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episode2:撒かれ、芽吹く─A New Headspring:Chapter1

「夜、能力持ち(アザゼル)を見なかったか」

 味噌汁椀から豆腐を口に運んでいるとき、そう博也の声が耳に飛び込んできた。仁は仄かに、箸を握る指の手触りが、柄元の感触で覆われていくように錯覚した。

「見なかったよ」平静をつくろい、そう答える。

 相槌を打つと、身支度を終え彼は玄関先へと向かった。その間、仁はぶっきらぼうな外出の合図を聞くまで、食卓に並んだハム・エッグと白米を、熱心に見下ろしていた。

 博也の猜疑的さいぎてきな声色が消え、ダイニングにはユリアが口ずさむ楽しげなリズムが際立ち始める。硬直は徐々に温かい空気に溶け出していく。

 やがて仁がハム・エッグの黄身をつつこうとしたとき、ユリアが「まって」と声をかけた。

「今日、うまく半熟にできたから、やってみてほしいことがあって」彼女が自分のハム・エッグが乗った皿を傾けると、白米の上につるりと白身が滑り降りた。「これだけじゃなくてね」

 細長い指がオリーブ・オイルのボトルをつかみ、こなれた手つきでキャップを外すと、黄緑色のオイルが卵の上を転がっていく。すかさず、あらびきコショーの瓶を手に取り、茶碗の上でじゃかじゃかと振りかけた。そこまでやってみせてから、屈託のない笑顔でこちらを見る。

「いいね、それ」

「でしょ?」

 同じようにしながら、ユリアの満足げな視線を感じる。芳しい香りをたてる卵の風味をひとしきり味わってから、箸を持ち直す。黄身の膜を破ると、飛び出した卵黄が米や白身に滴り落ちた。

 その間、忙しない朝が嘘のように静かだったのに、仁は気づいた。

「ねえ、仁だよね」

 沈黙を破る言葉に、指先がぎこちなく動きを緩めた。

「何が」

 白身を箸でちぎりながら、しかしそれを口へ放る気にはなれない。静かな暇をつぶすように、仁は食器の中身をこねくり回した。

「『明けの明星』が新しい動きを見せてる。潜入任務中の『X.W.A.S.(ザバス)』の隊員の報告によれば一昨日から、それまで各地区に均等に割り当てられていた人員にむらができた。まるで──」

「待てよ」仁はできるだけ軽そうにそう言った。「『明けの明星』って、あの? 七年前の?」

 ふと顔をあげたとき、仁はユリアの鋭い目尻のほうに視線をあてられなかった。おぼつかない手つきでとりあえず箸をおいてみると、ユリアは再び続けた。

「そうだよ。私たちが七年前に戦った敵。この世界をめちゃめちゃにしたテロリスト──正真正銘、あの『明けの明星』」そこまで口にすると、目を細める。「もっとうなだれると思ってた」

「え?」

「あの人の犠牲も、自分の苦労も無駄になったとか。でも、その表情は、夜見たから。私、昨日の夜起きて待ってたんだよ。でも、仁、泣いてたから」

 細切れになった白身の艶と相対する面貌に、皺が寄っていくのが分かった。鮮血の記憶が、鈍い感触と共に皮膚に張り付いてくる。

「俺は何も知らない」

 針を突き立てられてとれないようなもどかしさに、仁はそんなセリフを叩きつけてみる。だが、結局のところユリアの声がとってつけたようになだらかになったこと以外は、何も変わらなかった。

「ここには隠しカメラも盗聴器もないよ、博也さんにはそうお願いしてるし、私が毎日チェックしてるから。私も、誰にも言わない」

「何も知らないって」

「じゃあ膝小僧をすりむいて泣いたとでもいうの」荒さを隠し切れない息遣いが耳につく。「戦場で死にかけたこともあるくせに」

 粘り気のある泡立ちを絡めながら密集する米粒たちから、もう仁は目が離せなくなった。雨中に浮かぶ白い腰とつながった記憶の中で、紅が生肌を滴り始めていた。

「『明けの明星』はもうないんだから、戦争もない。戦争がないんだから、俺はもう戦わない。『明けの明星』のボスを討ったら、そのあとは戦争が終わって、誰も戦わなくてよくなるんだろ? そういう約束だった。知らないよ、俺は何も。お前がティムのオカルト趣味にでも啓発されたんだろ。現実を見よう。戦争なんてない。みんなが安らかに暮らせる平和だよ。誰も傷つかなくていいんだ」

