episode1:夕暮れの雨─A Fallen Pistil:Chapter2
明かりを消した仁の部屋には、街灯の光だけがこぼれ落ちている。ときおり車のヘッドライトが天井を横切り、スピーカーが奏でるざらついたジャズの韻律と、コンクリートに叩きつけられる雨だれの音が、淡く湿ったベッドを包んでいた。
シーツを撫でるとほのかに舞う汗の匂いは、仁の鼻孔から指先にまで伝った。昼間繋がった体の記憶が、生々しい毒のように肉壁の内を駆け巡っていく。堪らず空を眺めても意識に割り込みうるような光景はなく、ただどす黒い雲が揺蕩っているだけだった。
──何もかも忘れたいのなら、もう今日は──。
ベッドの緩やかな弾力に身を委ねると、ユリアの匂いは余計に闇の中で際立った。胸に湧き上がる嫌厭の感情は際限なく仁を覆い尽くして、どこまでも絡み着く。
暗澹とした部屋での逡巡の果てに、枕元の端末に手を伸ばしてみた。液晶から放たれた光陰が、暗闇になれた瞳孔を殴りつける。小さく呻いてから、仁は連絡先を眺めまわした。
「こういうときは、女のコだよな」
最初に目についた「Thames Beaulieu」を見て顔をしかめてからは、女性名ばかりを追いかけた。
──増えてるんだな、移民。
スライドしながら消えていく文字はほとんどが英語表記だった。
七年前に終結した戦争の口火が切られたのは、仁が生まれる前の、アメリカ大陸においてだった。十数年も前、人智を超えた力を行使するカリスマ的なテロリストが大陸全土を支配したという話は、誰もが知る事実であると同時に、日本に帰化した彼らの間では忌むべき記憶としてあまり語られることはない。
鋭く網膜を刺す白光の中に、初めて漢字が視野に飛び込んできた。
「玉上瑞希?」
黒く濡れたしとやかな髪と、つややかな唇から流れ出る、歯切れのいい言葉の抑揚を仁は想起した。
──最後に、大切な人と日本語で話したのは、いつだったか──。
ふと、視線は闇の中に吸い込まれた。液晶の光は画面の暗黒に収まり、息を潜めていたジャズと雨音が静かに踊りはじめる。外から投げかけられる街灯の光が、フローリングを反射して仄白く空間を染め上げていく。
端末を枕元に伏せて、外の暗雲に目を向けた。
「由衣葉さん」文脈などなしに喉から突き出た名前に、貫かれるような心持ちで寝返りを打つ。
──何を、やっているんだろう。
組み編まれた感情はいつの間にか目まぐるしい変化に蹂躙されていて、仁はやっと、そのさざめきの中に横たわる静寂を見つけていた──が、その瞼の被覆を乾いたノックの音がとどめた。
「仁、起きてる?」
くぐもった声が、木製のドアをすり抜ける。窓を開けるよう懇願する猫にも似た声色は、仁の中に成り立ったデリケートな均衡に触れようとしていた。
「ああ」返事とも唸りともつかない声とともに仁は起き上がり、寝間着に取りつく匂いを払う。「ねえ、ユリア」
「なに?」
フローリングの冷めた滑らかさを足裏に感じながら、ドアに歩み寄る。ドアノブに手をかけると素早く身を引いて、引き込まれる風を受けた。
「俺さ、ちょっと外出るよ」ユリアの体と框の間に、肩を滑り込ませる。
慌ただしい息継ぎで疑問符を連ねるユリアを背にしながら、電燈の明るみに目を眩ませた。玄関先のサンダルに足をかけながら、模細工仕様の小窓を眺めると、先程まで自分を含蓄していた藍色が、ずんぐりと腰を据えていた。
ユリアの言葉が次第にもの遠い様相を呈していくと思えば、仁の腰に粘着質な感触がぶつかって、さらりと落ちた。
「シューアイス」仁が振り向くと、ユリアは言った。「昼、渡したやつ。食べないでほっぽらかしてるから、溶けたんだよ」
床の上に視線を投げれば真っ白なクリームを包装の内側にへばりつかせて、茶色い生地がその身を横たえていた。
指の腹でそれをつまみ上げてみながら仁は顔をしかめた。
「ユリアは持ってた袋のやつ、どうしたの」
「ちゃんと冷凍庫に入れといたから」白く濡れたプラスチックを透かして、ぺたぺたと仁の部屋に入っていくユリアが見えた。「それ自分で食べて」
喉元を通した曖昧な返事は、ドアが閉まる音に押し負けて自分でも聞き取れなかった。
フックにかかったまま揺れるレリーフが、木質の音を廊下に響かせる。
幼い、肌を褐色に染め上げた少女が、漆を広げたような髪をたなびかせ、満開の桜のもとに佇んでいるのが、妙な鮮やかさを持って瞳の隅によぎった。
──やめろよ、こんなときに。
仁は舌打ちをする自分に違和感を覚えながら、プラスチック包装をポケットへとねじ込んだ。傘を一本わしづかみにして玄関のドアを開くと、正面だけを見てぐんぐんと歩く。二階に備え付けられた玄関から地面へ駆け下りるとき、肩にぶつかったものに注意を払う余裕をも、ポケットの底に押し込んだまま足を進めていく。
「待てよ、仁」
その声は、街灯の下で黒光りするべったり濡れたコンクリートの上から、靴底の柔らかい感触と共に跳ねた。振り向くと、闇にのまれていた影が、開いた瞳孔の中に覚束なく浮かんだ。
