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episode1:夕暮れの雨─A Fallen Pistil:Chapter3

 河原に出ると、散り切った桜の花が「桃色の絨毯」をつくっていてよく街灯のもとに映え、流動的に光る水面が心地よいせせらぎを響かしていた。美しい、と思った。しかし、銀髪の少女はその詩的な世界に溶け出したように姿が見えない。

 そのとき、まったく偶然、ぼうっとその景色を眺める彼の頭に、ひらりと言葉が閃いた。

「橋の下」

 そしてその網膜に真っ白な人形ひとがたが映じられたのは間もなくだった。身をかがめてのぞきこんだ先に仁は目を細める。

 まるで清流を風がいたような白銀の髪が、純白の肌に覆われた肩を撫でている。ほそやかな腕から王宮の軒のように無駄なく手と指が生え、華奢な身を抱いていた。

 ただ二本、力強くしかし柔らかに突き出たいかつい角が、その美を現実にとどめているように思えた。

 萎縮した筋肉から力が抜けていくような(おのの)きが、四肢の感覚を混濁させる。

──オークだ。間違いない。最近流行りの新世界ゼノベルト都市伝説の通りだ。

 体中の血液が全て脳に行っていたとまがうほど仁はしばらく身動きをとっていない自分に気づいた。ほぼ同時に、そのオークは顔を上げ黄色い瞳でこちらをとらえると、大きく目を丸めて「Don't come here」と叫んだ。

 思わず、耳を疑った。

 仁の周囲では英語が公用語と言わんばかりに横行していたが、この非現実をあてこすられたような白さに覆われた少女の唇から、それが這い出てくるのはあまりに奇妙だった。

 しかし、それに対しなにか疑問を投げつける前に、突如として、仁は自分の肩に迫るごつごつした指先を感じた。

──『|くるな《Don't come here》』だって?

 刹那、神経の反射と共に思考が散り消えた。背を向けたまま、手元の傘を思いきり後方に佇立していた気配に突き立てる。低く唸るような声と、軽やかに弾ける轟音が耳元を掠めた。激しく鉄塊がコンクリートに叩きつけられる音が、橋下を跳ねかえり水面に落ちていった。

 目尻のあたりまでぐっと引っ張られた瞳に、黒光りする筒が映り込む。その勢いのまま振り向くと、優美に髭を蓄えた男が眉間に激しい皺を作りながらよろけていくのが見える。男の双眸は、未だはっきりとこちらをとらえていた。

 咄嗟に傘をそのまま開いてその間を遮りながら、仁は声を張り上げた。

「|傘を氷に、氷を鉄にすれば《オフィーリア》!」

 次の瞬間、耳障りな金属音が傘の向こう側で響き渡る。「貴様能力持ち(アザゼル)か」と男が啖呵を切るのも鼓膜に届いていた。

──こいつ、能力のことを知ってる!

 浜辺に力強く打ち付けられ広がる波のような静けさで、赤黒い空の記憶が脳裏に迫る。そして瞬く間に、銃弾の嵐の中吹き飛ぶしなやかな女体が、瞼の裏を横切った。

「もういやだ──」白い少女の手を握る。少し手前に引いてみると怪訝そうな表情をしながら立ち上がるその肢体が、確かに彼女は彼女として崩れ落ちることなく存在していると思わせた。「もう、こんなことは」

 先ほどよりずっと固く重くなった傘を引きずりながら、地面を蹴りだした。

 やわらかい土を踏みつけるたび、時が過去から追いかけてくるように映像が蘇っていく。眼鏡をかけた少女、淡い気持ちを塗りつぶす赤色、鉄の臭い、浅黒い肌の少女、桜の木、重なりに重なった肉体の色鮮やかさと、「神の子」の文字、のっぺりとした壁の白い部屋、自分の目の前で確かに動き出していた自分と少女、強化ガラスの向こうで始まるグロテスクで扇情的な交わり──。入水の激しく重くなめらかな抱擁のほうがずっと優しい。

