に進んで良かったと改めて思った。
そうなのね、と妃殿下は頷かれる。
「ユベント伯も変わった方ね。
あれだけの働きをしたのに、陞爵を断って、古い槍が欲しいだなんて」
「いや、そこはそれ、槍使いには垂涎の槍ですから……」
グイド陛下勝利にあたって、ユベント伯が大きく貢献したのは間違いない。
当然、侯爵にという話になったが、伯爵領のまま名前だけ侯爵にすると後々面倒なことになる。
領地替えか加増かということになったが、閣下は、初代からの領地を守り続けたいし飛び地で追加の領を貰っても管理が大変だということで辞退され、勲章と恩賜金、そして王家に伝わる「ウルス=ラグナ」という槍を授けられた。
十文字槍という、重すぎて操るのが難しいために今は使われていない槍で、十字型になった先端がそれぞれ刃になっている。
俺も見せてもらったけど、見ているだけできゅっと身が縮むような業物だ。
閣下は、この槍をきちんと構えられるところまではなにがなんでも回復したいと訓練に励まれている。
沈黙がおりた。
湖上高く、鳶が舞っている。
視線を戻すと、妃殿下は俺の顔をまたじっと見ている。
俺という人間を底の底まで測っているような眼で、落ち着かない。
「あ、あの……
あのときのことが問題なかったのなら、なぜ俺に声をかけられたんですか?」
「暇だから」
即答されて、思わず混乱した。
他人の時間を奪っておいて、暇だからと言うのは相当失礼だと思うけど……王族ならアリなのか? そういうことなのか??
確かに暇は暇なのだろう。
夫であったマルセル王がああいう亡くなり方をし、妃殿下の立場は宙に浮いている。
通常の代替わりであれば、先王の王妃には王太后の称号を授けられ、それなりに遇されるが、妃殿下には授けられていない。
マルセル王の変以降、夫を失った妃殿下がどう過ごされているのか、俺自身まったく考えたことがなかった。
それは妃殿下の動向が話題にならなくなり、つまりは影響力を失ったということである。
「ただ、一つだけ引っかかっていることがあるの。
それに答えてくれるのなら、あなたの質問も一つ答えましょう」
びっくりした。
もう権力はほぼ持っていないとはいえ王族だ。
一方的に下問しても俺は答えるしかないのに、取引しようと言われている。
どう?と少しいたずらっぽい眼で促された。
気圧されるままに頷いた。
そちらからで、という風に手のひらが差し出される。
少し、考えた。
叔母と妃殿下の間に、なにがあったのか。
マルセル王はリリアナ嬢を本当に自分の子だと思いこんでいたのか。
でも一番不思議なのは──
また、ブクマいただいてしまいました。
本当にありがとうございます!
本日の更新で完結まで行きます。
よろしくお願いいたします。




