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episode2:撒かれ、芽吹く─A New Headspring:Chapter2

 斜陽に染め上げられた空気の中、親密な距離の沈黙は息苦しかった。仁は何度か言葉を紡ごうと試みたが、電気街に林立するポップなのぼり旗や電子掲示板をいくら目に入れてもふさわしい話題にはたどり着けない。逆に彼のうつむき加減なまつ毛に正面から向き合おうとすれば、目の前のオレンジとはどうしても交じり合わない赤い空が、瞼の裏に滲んでくる。それが何故かはわかりかねていたが、そういう視界が仁を塗りつぶすととにかく思考が蹂躙じゅうりんされてしまうので、しようがなかった。

「小さい頃の話なんだけど」梅雨時の湿気が抜けきらない電車の中で、テイムズが先に口を割った。「僕には義理の姉がいたんだ」

 突拍子もない語り口に少し面喰めんくらいながら、仁はその話題を受け入れた。軽く相槌を打つようにすると、テイムズはこちらを見ることなく続けた。

「母さんの再婚相手の連れ子で、東洋系の顔をしていた。まだ僕は小さかったから初めはびっくりしたけど、本当にきれいな人で、僕は、すぐに彼女を家族として受け入れられたよ。まだ十代にもなってなかった。僕も姉さんも、恋愛すら知らなかった。僕らは無邪気に遊んで、あの頃は、楽しかったなあ。今の僕も恵まれてると思うけど、あの故郷の空気が僕はいまだに忘れられない──太陽の光が、そのまま届くんだ」

 テイムズは恍惚とした表情で顔を上げた。寄り集まって佇む人々の間から、黄昏時の空を見出そうとしているようだった。

「ある時、僕は初めて、父さんに思いきりぶたれたんだ。それ自体は普通かもしれないけど、なんでなのか、その時の僕には訳がわからなかった。なんで怒られたかは覚えてない。ただ、後でわかったことには──彼はカルトにはまっていた」

「『明けの明星』」

「少しずつ教義を僕らに仕込んでたんだ。家族は全員、あの教祖が提示した『新世界論』にのまれていった。戦いも程なくして始まった。僕は──」

 言葉が途切れた。高架橋の上で、電車の車輪がごろごろ鳴った。テイムズはその大きな手のひらを握って、そこにじっと視線を落としていた。

 彼の唇が伝えようとすることを、仁には察することができる──赤黒い空の下で対峙し、仕留めてきた敵兵の中には、明らかに自分と同等かそれ以下の年の者がいた。

「だいたい、わかったよ」

「違うんだ」

 その音吐から言葉を引き抜けば悲鳴に変わってしまうような、鋭い叫びだった。色とりどりな瞳と面皮が、空気を一斉に圧迫した。

「いや、違わない、違わないけど、それだけじゃない」張り詰めた空気は、彼の息つきをつまびらかに響かせた。「僕の知らないところで、姉さんが死んだ」

 仁には、同じ空間にいる人々すべてが息をのんでいるように思えた。それぐらいに静かだった。

 間もなく、足元で車輪と線路が擦れて、車両はゆっくりと止まった。車掌が無機質にアナウンスを繰り返してから、ドアスピーカーから聞きなれた音が踊り出る。金属がぶつかり合う音の先では、さえずりの録音が等間隔で流れている。ほとんどの乗客は、身じろぎもせず自分の作業に没頭していた。やがて、誰もその駅を降りないまま扉は閉じられた。


 そのまま一つ二つと駅は流れていき、一際大きなプラットホームに到着すると二人は荷物を持ち上げた。いつもこの駅で乗り換え、彼らは別々の家路についていた。

 その日の別れ際、テイムズは構内の高い天井を見上げながら、「僕は」とぼやき始めた。

「正義のために戦ったつもりだったんだ。でも何も守れなかった。むしろたくさんの人を傷つける大惨事の片棒を担いでしまった。もしまた機会があるなら、せめて、大事な人だけでも、守れるようになりたい。だから、僕は、ヒーローになりたい」

 仁は、彼の涙を湛えた瞳を見据えながら、自分の中に渦巻いている感情を測りかねていた。ただ、肺を押し上げるように沸き起こってきた白銀色の記憶が、妙に鮮やかで、何も言えなくなった。

 おもむろに、テイムズがこちらへ視線をなげかける。

「ジーンには、守りたいものってあるかい」

 近くでキャスター付きバッグのタイヤが音を鳴らしていて、うるさかった。


「出かけよう」

 真夜中の零時を回ったころ、ユリアが部屋のドアを開いてそう言った。苛立ちを発散しようとうず高く積まれた性欲が、腹の底の方で澱んでいく。ただその物腰柔らかな口調だけが、仁の胸を愛撫していった。

「今朝はごめん」まどろっこしい煩いへの抵抗として、その言葉は飛び出した。

「何が」

「機嫌悪くさせたこと」

 彼女の表情を伺いたかったが、部屋の入り口からさす光の影になっていた。ユリアはそのシルエットを微動だにさせずに、冷ややかな首肯だけを口にした。

「で、いくの」

「うん」

 特別行きたかったわけではなかった。そうしておいたほうがいいと思った。

 真夜中の空気に、二人はさまよい出た。

 隣を歩くユリアの歩幅に自分の足を合わせながら、仁の瞳は白いものばかりを探していた。どこを見やってもあの白銀色の光沢は見当たらない。昨晩も訪れた河原で、短く嘆息した。

