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episode3:足首の荒波─The Center of Styx:Chapter2

 登校中、見慣れない車窓の景色を瞳の上でスライドさせながら、混沌を前にして尻込んでいた。博也が現実を説き、テイムズとユリアが疑問をつきつけ、リリセーヌと由衣葉が入れ違いになりながら、幾度も幾度もシャッフルされていく。

──わからない。

 苛立ちが熱を生み、次第に肌の内側と外側がないまぜになっていく。今催している吐き気が、生理的な苦痛なのか、何かグロテスクな心の模様がくみ上げた妄想なのか、判別がつかない。

 突然、喉が熱くなる。押し上げられた塊が口から床に墜落し、黄色く、滑らかに足元を覆った。幾人かの悲鳴と一緒に、自分の思考が脳から吸われていくような感覚がして、消えた。

 ふと周りを見渡すと、仁は暗がりの中にいた。耳元で甘言を囁く由衣葉を、きつく腕に抱いていた。瞬きをすると、腕の中には由衣葉の代わりにユリアがいる。すぐに彼女の身体がみるみるうちに小さくなって、泣きわめく赤子が現れる。耳元で囁く声がある。振り向くと、ユリアがそこに佇んでいた。遠くに、白銀色の髪が揺らめく──。

 ぱちん、と全てが真っ白になった。

 その中から黒点がまばらに顔を出す。タイルの線が見える。カーテンランナーの集まる音が、耳をくすぐった。

「香藁君、おはよ」

 声の方を見やる。体操着を着た髪の短い少女が、腕組みしながら仁を眺めていた。

「三年の玉上瑞希っていうんだけど、去年の文化祭で顔合わしたよね」

 カーテンレールに切り取られた天井に目を映しながら、記憶の底を探る。細々とうなってから、仁は「実行委員長?」と尋ねた。瑞希は頷きながら傍らまで歩み寄り、腰掛ける。

「自分の今の状況、わかる?」

 靄がかったような頭から、言葉一つひねり出すのにずいぶん仁は苦労した。

「いえ」

「簡潔に言うと、吐いて、倒れた」

「え」

「あいや、ゲロに顔から突っ込むようなことはしてないよ。あたしが支えてあげたでしょ」

 快活な手柄顔を見よといわんばかりに笑いかける彼女に、仁は顔をしかめた。

「記憶にないですね」

「なりふり構わずあなたのこと助けたせいで、あたしのワイシャツおじゃんになったのに」

「ああ」上体を起こしながら、今一度彼女がまとう衣装の上で視線を滑らせた。「感謝はしてます。助かりました」

 若者らしい足先からそっと顔のほうに目を向けると、仄赤くなった頬の上に不機嫌そうな半眼が居座っている。

 彼女はわざとらしく胸のあたりを腕肘で抱き上げるように隠し、口を割る。

「ちょっと、あなたもそういうクチ?」

「そういうってどういう」

 小さな唇をぎこちなくすぼめる。微かに「コスプレ」という単語を耳にした気がするが、定かではなかった。

「なんと?」

「いや、やっぱり気にしないで」

 仁は眉をひそめて火照った表情の彼女を凝視した。こうしてよく見ると、豊かに膨らんだ頬が下膨れにはなっていない、端正な面立ちをしている。

 やおら何かを思い出したように、彼女が顔をあげた。仏頂面が鮮やかにほころんでいく。

「どんな夢見たの」

 思わず「え」と聞き返したくなった。そっぽを向いていた彼女が、滑らかにこちらへ向き直った。

「どうしてそんなこと聞くんです」

「うなされ方が、異常だったから」

 彼女の茶色い瞳から、紅白のグラデーションが浮かび上がったような気がした。突然、刺さった針に胸をえぐられるような熱さが漲ってきて、仁の身体を大きく揺動させた。張りのある手首に巻かれたミサンガが、目の前で揺れる。

