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episode3:足首の荒波─The Center of Styx:chapter3

 事を終え、仁は壁掛けの時計まで視野を伸ばした。七時前頃だった。八時頃に家を出て、二人で向かうところがあることを思い出し腰をあげる。首の後ろを指先で掻きながら、なにから準備するか思案を始める。

「あの娘のこと、殺して」

 突然、ソファの上で仁に背を向けながらユリアがそう口にした。裸の背中をちらと見る。

「そういうわけには」

「お願い」

 声が震えていた。

 ──絶対に手放さない。

 いつものように本心を隠そうとする自分を、瑞希の言葉が上から抑え込んできて、仁は口をつぐんでしまった。ユリアが戸惑いながらこちらを瞥見したのが、首の後ろ側からでも感じ取れた。

「やっぱり、そうなるのね」

 浅黒い裸体の去っていく音が、耳元を掠めた。


 仁は、焦っていた。

 白壁が無機質に伸び、わずかな人の往来を狭苦しく挟んでいる。その人々さえ壁の奴隷であるかのように、整然とした動きだけを繰り返す。仁はその廊下に足裏を押し付けるたび、関節が彼らに(なら)おうとするのをこらえなければならなかった。そして、

 ──ユリアは、リリセーヌのことをあの人に漏らしたんじゃないか。

 そういう憂いもまた、仁の所作を窮屈にしていた。

「ユリア」息苦しさのあまり、目の前を闊歩するユリアに声をかけた。

 ユリアはちらとこちらを振り返ってから、再び歩みを進める。すんと胸を横切る冷気が、仁をどもらせた。

「昼も、ここに?」

「そうだね」

「ヒロ兄の部屋、あとどれくらい」

「もうつく」

 ユリアの黒い髪が、白壁の中でひときわ大きく揺れた。立ち止まった彼女の足に合わせて、自分の横に目をやると、シンプルながらも小綺麗な装飾の施された扉がそびえていた。ユリアの拳がリズミカルにその板を叩くと、頭上でモーターの音がし、見上げれば監視カメラがこちらの額にレンズを向けている。数秒こちらを見つめてからモーターが再び駆動音をたて、カメラは顔をあげた。

「ここには彼の顔見知りしか入れない」

「顔見知り?」

「重要人物ってこと」

 そう言って彼女がとったアイコンタクトは、自分たちもそうであると伝えているようだった。

 やがて白色が視野から去り、その空白を埋めるように赤い絨毯が現れる。その奥まったところで、巨大な水槽を背に荘厳な机が鎮座していた。

「遅かったじゃないか」二人に、くぐもった声でそう呼びかけがあった。「はいれよ」

 面食らいながら聞きなれた声の出所を探るが、それらしい人影は見当たらない。するとユリアが二の足を踏んでいる仁をよそに細い足首を部屋に投げ込んだ。

「こっちだ」斜め上からだった。

 淡白な色の天井に黒く縁取られた四角形が浮かび上がり、威圧的な機械音とともに床まで降りてくる。その上に佇立する彼が、二人を冷ややかに見降ろしていた。

「あまりに待ちくたびれたんで、餌やりも済んだよ」博也の親指が背後の水槽を指し示す。タイミングよく、黒い影が無数に、水色の背景の中を横切る。「可愛いもんだろ」

 重厚な床を軽やかに、しかし確実に踏みしめて、博也は机の傍らにその身を寄せた。その様が仁の網膜には、彼の足元だけ硬質なタイルがあてがわれていて、その位置をすべて把握しているような、狡猾な歩き方をしているように映じられた。

「用件はユリアから聞いているよ。やっとお前の方から戦う気になったらしいな」

 汚水の浸み込んだ布に似た、距離をとりたくなるような言葉だった。彼を直視できないまま仁は煌めく絨毯の上に視野を横たえると、柔らかそうな生地に向かって、首肯をこぼした。

「なぜ今になって?」

 淡白な口気(こうき)が弾丸のように鋭く、胸の奥までを貫いて抉る。不完全なまま体の中に仕込んでいたセリフが弾かれ、喉を駆け上った。

「そうするしかないんだろ」

 くたびれた椅子の、軋む音がした。顎の肉をつまみながら「ふむ」と漏らす博也の姿形が、紅のうえで浮かび上がるようだった。

「何にしたって」ユリアが言った。「『神の子計画』に依らない、オリジナルのアザゼルが一人、戦力に加わる」

「喜ばしいことだな」

「まだ何か気になることでもあるの」

 ユリアが静かに吐き捨てると、広い部屋は沈黙に返った。しなやかな流れを失った空間では質量の大きい空気が、肩の上にのしかかってくる。思わず耐えかねて視線をあげると、待ち伏せたような素早さで博也の眼光が仁をとらえた。

「昨日の夜、どこにいた」


 ──どうして?

 再び白壁の狭間で身を揺らしながら、仁はぼうっと考えた。真白い空間が、煙草をくゆらせるように揺らぐ。今しがたの応酬が、それをスクリーンにして映し出された。

 問い詰める博也と、ユリアの示すアリバイが、塹壕の上に飛び交う鉛よろしく仁の傍らを横切っていく。物腰穏やかな轟音に身をすくませながら終結を待ち続け、仁が事態の収束を知ったのは、博也の背に引かれて部屋を出た頃だった。

 瞼を剥きながらに気絶していたようなものではあったものの、仁はその中でユリアが自分を守る姿勢に貫徹していたことだけはよく覚えていた。

 ──どうして、俺のことを。

 その頬に引かれるように、並行するユリアへ一瞥を投げる。仁と同じ歩幅で歩く彼女の目は、まじろぎもせず廊下の奥を見据えていた。








次回11/10はお休みさせていただきます。

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