episode2:撒かれ、芽吹く─A New Headspring:Chapter3
「『明星』の教祖? 馬鹿な」
「残党たちは彼女のことを、『神の器』と呼んでいた。奴も同じこと言ってたの、仁なら覚えてるでしょ」
「だからって、飛躍しすぎじゃないか」
ユリアが少し顔をしかめた。
「仁だって、なんであの娘をかばうの。あなたには関係ないでしょ」
「それは」由衣葉さんに似てるから、とは言えなかった。あまりに馬鹿馬鹿しい理由だった。
何か、嘘を紡ぎあげようと、口を開いても、言葉にならない音が途切れ途切れにこぼれていくだけだった。
ふと、石を数個積んだように肩が重くなった気がした。呼応するように、ユリアが膝を落とした。
「ごめん」
果てに中身のないセリフが地面をバウンドしていく。
「違う」
「わかってる」
「違う、そうじゃなくて」彼女の声の色が、寸刻前とは表裏を翻したように変わっていた。抑揚に戦いの色が見える。「敵」
突然、意識の外から体を地面に押し付けられた──というより、地面に引きつけられた。感じてきた重さが、濁った鬱屈の産物ではないことに仁はやっと気づいた。
咄嗟についた手に力を集中させ、上半身を起き上がらせることを試みたが、かなわない。かといって、力を抜けば顎をコンクリートに叩きつけられることは目に見えている。
「『ラス・メニーナス』」暗闇を、軽々とした声音が伝ってきた。「僕は好きなものの質量を変えることができる」
瞳を素早く声の方向へ振り敵影を確認せんとすると、漆黒から、もの暗い出で立ちの男が歩み出た。男は念入りに手入れされた髪を艶やかに煌めかせながら、二人の手元を双眸に収めると短く嘆息してみせた。
「刀と弓、どちらも古典的な武器だね。君たちはあの能力者たちで間違いなさそうだ。よかった」
「『明星』」ユリアが言った。
男の高笑いが、闇に溶ける。長い前髪の隙間から、悠然と漂う三日月にも似た目が覗いた。
「君たちは、『X.W.A.S.』の梓ユリアと、香藁仁だね。そっち側にいる数少ないアザゼル──今は君たち含めて三人だっけ」
余裕ありげな瞳がユリアを捉える。彼女は仁の横で、薄く開いた瞼から軽蔑の色を含んだ目線を投げ返す。
「死に際だとしても教えられるものじゃない」
「つれないな」男はよく磨かれたブーツでコツコツ足音を鳴らしながらこちらへ接近してくる。「どう?」
ユリアが、眉間にしわを寄せながら敵の足元を睨んだ。体の重さは、距離が近くなるごとにじわじわと大きくなっていく。が、ユリアは決して目線を下げることをしなかった。「十……九……」と押し殺した声で数え始める。
「そうだな、今の思い付きのような問いより、もっと有意義な情報を吐いてもらおう」敵が、足をぴたりと止めた。同時に、ユリアが苦い顔をしたのも見とめたようだった。「君の能力の射程距離はちゃんとわきまえているよ」
したり顔の男は、指で顎をつつきながらぶつぶつ呟き始める。その時、ユリアの口腔が鋭く唸った。瞬間、火の粉がパッと舞い男の指先は燃え上がる。男は口を大きく曲げて、「どうして」と叫びながら川のほうへ駆け下りていった。その過程で、間もなく仁の身体の重さはもとに返った。
「素人ね」
「ああ」
「あれが、今の『明星』。ただの能力者たちの集まり。ルシファーに捧げていた信仰さえ、もうあの組織の根幹じゃない」立ち上がった彼女は、手早くズボンの裾を払い、こちらを一瞥した。「あなたにも簡単に潰せる」
「戦えっていうのか」
「やらなきゃ私たちの所在がばれるけど。ついでに、『神の器』も」
昨晩の、白い光がのまれていく光景が、瞼の裏に滲んだ。映りこむ少女の滑らかな肢体が、想い人のものとピンボケのように重なったり、離れたりを繰り返している。二つの輪郭を片方消してしまえば、もう片方もゆくりなく消えていくような気がした。
自分が動かねば、その未来は確実に訪れると、ユリアの真っ黒な瞳が告げている。
「やるしかないなら、やるよ」仁は言った。
刀を体の正面で構えると、ユリアが冷ややかに「そう」と呟いた。
「やっぱりあの娘のためなら戦うんだね」
口を引き結んだまま、仁は何も答えなかった。斜めの地面をしっかり踏みしめながら土手を降りていくと、つやつやの髪を乱した敵がかがんでいる。肩を怒らせた様子で、こちらを威嚇するように視線を飛ばしてきた。
「僕は強いはずだ」
「戦場に絶対はない」間髪入れず、切り返す。「どれだけ探しても、あそこに安息なんてないんだ」
「うるさい」
敵が若さの抜けきらない捨て台詞とともに、手を振るい始めた。刹那、仁は地面を蹴って間合いを詰める。あっけないほど簡単に、懐には潜り込めた。手ごたえのなさに思わず、刃を走らせるのを躊躇う自分がいた。殺さなければ意味がないと気づいた時には、敵の瞳孔がこちらを捉え始めていた。
