episode3:足首の荒波─The Center of Styx:Chapter1
悪夢を見た。具体的にどんな悪夢だったかなどは記憶にはないが、たしかに由衣葉と鮮血が、網膜の奥に焼き付いていた。
カッと瞼が開いて光を求める。しかし未だ視野は濃厚な闇に侵されていた。
視覚が機能しないことは、寝覚めたての身体に恐怖を巡らした。仁が勢いよく上体を起こすと、腹の上に乗っていたらしい物体が転がっていくのがわかった。手探りと偶然でそれは自分の端末だったと明らかになり、素早く時間を確認する。
──五時前。
画面の眩しさに目を細める。そして間もなく短く歯切れのいい機械音と共に、さらなる眩耀が瞳をなぶった。思わず両手のひらで顔を覆い隠しながら、面皮をゆがめる。まばゆい白光へ急速に追いつこうとする感覚器官が、滑らかな乱反射の平行線を捉えた。
「君は」
力強くしなやかにつきでた、丸い二本角。清流を割いたように透き通った白髪。目がさえていくのと等速で、昨晩の顛末が蘇っていく。
昨日の夜、あのか細い呻きが仁の鼓膜を叩いた瞬間、彼は湿った梅雨時の空気を肉体でもって両断しながら、闇の奥へと駆け抜けた。そして、足が壊れた機械のようにいきなり動きを止めたとき、仁が瞳孔に収めたのは少女の白い胸が真紅の血を噴いた瞬間だった。刹那、体の中心から熱く息苦しい衝動がこみ上げ、記憶はいったん途切れた。
気づけば頸を刎ねられ倒れた男の身体を背にして、仁は少女の胸に泣きついていた。脈打つごとにあふれていく鮮血を『オフィーリア』で止めようと試みても、液体を固体に変え、彼女の肉体へと適応させる作業は複雑すぎて間に合わない。
──もう、嫌だ。嫌だ。
仁は繰り返しそう叫んでいた。その時、仁の肩に優しく触れるものがあった。振り向くと、いつもより一層もの暗い瞳をしたユリアがそこにいた。
「貸して」
強引に仁をどかすと彼女は、あっという間にそのとめどない流血を抑え込んだ。
あの男、この娘の能力を、奪おうとしたみたいね。そう呟きながら、少女の傷を丹念にふさいでいくユリアを、仁はずっと見つめていた。
触れ合う衣に赤黒い染みだけを残し傷が完治するのには、数分もかからなかった。ユリアが静かに、仁に命令した。そして彼女に言われるがまま、ここにたどりついたのだ。
不意に、逆光の中で白い影が揺らめいた。パチッと音が鳴ると、稲光のように部屋が点滅し、蛍光灯の光が立ち込める。由衣葉と同じ顔をした白銀色が、はっきりと目に映った。黄色い瞳が仁の視線から逸れていく。
「目、覚めたんだな」
「はい」
無機質な壁に囲まれた部屋で、その少女は一糸まとわず洗濯籠の取手を握りこんだまま佇んでいた。仁にはその裸体を見せつけられているように思えた。丸く膨らんだ乳房の輪郭を視線でなぞると、七年前の映像がデジャヴのように立ち上がってくる。仁は顔をしかめた。同時にリリセーヌも唇を曲げ、手早く籠から布を取り出すと、その現実感の薄い体を隠すようにしゃがみこんだ。
「服着るので、あっち向いててください」
彼女の初々しい反応に引っ張られて、自分まで赤面しているのが分かった。彼女に背を向けると、おもむろに衣擦れの音が漂い始める。
「よくわかったな。洗濯物の扱い」
「近くにメモがあったので」
仁は昨晩、ユリアがここの器具の使い方を色々書置きしていってくれたのを思い出した。
そして、非現実の少女が視野から外れた反動からか、現実的な問題が芋づるのように、体内で掘り起こされていく。激しい空腹と、頭痛を主に、不調につけうる呼び名は枚挙に暇がないように思えた。
「腹減ってるか」
「はい」素早く繊維の擦れる音が、そのあとにふたつ。「もうこっち見ても大丈夫です」
振り向くと、彼女は初めて姿を目にした時と同じ、白いワンピースを身に着けて不安げな表情を浮かべていた。
「座れよ。飯の食べ方教える」