 せめて、と仁は少女のやわらかい手をぐっと握った。

 余計に鮮やかさが増す眼鏡をかけた少女の笑顔を振り払いながら、仁は懐に肉薄する鈍い形状を感じ取る。重い傘を手放し脇腹の手前を素早くぐと、ざらざらとした生肌と骨肉の中でこちらへと突き進まんとするベクトルが感じられた。すかさず、力が脇を抜けていくように同線をずらす。

「私の不意打ちを──しかし」

 刹那のスピードで仁の視野を牛耳り始めていた男は、いなされた拳を引きこみ第二撃を繰り出した。繋いでいた手も放し、仁は攻撃の筋を読みながら利き手をそこに合わしていく。右手は新たな攻撃が腰の上をえぐる前にしっかりと拳に触れたが、その手のひらがとらえた衝撃はあまりに軽薄で、仁の胸に一抹の可能性をよぎらせる。

「君はどうやら神に見初められた者(クリエイター)のようだが」可能性が仁を突き動かす前に、もう片方の一撃がみぞおちに食いこんだ。「初撃で気づいたよ。その力、まだ使いこなせていないようだ」

 口のなかから粘り気のある唾が剥がれ落ちていく。体中の神経が悶えようと震えだす前に、追い打ちのように頬骨の間を鈍い痛みが響き渡る。視野からあらゆる焦点が消滅し、水のように流動する世界で鼻先の熱い苦しみを訴える暇もなく鋭い殴打の感触が胴体を打ちのめしていく。

 ふと、遠くで痛烈な悲鳴が上がった気がした。

 拳を追いかけて肌を撫ぜる風は止み、水が染み入ったような空気が体を包み始めた。仁にはもはや、真白い視界の中で触れてくる力に身を任せるしかできない。倒れこむと、土の匂いが鼻腔に充満した。

「由衣葉さん──」

 意識は、静かに地中を潜っていく。

 


 仁は、蠢いていた。手足の区別が自分で付かず、体をくねらせたり転がしたりして安息を探した。体に接する地面の全体が、強引に肌を肉へ押し込んでくる。一瞬間少女の寝姿が見え、消えたと思えば、顔の内側に痛覚を同時に多く刺激されたような鋭さを感じる。

 苦しみが、意識を呼び起こした。

 突飛なうめき声をあげながら、上体を跳ね起こす。地面を撫でながら目の開き具合に違和感を覚え、瞬きを二度、意図的にした。

 暗くじめついた風が、前髪を不器用に揺らす。仁はおもむろに胸のあたりを撫でた。軽やかに衣擦れの音を鳴らしながら、手のひらが肘へと滑り落ちていく。

 仁は初めて違和感に気づいた。その瞳に映りうるもの全てに、意識が向いた。

 街の夜闇以上に空間は薄暗かった。コンクリートの地べたの先に、確かなせせらぎが揺蕩たゆたっている。頭上で重く、それでいて素早く何かを引きずるような音が通過していく。

「また、橋の下か」

 ふと息の気配を感じ、仁は力無げに身を横たえるあの少女を見た。唇の間からこぼれ落ちるほのかな声色に耳を傾ける。

「目が、覚めたようですね」瞳を閉じ込める格子のような細長いまつげが、かすかに揺れた。風に揺られる美しい髪が、四肢の不動である有り体を対比的に強調している。「あの男は負傷しているはずですから、しばらくはここにはたどり着けないと思います」

「なんで君は動かない」

「疲れたから……そんなことより」

 彼女が「あなたは」と続けようとするのを、仁は遮った。

「お前は何者なんだ、どうして境界線の向こうにいるはずのオークがここにいる、なんであんな男に、『明けの明星』に追われている。どうして──」白い肉体へ詰め寄る。「立てなくなるほどの力を使って、俺を助けた」