──もうどこかへ逃げてるはずだ。

 冷たい風に身を委ねるように、足を進めた。ユリアの浅黒い首筋を一瞥しながら、仁は「これでよかった」と自分に言い聞かせなければならなかった。

 雨垂れのない空間を、風がひしめき合っている。

「言わなくたって」空気に押し流されていきそうなほど、微かな声が迫った。「仁があの人のことまだ好きなことぐらいわかってる」

 否定の言葉は喉まで届いてこず、体を強張らせながら耳をそばだてることしかできなかった。

「でも、戦いたくないのは今の生活が好きだからでしょ」

「わからない」

 ユリアは怪訝そうに「どうして?」と呟きながら、葉桜の幹に歩み寄る。その間、彼女の瞳孔はずっと仁を捉えていた。仁には、浅黒い肌を纏った少女の肉体が、だんだん、黒々とした塊になっていきそうに思えた。

 やがて彼女が静かに葉桜の枝を手折ると、その枝は華奢な腕の先で燃え始めた。次第に黒く焦げていく枝葉にじっと目を凝らしていると、やがて砂粒のような灰が空間を揺蕩いながら凝縮していく。突然音もなく火は吹き消え、枝のシルエットは黒光りする針へと変化していた。

 おもむろに、ユリアはその鋭利な先端を自分の喉元へ向けながら、ゆっくり後ずさる。

「何を」

「最初から、こうすればよかった」

 息をのむ一瞬、仁は「違う」と叫んだ。手のひらを彼女の腕に滑り込ませ、引き寄せるようにしながらその針を奪い取る。体勢を崩し倒れ掛かってくる彼女をその胸で受け止めた。

「やっぱり、好きなんでしょ」

 不意に、青空の下の子宮と白い髪が蘇ってくる。鬱屈とした気分が腹の底に降りていく。二人の女の記憶が、腕の中の体温に収斂していくのを感じた。もう色彩を分別するのが億劫に思えた。

「好きだ」

「今の生活が?」

「ユリアも」

「本当に?」

 訝し気な声色を聞くと、表情を見たくなくなった。体中に巡る情動だけを頼りに、ユリアの脆そうな肉体を抱きよせると、涼しげな風にうんざりしたくなるほど熱が恋しい。目をつむり、ユリアの顔を探すように唇を突き出した。

 だが唐突に、瞼の裏の暗闇からぐっと顔が押し返された。目を開けるとユリアが腕の中で暴れていた。空気が身体に忍び込んで、肌の上を冷やしていく。彼女は腕を振りほどいて、こちらを睨みつけながら後ろへと引き下がった。

「好きなら、戦わなきゃ守れないよ」

 彼女の唇から飛来した言葉に、血の気がさっと引いていくのがわかった。

「いやだ」

「じゃあ、また失うよ」

 細長い指が彼女のティーシャツの裾に潜り込む。白い衣をはだけて浅黒い腹を晒しながら、臍の下に伸びる縦長の線をなぞってみせた。

「仁と私が繋がった証」茶褐色の傷跡は、仁の網膜を引きちぎりそうな勢いで迫った。「──私の身体も仁の立場も戦前とは違う。時間がたてばなんでも変わるんだよ。何もしなかったら取り残される」

 変わる。その言葉と共に刹那、幼い頃の彼女との記憶が、眼球を突いた。何も知らなかったころ。情熱さえ誰も傷つけない、平穏を貪る幼稚園。初めて見たカタカナの名前と、彫刻のように堀りの深い面貌に目を奪われ、無邪気な約束を交わした。

──()()()()()

 走馬灯の中で、何度もそういう罵倒が口内を巡っていく。体の中でこだまするその叫びは、少しずつなりをひそめていった。そして鈍重に、肥大化していくその約束は、泥のように肉の底へと沈みこむ。果てに、「神の子」の文字が見える。

 ああ、とため息がこぼれ出た。無機質な事実が、目前にそびえていた。

 口を再び開く瞬間が、パンドラの箱を開ける瞬間だ──その覚悟が締まりきる前に、思いがけず拘束は解かれた。

「『神の器』……?」

 顔を上げるとユリアが、目を剥いていた。彼女が見定める背後の遠く、振り向くとそこに揺れる白銀色が小さく映った。

 激しく地面を蹴り、風を切る音が傍らを抜けていく。疾駆するユリアのシルエットに、炎が赤く光っていた。

「何を──」

 一抹の不安に駆られ、仁は駆け出しながらアイス・ジェネレータに手をかけた。固体を固体の造形物に変化させるシンプルな作業の間、ユリアの動きから目を離すことはしなかった。彼女が燃焼させる火の大きさが、昔戦場で見かけたものと同程度のものだったからだ。

 次の瞬間、懸念は確信へと変わった。ユリアは足を止めないまま、両の手中で創造された弓に矢をつがえ、キリキリと引いていた。

「ユリア!」鬱憤晴らしのように、仁は激しく跳躍した。手元の刀を引き抜き、華奢な背中に一瞬で追いすがる。ほぼ同時に指の隙間から放たれた矢羽根を見とめた。

「仁?」

 太刀筋は確実に矢じりを捉え、上空へと弾いてその機能を奪った。素早く着地し、新たに矢を引こうとするユリアの手を抑えた。朝散々食らった足蹴りを思い起こすような鋭い目尻が、仁を睨みつけた。

「あの女は、殺さなきゃ」

「『明けの明星』の残党には見えない」

「関係ない」いうや否や、絡みついていた仁の腕を振りほどく。「あの女は、私たちの幸せを壊すかもしれない」

「何を根拠に」

 仁は、間髪入れず弓弦に手をかける、細長い腕を掴んだ。面皮に痛い睥睨が、暗がりに浮かび上がる白銀へと移る。眉根に皺をよせて、ユリアは微かに口を開いた。

「あの女は、最大の敵(ルシファー)の再来になる」

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