言われると彼女が薄い生地の下で腰をゆらしながら、そっとはす向かいのベッドに腰掛けた。仁はそれを見とめると、自分が寝ていたベッドの下に手を探り入れ、感触を頼りにプラスチックのトレーを握りこみ、取り出す。彼女の目の前にそれを掲げ、フィルターをはがしてやると、白米とおかずとが容器の中でバランスよく配分され、盛り付けられているのがあらわになった。
「軍用糧食だ」
「軍用?」
「ここ、放棄された旧国防軍の地下基地だから」
リリセーヌが同じようにベッドのしたに手を突っ込むのを見ながら、仁は食料を口にかきいれた。
ここにいることが、仁には息苦しかった。戦時の日常が、忘れかけていたものさえ息つく間もなく目前に漂っているようだった。
家からユリアが持ってきていた制服に素早く袖を通し、廊下に出てかつては共用だった洗面台で歯磨きやら、洗顔やらを済ませると、寝ぐせもほったらかして部屋に戻る。
洗濯籠から昨日の服を取り出してバッグに詰め込みながら、リリセーヌのほうをちらりと見る。彼女は既に朝食を食べ終えていた。
「俺は学校行ってくるから」
そう声をかけると彼女はすっと顔を上げ、和やかに微笑んだ。
「いってらっしゃい」
表情が、自分でもわかるほど大きく歪んだ。背景も相まって、七年前の自室の再現を見ているようだった。
大きな丸い目から視線を外して、仁はドアに手をかざした。が、鋭く足かせのついた楔を突き刺すように、彼女の柔和な声色が仁を掴んだ。
「助けてくださると、思っていました」
機械仕掛けのドアが目前で一往復してみせた。
「一昨日のことだって、気にしてませんから」ひたひたと足音が近づく。「ここにいれば、また会いに来てくれますか」
息苦しさが、解放されたように駆けのぼる。その勢いに任せて身を翻した。
「やめてくれ」喉元で破裂した声が、薄暗い廊下に反響していく。肩をすくませる彼女が、小さく目に映る。「どうして、そんな希望的なものばかり信じられるんだ」
小刻みに震える華奢な体を、その中から何か掘り起こそうとする眼差しで見下ろした。だが、透き通るほど秀麗な肌が、眩しく視界を照らすだけで、その薄桃色の唇は何も語らなかった。
苦虫をかみつぶしたような顔で、仁は踵を返す。
大した理由なんてないんだろう。みんなそう言うから、彼女もきっと同じようにそんな言葉を並べているだけに過ぎないのだ。そうしないと、生きづらいから──。
「兄さんが言ってたんです」
ほら、受け売りだ。仁は足を止めて、冷ややかに彼女を一瞥した。彼女は胸からあふれる恐怖を封印するように、自らの肩を抱いていた。
「不幸は偶然から起こるけど、よく見れば必ず兆候はある。それをよく見ていれば、幸福も勝利も必然にしうる。そのためには『良い結果』の可能性を信じなければならない、と」
軽蔑が慄きに変わる。空間を微かに揺れるか細い声の中で、太く鋭い剣が身を潜めているような感じがした。鈍痛がへばりついた頭をえぐられているような、激しい気持ち悪さが仁の胸へと迸り、肩を力ませた。強張った体のまま仁はその白銀色に向かって歩き出す。
「由衣葉さんのことが助けられなかったのは、ただの俺の注意力不足だと。お前はそう言いたいんだな」
「人は、誰しも間違いを犯します。でもそれが悲しいから、もう繰り返さないために」
仁の手が、彼女の襟首に届いた。低く呻く彼女を充血する目で睥睨しながら、己の唇を裂く。
「何が、繰り返さないためにだよ。失くしたものは、返ってこないじゃないか」
「次は」
「次なんてない。由衣葉さんはもう──」
ゆくりなく、少女の目尻から雫が滴りおちた。水玉が一粒床に叩きつけられて散る音が、自分の喚き声より深く耳にしみ込んでくる。涙を湛えたまま、澄んだ色の水晶体が、じっとこちらを見据えている。
──わからない。
示し合わせたように鎌首をもたげるのは、涙の匂いが充満したベッドルームの記憶だった。由衣葉が、部屋のすみでうずくまりながら、嗚咽していた。
気持ち悪さが、胸中の混沌に耐えかねて死んでいく。仁にはやがて訪れる空虚な安らぎに身を任せ、地上へとさまよい出ていくしかなかった。