「仁」

 あふれ出る水勢に似た怒鳴り声が、皿の細かい揺動と共に壁を跳ねまわった。

 椅子が粗暴に床とこすれる音が聞こえてから、仁は顔をあげた。唇を、手のひらが頬ごと勢いよく弾いた。

「改めて、続けるね。『明けの明星』の首領は死んだ。それは私達が殺した。でも残党と目される組織はまだ残っていて、活動をしてる。しかもその活動は一貫した目的を持ってるように見える。博也さんの『X.W.A.S.』は、それに対応するために作られた組織。全部現実だよ」

「都市伝説だ」

 ユリアが一瞬顔をしかめるのが見えると、頬を押さえる手の上からもう一度平手打ちをくらった。低く呻く自分を、彼女がしばらく睨んでいるのが何とは無しにわかった。

「──さっきも言ったけど、一昨日から奴らの割く頭数に変化があって、一部の区画に十数人のレベルで増員がなされ始めた。でも変なことに少ししたら人数はもとに戻って、今度は隣の地区に同じだけ人員が増やされる。まるで、何かを追いかけるようにね。そして極めつけは昨日の夜」思わず目をむく仁を眺めながら彼女は、眉をひそめた。「この街に新しく、《《一人だけ》》『明星』の人間が送られてきた。数十人単位での増員を行っている最中に、そんなことはあまりに不自然でしょ。そこで、博也さんがすぐに指示を送って調べさせたら、それは事故や事件にメンバーが巻き込まれた時の対応策だった。でも、まだおかしい」

 リビングでつけっぱなしになっているテレビ画面を、ユリアは指し示した。見慣れないスタジオの映像が博也の出ていく前と同じように流されている。

「地元局のニュースでは、昨日はこの街では誰も死んでない」

「行方不明かも」

「奴らは人手不足に喘いでる。メンバー一人一人の位置情報から生体反応までを常に把握してるから、それはありえない。まだ他に可能性はあるけど──仁」

 わかるでしょ、とでも言いたげな間の中で、仁は口をつぐんでいた。

 ふちが汚れた食べかけの器たちを見やる。角張った黒いコショーの粒は、時折その白い内側をさらしながら身を横たえている。米と米の間を伝い、流れていく半熟の黄身は、冴えきらない頭に、土砂降りの雨音を蘇らせた──。


 平坦な切断面が、雨どいのようだった。とめどなくみなぎる血潮の動体は、とどまることを知らない。仁は熱い涙で覆われた眼球を感じながら、静かに手を伸ばした。

 生まれついて、仁には水を操る力があった。大人たちによって「オフィーリア」と名を与えられたその力で、仁は水を作り出すことと、水分から何かを創出することができた。

 そして、仁はその時、降りしきる雨をひとつひとつ、溶岩に変えた。

 男の肉体は赤黒く蒸発しながら穿たれ、うずたかい岩となって消えていった。


「昨日の大雨は、能力を使いこなしていないあなたにも好都合だった」

 ユリアが提示した理にたてつく術を、もはや仁は持っていない。だが、後味の悪い弛緩しかんが全身を巡っても、首肯の言葉だけはでてこなかった。

「仁、もう一度戦おう」

 乾いた呼吸が、喉をひくひくと震わせた。

「お前まで、そんなこと言うのか」

 凶暴な犬にも似た鋭い唸りと、滑らかな形状の身体が、容赦なく仁を叩いた。昨夜の激しい殴打に比べれば優しく愛撫するようなか弱さだったが、青あざを突かれると鈍い痛みが腹や胸を貫いていった。全身を打ち付けながら椅子から転げ落ち、なおも止まらない彼女の細長い脛の触感を、仁は床にうずくまりながら受け止めていた。


