episode1:夕暮れの雨─A Fallen Pistil:Chapter1
「仁君、私、幸せになれますか」
七年前の、夏だったと思う。小さな川の河川敷で、隣に腰掛ける少女がそう問いかけてきた。
仁は肯定的な言葉をかけながら、眼鏡の奥で、淡い光を湛えるまつ毛に魅入られていた。「渡さん」と声をかけると、彼女は乱反射する水面から目を離し、白い面貌をこちらへ向けた。
「由衣葉でいいです」
よろしくお願いします、と差し出された手を、仁は顔から火を噴きそうになりながら握った。その花びらのような滑らかさに、絶句した。
意識の底から目覚めると、川面の微かに涼しい空気はどこにもなかった。代わりに、鈍い灰色をした雲と、梅雨時の湿りけが教室の窓枠の中を漂っていた。
──こんな日に限って、あんな夢──。
そう考えるのと同時に、きめ細かい網で遮られるようにおぼつかない意識が、鼻先のむず痒さを捉える。仁はおもむろにティッシュで鼻を覆い鼻水をぶちまけた。
「花粉が……」そうぼやく刹那に、持病の鼻炎のほうだろうとあたりをつける。
机を挟んだ先では、アングロ・サクソン系の筋肉質な口角に深くえくぼの刻まれた友人が、巷で話題の『新世界都市伝説』についてまくしたてていた。
──まだやってたのかよ。
うたた寝に身を沈めていた時間は、あまり長くはないようだった。
漫画やアニメのファンタジーな世界観を切って張り付けたような彼の語り口に再び飽きが来るのは早く、仁は「ところで」と切り出した。
「ティム、今日はもうティッシュ貸せない。これが最後の一束だよ」
その友人──テイムズ・ビューリーは、鼻にかかったくせっ毛を後ろ手にまとめ直しながら濁点のついたような声で「Huh?」と声を漏らした。
「そりゃないでしょ、ジーン!」拘束から開放された金髪が、パラパラとテイムズの首元に垂れ下がる。途端、彼の目が泳ぎ始め、絶壁にそびえる岬のような鼻が歯切れよく呼吸した。
ことさら大きな音で、テイムズのくしゃみは四方の壁を跳んだ。
「ねえ、ジーン。このとおりだ。くしゃみは人の意識しないところから出てくる。いつか僕は意識せざるくしゃみを君の顔に浴びせるぜ」
仁は顔をしかめた。
「正義のヒーローを目指す少年の言葉とは到底思えないな」
「ヒーローの支援者ならメディカルケアぐらいやってくれたっていいだろ」
「ああわかった」指を彼の鼻の先につける。また、弾を装填するようにその鼻孔は膨張していた。「さっさと診療所に行ってこい」
テイムズの肩に手を伸ばすと、同時に彼の目は上に向いた。情けない顔で二つ、大きく息を吸い込むテイムズの体を引っ張り、彼の前後は入れ代わる。
彼の意識せざるものは、黒板へと吹きかけられた。
「唾が飛ばなくてよかったよティム。黒板は無事だ」
「僕はまだ無事じゃない。あと、僕らの世界もだ。今にも異世界を支配した魔王の軍隊が……」
「先の話だろ、俺には関係ないよ。面倒ごとに首突っ込みたくないの──お前の鼻の話も含めてさ」
「ジーン、もっと他人に関心もちなよ」そう言って、鼻先を突き出してくる。
彼の声色に少しシリアスなトーンも混じりはじめ、仁は嘆息した。手元のポケット・ティッシュに目を落とし考えを一巡させても、鼻炎の身に数時間ティッシュなしの生活は骨を折る苦労だ。
が、トイレットペーパーも近頃の値段の高騰の影響で、本来の用途以外での使用を禁じられている。仁は首の後ろを二度、軽く叩いた。