 黄色いまなざしが、崩れるように地面へ落ちていくのがわかった。その視線をなぞった先で、湿った桜の花びらのうえで銀髪が濡れ汚れていた。

「あなたの目が、涙を湛えていたから。泣くことができる人は、優しい人だから」

「だったら、初めから助ければいいじゃないか」

「戦うと、思ったから……」

 心臓から体中に、熱い血液が巡っていくような気がした。血管を膨らませて、打ち破りそうな勢いが体躯を激しく駆り立てた。

「俺が弱虫だって言いたいのかよ!」

 衝動の波紋に背中を押されるように少女の服へ掴みかかると、はずみで触れた柔らかい胸の感触に、激情が吸い込まれるような気がした。少女がぶつけられた勢いのまま仰向けになると、乳房は滑らかに揺れ、髪の毛先に愛撫を受けながら、緩やかな静寂を得た。次第に、仁は今節々で煮えくり返るこの血潮の有様が、はたして握り拳へと収束していくのかわからなくなっていった。素早く脈打つ鼓動が、仁の喉を詰まらせる。

 ゆくりなく、仁は七年前ぎこちない手つきで触れた女体の感触を想起していた。紅潮しながら微笑みと吐息が漏れ満たされていくベッドルームで、弄りあう互いの温度を手探りで確かめ、絡みつく互いの身体が幸せの色合いを醸していた。「ずっと一緒にいるからね」と日本語で言ったのがどちらなのかわからないほど混じっていた呼吸が、今は仁一人の喉元に出入りしている。

 雨に濡れて冷め切った体が、熱を欲していた。

 彼女の肩紐をまたぎながら、輪郭を指でなぞってみる。少女の顔を見てみると、不愉快そうに眉根を寄せていた。かすかな声を振り絞って何か伝えようとしていたのを、仁は無視した。

 脇に触れて少女が弱弱しく声をあげるのを耳に入れてから間もなく、指の腹は腰のあたりを摩する。弾力の中にはっきりと生命の漲りが感じられた──瞬間、瞼の裏を赤い画面が通り過ぎた。

──なんだ?

 仁は彼女の白いワンピースをはだけ、恥じらうように小さく収まったへそを凝視しながら、くびれのあたりを鷲掴んだ。掌を骨盤の上に滑らせるたび、自分の息が短くなっていく。同時に、鮮明な感触の記憶が、アニメーションのように動き始めた。

 思わず、仁は声をあげた。

──由衣葉さんの──最後の──体温の──俺が、抱きしめた──。

 眼球の奥から、世界が赤く滲んでいくかもしれないような熱が、溢れてくる。尻を地面に引きずりながら、その肢体と距離をとる。遠くから見れば、確かに、腰はヴァギナと乳房をつなげていた──が、温度も色彩も明らかな記憶のヴィジョンの中では、剥き出しになった子宮と臓物が、その足の上でたなびいていたのだ。そして、仁の頭を優しく撫でていた。

「なんで、お前の身体はそんなにあの人に」

 胸と喉元がうまく言うことを聞かず、奥深くまで胸をえぐられたように、言葉一つ一つが重い。視界のぼやけた世界で、真白く存在を主張する少女に焦点を合わせようとする。首の中を裂く獰猛どうもうな声で、仁は叫んだ。

「名前はなんだ」

 雨音に溶け出しそうなほどの静謐せいひつさで、「リリセーヌ・イェータ」と応答があった。仁が諦め半分に求めていた答えとは、あまりにかけ離れすぎた発音だった。激しく嗚咽しながら、ふらつく足に力を込める。その娘(リリセーヌ)も、腕を揺動させながら重たげに首をあげ、何かを発しようと口を開け始めた。

「そんな名前知らないよ」咽びの韻律のまま、先に声を張り上げた。「気持ち悪いんだよ。消えろよ」

 錆びついた橋の鉄骨に手をかけると、指先をざらつきのある水が覆った。湧き立とうとする感情は奥歯のあたりで噛み潰して、土砂降りの雨の下に身をさらした。川沿いに植え込まれた桜並木が、自分の部屋で戯れているであろう褐色の女を思い出させた。

 忘れてやる、と仁は呟いた。もう二度と墓参りなどしまいと心の中で誓いを立てると、改めてユリアへ想いを馳せる。

「ユリア、ユリア……」

 香水と汗とがないまぜにされた香りは、懐かしく蘇った。が、それに伴って霞んだ慟哭のようなうめき声も耳の奥まで忍び寄り、仁は戦慄する。

「君の、恋人かい」

 おぼつかない足元の感覚を頼りに素早く振り向くと、雨垂れが描き抜いた細長い線の向こう側に薄暗い、異形を成す影が現れる。彼の右腕が、やけに細い。破けた司祭服の生地から伸び垂れるそれは、どちらかといえば植物に近い形をしていた。

