10、熊の対処法と取ってこーい
空がやけにゆっくりと遠ざかっていく。
ダクと共に崖から落ちていく私はきっと助からない。
――今度は痛くないといいな。
今度はって何。前は痛かったみたいな。よく覚えていない。まあ、いいか。
死神さんがわざわざこの世界に連れてきてくれたのに、終わるの早かったな。
死んだら死神さんにまた会えるよね。会えたら謝らなきゃ。
ルストとも知り合いみたいだからお礼を伝えてもらうのもいいかもしれない。
ルストは私が死んだら悲しんでくれるかな?
ルストの番って誰なんだろう。
私以外の人にルストが優しくして笑いかけるの?
ルストの作ったごはんを食べて、毎日「おはよう」「おやすみ」って言い合うの?
ルストに抱っこされて、あの可愛い猫耳・猫尻尾をモフるかもしれないのっ⁈
嫌だな。
そう、嫌だ。
このまま死んでルストに会えないのは嫌だ!
ルストは私がモフりたい!
生きたい! 生きなきゃ!
強くそう思った瞬間、胸の中が熱くなり何かが溢れ出す。
「吹雪っ⁈ なんで雪だるまぁぁっ⁈ へぶぅ!」
落ちながら下から突き上げるような冷気を感じて首だけ動かし確認すると、吹雪の中に巨大な雪だるまが出現していた。
そして吸い込まれるように私は雪だるまに突っ込んだ。
(う、動けない……)
たぶん今は雪だるまの中に埋もれている。
実家で雪投げ(雪かき)をしていた時に、屋根から雪が滑り落ちてきて生き埋めになった時に似ている。雪の塊って重くて痛いよね。お姉ちゃんがすぐ気づいて掘り起こしてくれたからなんとか生きていたけど。
でも今はあの時とは違う。雪の重みで身体を動かす事ができない。息もできない。どっちが上で下なのかもわからない。
「ア……ァ、…………ァア」
雪のせいでよく聞こえないけど何かの声が聞こえる。しかも段々と大きくなっていく。
「グアァァァ、ンアァアァア!」
ダクの声だ!
急に視界が開けて雪の中から外に転がり落ちた。すぐに身体を起こして状況を確認する。
ここは崖下のはずなのに見渡す限り一面雪が覆い尽くしていた。吹雪も止んでいる。小高い山になっている部分はおそらく雪だるまの残骸。
二体のダクが雪に突撃して雪山を崩していた。
雪に興奮して跳ね回る犬みたい。動きは遅いけど。
ダクに助けられた? まさか、きっと偶然よね。
ダクは雪に飽きたのか今度は体を私に向けた。
どうしよう。ここは崖下だからどこに逃げたらいいのかわからない。逃げた先が行き止まりだったらそれで詰む。雪のせいで隠れる場所もない。
二体のダクは丁度野生の熊ぐらいの大きさ。
熊の対処法と同じでいいかな。
確か熊除けの鈴を必ず持ち歩いて、熊に人間がいるぞと存在を知ってもらうんだよね。
あとは、素人には獣道や熊の足跡を見つけるなんて無理。代わりに木に爪痕を見つけたり、でかいゴロゴロとしたフンを発見次第、そこはもう熊のテリトリーだからすぐ引き返す。
あ、違うな。これは熊と出会わない方法で出会った後のことじゃない。
山菜採りが趣味のおばあちゃんは人生で三回熊と遭遇したと言っていた。その時の話を思い出すのよ!
「車に乗っていたらいきなり熊が出てきてぶつかったのさ。衝撃でそのまま崖から車ごと落ちてね。クレーンで吊り上げる費用が高くて高くて……」
車ごと転落してよく無事だったね、おばあちゃん!
でも違う!
「川釣り中に視線を感じたら向こう岸に熊がいて、こっちに走ってきたんだよ。だけど、川が深くて諦めていたね。怖かったわ」
これも違う! 向こう岸に熊って怖い。
「キノコ採って身体を起こしたら目の前に熊がいて……」
そうそう、これよ! 続き!
「じーさんがすぐ気付いて熊スプレーかけてくれて、ついでに採ったキノコを投げてなんとか逃げてきたんだよ。自分だけさっさと逃げればよかったのにね」
参考にならない! 熊スプレーもキノコも持ってないよ!
「熊と遭遇したら諦めな。熊の住処に侵入したこっちが悪いんだから」
人間が悪いのはわかっている。
「でもそれはばーちゃんの話。ばーちゃんはもう充分生きたからいつ死んでも悔いはない。
真冬はまだ小さいから最後まで抗うんだよ。背中を向けて走ると本能で追ってくるからね、荷物を出来るだけ遠くに投げて、ゆっくりゆっくり後退してその場を離れるんだ」
荷物を遠くに投げる……か。これならできそう。
腰布を外し丸めて、解けないようにキツく結び上げる。
「そーれ! 取ってこーい!」
丸めた腰布をダクに見えるように掲げて、思い切り放り投げた。つい声を出してしまったが、ダクは二体とも腰布を追いかけて行った。
おばあちゃん、ありがとう!
よし! この間に逃げよう!
崖を登ろうと手をかけてすぐに無理だと悟った。崖が凍りついていて滑る。
この国は温暖で雪が降った事がないとルストが言っていた。じゃあこの雪はなんだろう。おかげで助かったけど、今は雪のせいで逃げられない。
「ギャァア!」
「グガァ!」
いつの間にかダクが戻ってきていた。腰布を地面に落とし、血走った赤目でこちらを見つめてくる。
も……もしかして私が「取ってこい」と言ったから本当に取ってきたのだろうか。
腰布を拾い上げて今度は何も言わずにまた投げた。ダクが追いかけていく。
ダクは二体で丸めた腰布を奪い合いながら、やっぱりこっちに持ってきた。
……なんで持ってくるの。
今は丸めた腰布というおもちゃに夢中で私を襲う気はないらしい。
ならダクの体力を減らそうと腰布を投げる。ダクが持ってくる。投げる。持ってくる。
投げては持ってきて、また投げてを何度も繰り返した。
そしてダクに変化が訪れた。
ダクが段々と小さくなっていったのだ。熊くらいの大きさから大型犬くらいになり、今は小型犬サイズ。
黒くてボヤッとしているけれど、チワワとトイプードルに見える。
「えらいね、いい子……痛っ!」
つい手を伸ばして二体のダクを撫でた。
大人しくされるがままだ。小さい尻尾もパタパタと振ってくれる。討伐するほどの危険な生き物には思えない。
だけど、ダクに触れた手のひらに痛みが走る。
火傷をしたみたいに皮膚がめくれ赤くなっていた。そういえば色々あって気づくのが遅れたが、ダクを掴んだ腕も火傷のような怪我をしていたのだ。
「ギャ、ギャア!」
「ンガァア、アアァ!」
二体のダクが心配そうな声を上げて私の周りをウロウロし出した。
「ありがとう。大丈夫だよ。君達優しいね」
声をかけると安心したのかその場でおすわりをした。そして「きゃーん」「くわぁん」と高く鳴いたと思ったら、白く輝いて消えてしまった。
「ダクって一体なんなの……?」
私の疑問は一面雪の世界に溶けていく。
ダクがいた場所には真っ白に光る二つの玉が残されていた。