「私の、あげる」
テイムズの鼻の先に、ピンク色のポケット・ティッシュが滑りこむ。瞳孔が彼女彼女を捉えるのは、テイムズのほうが早かった。
「ありがとうユリア。心底助かる」
肩まで伸びた黒いくせっ毛の少女が、テイムズではなく自分を見ていた。少女の視線は、あまりに直線的だった。
「今日、どうするの」その二重瞼の下から繰り出される眼光と同じ鋭さで、言葉は仁に刺さった。「行くの」
仁は目を泳がして、彼女の浅黒い頬を注視せずにはいられなかった。次第に、視界から彼女は排除されて窓の外に目が向いた。
「行くさ」
「ついていったほうがいい?」
「好きにしてくれ」
「わかった。じゃあ私も行く」
ファストフード店にいるクルー並みに情なく、その台詞は置き去られた。仁は、踵を返すユリアの、ふわりと広がったスカートに目を落としてから彼女の背中を見つめた。
「仲いいよね君ら。デートのお誘い?」
肩に感じたテイムズの体重を、二の腕で振り払う。
「そんな愉快なもんじゃない」
テイムズの軽々しさが仁には接しやすいのだが、このとき初めてその図太さと間延びした声を恨んだ気がした。ユリアはこちらに見向きもせず、自席に戻って本を開いていた。
静かに雨が降っていた。花弁を散らし尽くした桜の花が、むき出しになった血管のように赤く木を染めているのを眺めながら、仁はユリアを待った。
校内の道に生えた木々の梢は、忍び足で地に降りる雨垂れを、しなやかに遮っている。時折残った雄しべや雌しべがはらりと解れて落ちた。
ぱらぱらと傘が叩かれるのが耳に心地よく、曇天の空は白い雲の中にシャープペンでも描けない影を湛えている。
耳を澄ましていると、無機質な音たちが妙な生物味を帯びて鼓膜に語りかけてくる。その中へ次第に、理性を伴ったまばらな韻律が、濁った音色で近づいてくる。
振り向くとそこには涼しい目をした少女が佇んでいた。
「仁」
ユリアは美しかった。容貌と人となりがそれぞれ共にというよりかは、それらが一体のものとして身体の細部に顕れ、その美をなしているようだった。
「待っててくれたの」瞼のふちを切る線だけに緩やかな喜びを滲ませてユリアは言った。
「ついてくるって言ったからさ」
「待ってくれると思わなかった」
仁は笑った。ユリアの目尻に浮かぶ神妙さがおかしかった。
「待たなかったらどうするつもりだったんだよ」
「向かうところはわかるもの」
ああ、と相槌を打つしかなかった。神は我を救い給うたと、そんなことを言いかねないような何かがその張りのある頬の中に含まれている気がして、仁は黙った。
七年前の戦争 からしばらく後に、仁とユリアはこの学校に通い始めている。戦いに駆り出された数名の子供たちには新たに教育を受け直す権利を認められ、二人は二年経って入学する手続きをとった。が、その事件で彼らの住んでいた区域はほぼ壊滅し、学校と言えるような設備はほとんど整っていなかったため、二人は郊外の自宅からこの都心まで時間をかけて通う必要があった。
朝のラッシュに比べれば、ずいぶんと人のまばらな電車に二人は揺られていた。高層ビル群は次第にマンションに代わり、そして密集した屋根のくすんだ色彩が景色を滑り、七年前の戦いの被害があった地域に差し掛かるといつも更地が目立ち始めた。
轟音をたてながら通過する鉄橋の上で、仁はなめらかにゆらめく川面を眺めた。
──楽に死ぬには?