 やがてほのかな光を目の中に収束させてとらえた容貌は、背骨に冷たい針を通すような慄きを体現させる。

「こいつ腕が……」

 コンクリートの地面まで延び行く透明な線を遮り現れた男の肩から、光沢ない白色の骨が風に揺られていた。仁は身体の筋が針金になったように、がっちり固まった。

「こうみえて君には感謝している」荒い息の中に言葉をまじえ、男は言った。「私のターゲットは、指令通りに生け捕りにできる。彼女が君を守ってくれたおかげで」

 そこまで口にすると男は水たまりに吐血した。飛沫は仁の足元にもまとわりついた。

「じゃあ俺のことはにがしてくれよ」

「事情が変わった。命を取りはしない」

 語ると、足を引きずりながらこちらへ歩み寄ってくる。が、次の瞬間、男は大きな重みの投擲とうてきに殴りつけられ、側面へと倒れた。揺れる白銀が、暗い雨粒の中でおぼろげに光っていた。もみ合う二人のうち、仄白く瞬く反射光は投げ出されるように地面へ転がった。しかし同時に、空間を切りつけるような叫喚が、仁に呼びかける。

「触れられてはいけません、その男は、触れたものの硬さを変える」

 そのとき仁は間合いを取るべきか判断しかね、その場に立ち尽くしていた自分に気づいた。すぐに男がけたたましい慟哭を吐き捨てながら、一息に地面を蹴りだす。

「君も生け捕りにさせてもらう」

 既に動き出すには敵が肉薄しすぎていた。一瞬、彼の攻撃を受けた後の自分が頭の中を通過していった。指先まで行き届いた恐怖は、前髪のヘアピンに動き出そうとする手をひしと封じている。何を選択すべきか、断じる余裕は肉体のいかなる隅にも残っていなかった。

 生暖かい人間の感触が肩に触れ、仁は息をのむ。が、その指は刹那の間をおいて離れた。男は肺の内側で反響するような野太いうなり声をあげながら、体がどかされていった。代わりの柔らかい白銀が、胸に飛び込んでくる。淡い紅の唇が「距離をとって」と繰り返していた。押し込まれるように、仁は後ずさる。男の輪郭が霞の中へ消えるほど離れると、胸にあずかっていた重みと温度はさらりと離れていき、たたらを踏みながら自立する。

「お前」

「ごめんなさい」きっぱりとした抑揚だった。心臓から温度が離れていくような寂しさがあった。「優しい人」

 不鮮明な濡れ幕の奥で、水を撥ねる足音と低い声音が聞こえる。その灰色の展望と華奢な体を交互に見つめると、得体のしれない大口が目の前に開いているような心持ちになった。炯々《けいけい》と輝く白光が、どろどろとその中にのまれていくような気がした。

 寸刻、骨盤の映像と画像が二つ銃口から放逐されるような速さで胸を貫いていく。程なくして、その胸は深く収縮し始めた。深紅の体内をうち震わせる息つきは、やがて夜の雨を伝う音吐となって闇を駆け抜ける。

 仁は、水色のヘアピンへと手を伸ばした。腕に絡みつく氷塊は瞬く間に光沢を得、握り手の確かな感触を掌にとどめる。

 力が足先へと弾かれ、跳躍した。瞼の奥に敵の像をとらえると、刃に雫と剣戟けんげきをまとわせる。

 手元に喉ぼとけの硬さをとらえながら、仁は刀を振り抜いた。

 大きな質量を持った肉体が、無機質に地面へと叩きつけられる音がした。

 しばらく、ノイズのような雨音と静けさがそこに充ちた。

 鮮やかに赤いしぶきが背中の向こうでしたたるのを感じながら、骨肉に散っていた力が首で収斂し、内膜から波があふれるような圧迫が爆発した。

 静寂の中で、熱くまとわりつくシャツと、涙の匂いだけが色彩を帯びていた。

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