「これ、使って」

 激しく啖呵を切った声に従い、仁は手首の先にぶら下がった紙袋を鷲づかむ。直後に柔らかい感触が仁の背中をしきりに愛撫した。おぼつかない指先で袋の口を開けて、顔を思いきり突っ込む。液体の感触と刺激臭が喉を覆って溢れていく。

「過度のストレスと睡眠不足だって、養護の先生言ってた」

 荒く出入りする呼吸を整えながら、食道に残った残滓を吐き出す。紙袋の中をちらと覗こうとする瞳を、白い繊維がふわりと遮る。瑞希から差し出されたティッシュ束を受け取り、小さく会釈しながら口周りにそれを擦りつけた。

 過剰にまろやかさを得たかのような苦みをかみしめると、悪臭が鼻腔を舐めまわしながら抜けていった。

「頭の中、ごちゃごちゃして、何をどうすればいいのかわからないんです。それなのに、どんどんわからないことが増えていく」そう一言いうと、体がほどけてしまいそうになった。「守りたいものとか、大事なものって。なんなんですか。どうやって決めればいいんですか」

 紙袋の縁を握りつぶしながら、じっとその周りにこびりついた吐瀉物のかけらに目を落としていた。傍らの彼女から視線が送られているのが分かる。目尻のあたりでぼやけるその表情を見たくなるが、それは少し怖い。

 口を開いてみる。そうすれば、何か変わるだろうと思う。だが、その半開きの口腔に外から言葉が詰め塞がれた。

「あたしにもそんなのわからない」

 自分と違って、きりりと引き締まった声音だった。わずかの慄きを反射が振り切って、若い顔を瞳孔に収める。同時に、気持ちが水のようにとけて彼女の方に下っていきそうな気がした。

「でもわからないからって、頭が真っ白になっちゃ、駄目なんだと思う。ゆっくりでもいいから、一つずつ現実を見て、受け入れて、どうするべきなのか自分でしっかり決める」ひとたび視線が落ちるが、すぐにこちらへ戻ってくる。「わかるまでに時間はかかってもいい。でもそれまでの間、なんとなくでも大事だと思ったものは絶対に手放さない。失ったものは、絶対に返ってきたりはしないから」

 水が、浸み込む。

 彼女の身体がすっくと立ちあがって告げた。

「君の悩みは、一筋縄でなんとかなるものじゃないかも。だから、あたしがついててあげる」

 仁が遠慮がちに払いのける暇もなく、彼女の行動は移ろっていく。カーテンの外へ足早に去っていったかと思うと、一分の間もなく再び周囲の空気をゆらし始めた。戻ってきた彼女の手に、小さな紙切れがつままれていた。彼女は狭い空間を圧縮するようにこちらへ歩み寄り、そのままに指先を仁の胸へ押し込んでから、紙袋の口に手をかける。

「あたしの連絡先。出れないときもあるけど絶対に後で返すから、いつでもかけてね」

「なにを」

「いつまでもゲロ持ってるつもり?」仁が手元を弛緩させた隙に、ひょいと紙袋をとりあげる。「あたしが捨ててくる。ついでにここの先生も呼んでくるから」

 言葉を返す前に、彼女はさっきと同じように去っていった。柔らかい香りが、嘔吐の苦々しい風味に負けじとその存在を主張していた。


 雨垂れが、バスの車窓を斜めに別っている。放課後、仁は一人だった。暇を持て余せば持て余すほど、瑞希の表情や腕や足先が、何度も窓に反射した。

──ついててあげる、か。

 その言葉を反芻するたび、仁は歩き出すための土台を得たような心持になった。柔らかい手が背中をしきりに愛撫していた感触は、未だ肌の上に寝そべっている。手元に目を落とすと、端末の連絡先にわざわざ記入するまでもなく、彼女の番号はそこに煌々と輝いていた。