年齢の上は思春期を過ぎた仁にも、若い感傷がそんな問いをさせることも度々あった。考えてみて、最後にはいつも入水が楽なのではないかという答えにいたる。揺籃のようにうねる青黒い水面は、体を優しく包んで、そのまま圧殺してくれるような気がした。
それをユリアに打ち明けたことがあって、ユリアはそれ以来鉄橋を通るとき物憂げな瞳になって、夕日を切る鉄柱の影をその上に踊らせる。
この鉄橋で、二人の間にはいつも沈黙が流れた。そして今日は、その沈黙がいっそう、仁の意識を未だ見ぬ川底に向けさせた。
電車を降りた二人は、駅のバスターミナルまで歩いた。ビルの一階に食い込む道路の横にある、透明な壁にもたれて、仁は雨の降る駅前を眺めた。
電車を降りてから初めて、ユリアが口を開いた。
「シューアイスが食べたい」背後から飛び込む脈絡のない情報に、仁は一瞬間戸惑った。
「スーパーで買う?」
「仁が買って」
「俺だいぶ金欠なんだけど」
駅前の雑踏は、雨のせいかいつもより屋内に籠もっていた。無造作な音たちは耳障りにユリアの声を曇らし、仁はかすかな衝動といらだちからユリアの方へ振り向いた。
「買ってよ。一つ屋根の下のカレシでしょ」その顔には、末端まで幸福そうな笑みが浮かんでいた。が、その笑顔は確かに完璧だが、ともすると彼女の面皮から完璧なまま剥がれ落ちていきそうな、薄く伸ばされた糊に似た脆さがあった。自分の口元に緩やかな痙攣を認めながら、仁は口を開く。
「認めるのか、あんなの」
「私は前から、仁のこと好きだったから」
浅黒い肌の上からわかるほど、ユリアは頬を紅潮させた。
「仁は……」
「俺も、好きだよ」
自分の中で確かに嘘だと叫ぶ声が聞こえた。
仁は目をそらしてガラスの壁に曇るターミナルを見やる。彼女の笑顔は──瞼は何も害さないリズムと速さで瞬き、肌の下の血管たちは自らの存在を誇示するように赤を滲ませているのに──剥製のように、ずっとこちらを見ていた。
戦争のことは、幼い頃に見た夢のように、感触は薄れていた。
ただ、まぶたを閉じると眼鏡をかけた几帳面な少女のことが、ハイライトのようにちらつく。肉を斬る感覚や、仲間の血の温度や、吐き気を催すような死臭の記憶が確かさを失っていく中で、彼女との全ての記憶だけが五感を伴って現れる。
手を合わせることも忘れて、墓石に彫り込まれた彼女の姓をぼんやりと眺めてから、傘をどけて雨空を仰ぐユリアを見た。腕にシューアイスの袋を抱いた彼女は、低い背丈からもとても幼く見えた。
「先に帰ってくれないか」仁は独り言をつぶやくように、その言葉を転がした。喉をつく衝動が、そうさせた。
穏やかだった彼女の顔色が、青ざめていくのが見えた気がした。眉間にかすかに寄って盛り上がる肉や所在なさげにさまよう唇が、メッキのような喜びを剥がしていった。一瞬、彼女の瞳が視界の中心に錨をおろしたような気がしたが、次第に瞳孔は仁の濡れたズボンの裾へと下がっていっていた。
「今日、博也さん遅いって」
「覚えてるよ、ユリア」
「じゃあ」二、三歩の距離を、ユリアが跳ねるように駆け寄る。「できるだけ早く、気をつけて帰ってきてね」
手元でくしゃりと音がしたあと、ユリアは、踵を返して墓地の外へ走り出した。
彼女が跳ねた水の染み込む感触と、手のひらに握られた個包装のシューアイスが、冷たく四肢の指先ににじり寄ってきていた。
小さい背中は軽やかに雨の間を縫って、仁の視野の中で縮こまっていく。
──このまま彼女が、消えていったなら──。
記憶の中を弄れば、恍惚とした面立ちでベッドに横たわる彼女が、鬱陶しく目に浮かんだ。しかしまた同時に、神経をすべて一巡してきたように、今しがた目に収めたユリアの顔が鮮烈な勢いで飛び込んでくる。
呻くように、ああ、とため息をついた。
滑る石畳を蹴ったとき、濡れた袖の重さが生んだ躊躇を胸の片隅に追い込む。体の下のあたりから沸き起こる力が、足を止めようとするすべてを無の縁に落とそうとしていた。
「ユリア!」
柔らかく鈍い感触を足裏に残して、墓地の敷地は足を離れた。迷いなく、目は家路へ向く。畑の間を貫いていくコンクリートに、草と土と、雨の生臭ったにおいが横たわり、先にユリアがいた。水溜まりで濡れた足は地面にぴたりとついて離れていなかった。
何かが自分の中で破裂して、体のあちこちに飛び散った気がした。
思うまいとした粘着質なためらいは、未だに心に絡みついている。髪は傘をすり抜けた滴に濡れてべったりと張り付き、汗ばんだ体の湿りがつける間隙はどこにもない。
ユリアが周囲に蠢く静謐な空気を崩さず、こちらを見た。
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