「ヒロ兄?」
「ああ」低くしゃがれた声の主が、かすかな光を浴びながら言った。「ユリアの声が聞こえたよ。夫婦喧嘩か」
心臓をくすぐるような台詞だった。喉元を駆け上ってくる熱を噛み潰して、こともなげに「そんなところだよ」と答えると、最上博也は目を細めた。やがてはっきりと輪郭を得た彼の視線には、内蔵を満遍なくまさぐるような底気味悪さを感じた。
「まあ、」と、博也が呟く。「神の子計画の第一世代は健在だし、予定通りこちら側の戦力は鼠算式に増えているから、今更お前たちの仲がどうなろうが知ったこっちゃないがな」
その台詞が鼓膜を撫であげた瞬間、夕方、染み入った雨垂れたちが身体の内々から盛り上がるような感覚が仁を突き動かした。
「もとはと言えばあんたたちが……」
「おい、忘れるなよ」仁が博也の襟に触れようとした刹那、冷ややかで無機質な感触が肋骨に触れた。「お前の『オフィーリア』は未熟だ。今お前の心臓の上に銃口が置かれているこの状況なら、俺は『ザ・グラスホッパー』を発動しなくてもお前を倒せる」
先ほどの彼の視線がいよいよ実体化したように、銃身の温度は胸の中まで忍び寄ってくる。自分がともすると振りあげそうだった拳が、恐ろしく矮小に思えた。鋭い博也の双眸をちらりと見てから、仁は「おてあげ」をやりながら後ずさりした。
「しまえよ、そんな物騒なの……夜の住宅街にあって、いいものじゃない」
「そういうことだ」博也は素直に、というよりは一連の流れが意のままであったかのように自動式拳銃を懐につっこんだ。「誰ももうこの街を血に染めたくはないんだよ。そのために『神の子』は必要だ。お前とユリアのセックスもな」
「でも、」
「泣き言も綺麗言も、言ってる暇あったら目の前の問題なんとかしなくちゃなんないの。それが大人で、現実なんだよ。お前も、もう十九なら覚えとけ」
博也はそう言うと、腰のポケットから人差し指ほどのものを取り出して仁に投げ渡した。ものは放物線を描きながら、見事に仁の手のひらへ着地した。すかさず、片手を前に持って来てのぞき込む。
「ヘアピン?」
「アイス・ジェネレータ。先っちょにボタンついてるだろ」
そう指摘されるがままに確認すると、確かに髪留めの持ち手のところが水色に光って、押しこめるようになっている。
「そこを押して二秒で、一メートル四方の氷塊ができる。お前の『オフィーリア』の未熟さはそいつでカバーしろ」
仁は自分の「能力」を鑑みて、確かにこれがあれば戦える、と思ったが、それが暗に意味するところを解したときのぼってきた言葉たちは、先ほどまでの博也の台詞に簡単に遮られ、頸の中をぐるぐる回って消えていった。
「ありがとう」その言葉は、舌先からそっとこぼれ落ちるようだった。
博也が電灯の白い明かりから暗闇に消えていく。彼が満足げな表情をしていたかは、よく見えない。玄関が閉まって周りから人の気配がなくなると、仁は今、空気を通じて自分の体に触れてくるものがなにもないということを実感した。静寂さの中で鋭敏になっていく感覚は、肩が濡れていることも大いに明らかにした。
ぎこちなく髪留めを前髪につけながら、真白い街灯の光をたどって、深夜の空気の中にくりだしてみる。手元の傘をワンプッシュで開くと、漆塗りにされた霧が漂うような闇の中で、仁は次第に白く煌めくものを目で追い始めた。
「ヘッドライト、コンビニ、街灯、ヘッドライト、道路の……白線。ヘッドライト、街灯、」足は、市内住民しか名を知らないような小川へと向いた。玄関を出てすぐ、正面に橋が見え──「髪の毛?」
橋の上で小さく揺れる白銀色の概念を、そう規定した自分が信じられなかった。
──でも、幽霊にしては美しすぎる──。
陽光に輝く清流を割き、頭頂を湧水地として足元に流れ込むようなそれは、確かに人類の髪の毛に違いなかった。奇妙なのは、老婆の白髪や、何らかの不幸でそうなったようには見えないことだった。むしろ艶やかさのあまり、その白銀色は裸婦像よりもエロティックに、暗闇の中で映える。
ふっ、とその輝きは消えた。ピンボケした鈍色の壁のずっと奥に、彼女は隠れてしまった。
──もっと、観ていたい。
はっきり心のなかで、そう言葉が紡がれた。
仁は水を撥ね飛ばしながら駆け出した。
傍らから、「オルフェウスという人を知っているかい──いや、私はキリスト教の方なんだけどね。取り戻そうとしたら、振り返っちゃいけないんだ。君はその情欲を、新しい世界にたどり着くまで抑えきらなきゃいけないんだ。でもね、そんなのは無理さ。人にみなぎる命の力が、そんな大胆なことをさせるんだ。その力が、どうして君が愛する人と溶け合おうとするのを阻むだろうか」と言う男には気づかなかった。仁の全ての意思は、あの綺麗な髪の毛にたどり着くためだけに躍動していた。「ルールを変えなければ。ハデスを殺さなければ。そして、新世界を作らなければ、君は、至上のノスタルジーには到達できない。すなわち、幸福には」