「泣きっ面に蜂」

 ガードレールに持たれながら、テイムズが得意げに言って見せた。

「いうなって」

「同情はしてるつもりさ。でも今日の君と言ったら──まず遅刻をかまして大津川おおつがわ先生に呼び出し。二つ目、弁当忘れて昼飯抜き。三つ目、授業中に爆睡してるとこを見られて大津川先生に呼び出し。四つ目、」

「数えるなよ。あと、弁当は忘れたんじゃなくて無かったの」

「それも不幸のうち」

 仁はまあな、と相槌を打ちながら紙コップに刺さったストローをくわえた。中身のフロートを吸うと、冷たい塊が空っぽの胃の中に落ちていくようだった。

──なんでこんなときにアイスなんか買ったんだろう。

 不意に、しょっぱい香ばしさをまとった熱気が顔を覆う。上目遣いに視線を移動すると、テイムズが伸ばした手元に薄茶色の縦筋がいくつか見え、その上に、頭頂で鰹節かつおぶしを躍らせながらたこ焼きが余り転がっている。

 自分の鼻孔が、ぴょんと跳ねた気がした。

「いいのか」

「流石に親友の飢餓を見捨てられるヒーロー志望はいないだろうなあ」

「ヒーローね」苦笑しながら、仁は差し出された割り箸を指に絡めた。「ありがとう」

 それ以上の遠慮をする余裕はなかった。割りばしを逆さにし素早くたこ焼きを頬張ると、舌をすりつぶすような熱に表情筋が歪んでいく。細胞を焼かれるような感覚の裏に潜むソースと鰹節の味わいを感じながら、少しばかり必死に咀嚼そしゃくした。

「うまっ」

 喉元から絶え間なく吹き付ける息がそういうセリフを作り上げた。噛み潰した濃厚な香りを飲み下し、熱と匂いの交わりから意識が脱出していく。

 だがやっと取り戻した理性でテイムズに感謝の意を伝えようと視線をふらつかせると、周囲の空間に身を埋めていた気配は、虚空へと成り替わっていた。末広がりな冷風が、胸の中を揺蕩い始める。

 突如、罵声が街中を駆けた。

 瞳孔どうこうは他の町人たちと共にその在りかを探し始める。続いて第二声が響き渡り、眼球の動きが即座にその座標を捉えた。

 電車の車輪が唸る下、灰色の空間。段ボールの上に立つ汚い身なりの男が、うずくまる学生に足蹴りを食らわせようとしている。

「舐めとるんか」

 ちらつくブロンド・ヘアーに、仁は弾かれて動き出した。男の傍らに転がるたこ焼きを見とめると、「くそっ」と舌打ちが飛び出た。すぐさま高架橋の下までのコンクリートを駆け抜け、身を伏せたテイムズと男の間へ飛び込み、片足を浮かせて蹴りを受けると、男は自らの足を抱え込み悶えた。

「すみませんでした」仁は日本語で声を張り上げると、俊敏にテイムズの脇へ手刀を差し入れた。

 薄暗がりの中を、人々が怪訝そうにのぞき込んでいる。ワイシャツに臭い泥と垢がこびりついたまま、テイムズは立った。彼の胴を支える腕には、男性の筋肉質な重量がどしりと乗った。仁は苦虫を潰したようにしかめられた自分の面貌めんぼおを感じながら、橙色の街へ足を踏み出した。

「ジーンは、ヒーローだね」

「そんなにいいものじゃないと思うな、それ」

 え、と声を漏らすイギリス人の顔を、仁は見返さなかった。

 程なくしてテイムズは仁の腕から離れた。攻撃を食らったのは一、二撃だけらしく、いずれも急所を突いたものではなかったと彼は語った。それでも、電車に乗るまで帰ることが億劫になるほど、二人の足取りは重かった。

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