 少しして、明るい事実だけを伝える液晶によく馴染んだアナウンスが、目的地への到着を告げた。

 傘を頭上に広げながら、奥ゆかしく降り立つしずくの中に足を進める。バス停からすぐ右手に見えた小川沿いへと入っていく。昨晩、仁が刀を抜いた場所だった。

 桜並木の下で不自然に盛り上がった岩をなんとはなしに眺めると、端末がきらびやかな音を鳴らした。ポケットに手を伸ばし液晶の上まで指を運ぶと、通知欄にメールが一通。差出人は、ユリアだった。たった一文、「今日、博也さんに呼ばれてるから先に行く」とだけ記してある。受け取ったのは、送信時刻は午前中だったが、なんらかの事情で今の今まで届かなかったのだろうと推察する。特に感慨もなく、仁はそのメッセージを消した。

──ユリア。

 その浅黒い肌を思い出すだけで、ただでさえ痛い頭が余計に鈍痛を増した。彼女が発した問いが頭蓋の中を何度も跳ねまわっているようだった。

──彼女は、俺にとって大事なんだろうか。

 そう考えると、心臓の内側からツボを押されたような心地よさを感じる。が、それは自宅の前にたどり着くと同時に吹き消えた。

 シャッターの降りた一階カフェの傍らに、階段がある。そこから上がった二階が仁の住居だったが、仁が階段から玄関口を見上げた時、そこに佇む小さな影に目を奪われた。

 その瞼の上を、水滴がまつ毛に引っ掛かりながら伝っている。しずくは、艶やかに濡れながら垂れ下がる髪のなかへしなやかに浸み込んでいく。

 彼女はゆっくり、揺れるようにこちらを見た。

「仁」

 その美しく掠れた声を聞くと、仁は立ち止まっていてはいけない気がした。

「仁、私のこと、好き?」

 傘をたたんで、ユリアの前まで登り詰める。彼女を見つめると、目を凝らせば凝らすほど、彼女が薄い陽光の中に溶け出していきそうだった。仁は逃がさないように、その細身の体躯を両腕の中にしまいこむ。

──また、こんなふうに。

 雨降りの中、二人は玄関先で唇を重ねた。

 ユリアの濡れた体は抱き寄せるごとに手のひらにまとわりついて、うまく離れようとしなかった。お互いが湿った吐息に飲み込まれていくのを感じると、仁はドアノブに手をかけてユリアを誘った。

 家の中を厚い雲に遮られた光芒が薄黒く浮かび上がらせ、虚空にはかすかに冷めたゆらめきが淀んでいる。

 片腕の中で、彼女の恍惚とした目尻を撫ぜる睫毛を見つめた。一言二言、言葉を交わすとき舌先に絡んできた、彼女の唾液が体内を染み渡っていく。仁は靴を脱ぎ捨てた。

 気圧に押されるように廊下を歩んでいく中で決して、その重苦しさを除こうとしない。

 自室の隅へ無造作にバックを投げ捨てると、仁はワイシャツを素早く脱いで振り返った。ユリアの細く、よく焼けたふくらはぎをスカートが一瞬、遮って落ちた。キャミソールが華奢な肩をすり抜けると、白く小さな胸の上で、褐色に染まった乳首が、キャンバスに描かれた果実のようにうずくまっている。

 ユリアの呼び声が目前の艶めかしい世界へと、さらに意識を引きずった。

 下着をすべて床に散らすと、ユリアは肌下に張り詰めた肩甲と背を見せつけた。そこから翼が生えるように、自分の体が包容されていく感覚を覚えながら、その羽のかいなに身を委ねていく。

 仁はいつも、裸になった彼女の体を後ろから抱きしめた。浅黒い肌の上を、鎖骨を包みながら腹の下にもう片方手を回して、鼻先をべったり濡れた髪の中に埋めた。

 絡みつくように腕を締めたときにかすかに慄きながら、無邪気な笑顔で振り返る彼女がとてもあどけなく、撫ぜる指先はしなやかな肌を伝え、胸いっぱいに彼女の瑞々しさを感じて仁は勃起した。

 再び互いの唇を濡らすとき、ユリアの肉体はもう仁の内側に張り詰めていた。

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