反射的に、拳を腹の中へとめり込ませる。
「アザゼルの力は魔法とか超能力じゃない」手の甲が、みぞおちにしっかり入る感覚を認識しながら、腕を振り抜いた。「俺たちは、この世界に介入するための能力に異常をきたした突然変異体でしかない」
鈍い音を立てながら、男は地面に転がった。歯を食いしばり、苦痛をこらえるように悶えている。
「お前たちのボスが提示した『神の力』なんて妄言だよ。そんな都合のいいものがあるわけないじゃないか。俺たちへの意識が途切れたら能力の効果が切れたのも、今俺がお前に重くされるより早く体術を叩き込めたのも、それが俺たち自身の力だからだ」
「それでも、僕の力は」土手上の街灯から離れた茂みは、とても薄暗かった。男の黒い服は、がさがさと音を立てながら空気の中に溶け出していきそうな気がした。「僕の力は最強だ」
そう叫ぶ彼の肉体の中に、十九になった自分は、すっぽり入っていけそうだった。相手に向かって投げつけた剣筋が、華麗に踵を返してこちらを向いているように思えた。光る刃の柄を伸ばした先には、今朝のユリアと、夕方のテイムズが佇んでいる。今自分が切っ先を突き付けている相手の顔面上で、鏡写しに自分の姿形がありありと映じられている。
「油断していい瞬間なんてないんだ」男と闇の境界を、瞳を震わせながらとらえる。「この世界では、どこに行っても、隣から誰かがひょっこり出てきて、頸筋を搔き切ろうとする」
一寸、仁はそのまま刀を閃かそうとして、やめた。瞳孔が、彼の黒焦げた指先にとまっていた。
「あんた素人だろ」
男が、半分手で覆っていた顔をあらわにし、開ききった目をこちらに向けた。おぼろげな体線が、草むらの中で小刻みに揺れていた。脳裏に、初めて刀を握った時のことが素早くよぎっていく。
「数値なんて目安でしかない。アザゼルの力は、人の営みだ。丁寧に時間をかければ、射程から数センチ奥の固形物への干渉ぐらいはなんてことない」切っ先を敵の眉間から地面へとおろした。「すがったやつから死んでいく」
顎で、彼を闇へと促す。男は尻餅をついたまま後ずさり、のちに来たほうとは逆に向かって駆け出した。まるで何かに溺れ、あがいているような様に、仁は昨日ここで響いた「ユリア」と呼ぶ慟哭を想起した。
見上げると、その冷たい眼差しと、自分の視線がぶつかった。
「戦わなきゃいけないってことだけは、わかった」
「なんのために」
「守りたいものを、守るために」
「守りたいものって何」
突然思考が、もっさり膨れ上がった綿のようなものにふさがれた。その白い霧だか靄だかわからないような、ほの白い透明の奥に女体の輪郭が現れているがけっしてはっきりとは見えない。
言葉に詰まっていると、ユリアの方が先に目を逸らした。細長く並んだまつ毛と、突き出た顎が、絵になりそうなほどリアルで、美しい。そして美が、キャンバスの上を滑るように動いた。
「いいよ、もう」
思わず、息をのんだ。しかし恍惚に漂う暇はなく、現実に何か声をかけなければならなかった。須臾の間絶え絶えに悶えきり、仁は「帰ろう」とだけ言った。
静かに頷く彼女のもとへと、草を分けながら登っていく。家に帰って、寝つけるだろうかと仁は思った。これから自分が足を向けていく先は、どこもかしこも、あの忌まわしき紅が鮮やかに染め上げてていくのだと思うと、甲斐のなさに肩が垂れ落ちてしまいそうになる。だが、数分も経たない前に自分がたたきつけた、現実的な言葉の針が、二の足を踏ませようとはしなかった。
──すがったやつから、死んでいく。
眉根にしわが寄っているのを感じながら、仁は土手上のコンクリートを踏みしめた。草の茎から漂う命の香りが、鼻孔の奥まで忍び込んできた。
依然、艶美な横顔を晒す彼女を見れば、彼女もこちらを見返し、「なに?」と訊いてくる。
「なんでもない」そう答えた。
ユリアが帰途につこうと、顔を向けていた方角へと身を回した。
仁もそれに倣おうとした。そのとき不意に、暗闇の奥から、か細い呻きが耳へとひっついた。弾みに、瞳の上で焦点のずれた女の像が踊りだす。二つの輪郭が、重なったり、離れたり──。
「あの男は、あっちに駆けていった」自分でもわからないほど素早く振り向いて、網膜が真っ黒な空間をのみこんだ。「まさか」
青空の下で佇立する、下半身だけの女のヴィジョンが、絵の具を落としたように鮮やかさを増していく。今にもその記憶が眼球から飛び出し現実になりそうなほど急速な広がりだった。
濁流にのまれたような速さで、仁は駆け出した。