3.魔太郎
シルバーのプリウスを駐車場に留める。
早乙女ルカは運転席から降りると回り込んで助手席を開ける。
裏野魔太郎が体を縮ませておびえたように座っている。
「ついてきて」
ルカが言う。魔太郎は終始無言だった。
エレベーターを最上階の二十階まで上り、角の部屋に入る。ここがルカの自宅だった。
玄関を上がるときルカは吐息をつきながら、二時間前のことを思い出す。
「えっ?、彼をわたしのマンションに住まわせるんですか? 急にそんなこと言われても困ります」
ルカが金切り声を上げる。
小会議室のテーブルにルカは山野辺と向かい合って座っている。部屋には二人だけしかいない。アルミサッシの窓から午後の陽射しが漏れている。
「まあ、ここはおれの顔を立ててくれ。先ほど特捜本部の幹部会議をやったんだが、最終的に君が彼の監視役を務めることに全員が納得したんだ」
山野辺丈太郎が言う。
「そういうことは、最初にわたしに相談してくださいよ」
「今度からそうする」
山野辺警部はいつも物事を一人で強引に決める。
まだ彼の部下として配属されてから日が浅かったが、ルカはそういう山野辺の性格をよく知っていた。
「裏野魔太郎君が多重人格者であることは聞かされていると思うけど、こういう人間の場合、二十四時間体制での刑事の監視が必要になる。ところで彼の出自はちょっと変わってるんだ」
山野辺は魔太郎の生い立ちについて説明した。
十年くらい前、北海道の山奥でマタギ(熊狩りの漁師)たちにメスの熊に育てられている人間の赤ん坊が発見された。マタギが保護して、孤児院に預けた。その赤ん坊は全身に布切れをまとっていて、布にマジックペンで『裏野魔太郎』と書いてあった。
多重人格の兆候が現れたのは孤児院に預けられてから二年後のことだった。孤児院では手の負えないとのことで、裏野魔太郎は病院など複数の施設をたらい回しされた後、ジェイダーパに引き取られた......。
「警部......とにかくですね」
ルカが山野での話をさえぎる。
「彼を預かるなんて、絶対お断りします」
リビングルームのソファーに腰かけた魔太郎にルカは二人分の麦茶の入ったコップを持ってくる。
「お茶飲むでしょう」
「......」
「飲まないの?」
「本当は飲みたいんですけど......知らない人にむやみに食べ物や飲み物をもらってはいけないって、ミツコさんが言うんですよ」
魔太郎がはじめて口を開いたので、ルカは思わす微笑んだ。コップを二つともソファーの前のガラステーブルに置く。
「マサユキ君なら、遠慮なく飲むべきだって言うけど、ミツコさんは絶対反対します。知らない人には遠慮しないと失礼だって。ヨシロウ君は多分、どっちでもいいみたいだけど」
「ミツコさんって、ジェイダーパの職員さん?」
「そうじゃないんです。ミツコさんはぼくの体の中にいるんです」
「体の中?」
「はい。ミツコさんはぼくの体の中にいて、ときどきぼくの体を支配するんです。きっと今日もしばらくしたら、ミツコさんが出てくるじゃないかなあ」
ルカは魔太郎が多重人格者であることを思い出す。ミツコとは、彼のもう一つの人格なのかもしれない。
魔太郎はふと全身を痙攣させる。
「......グググ........ミツコさんが......ゲゲゲッ......出てきたいって.....グググ.........」
「魔太郎君、どうしたの」
ルカは魔太郎の肩を揺する。
魔太郎の体に異変が起きたのはそのときだった。
髪が肩まで伸び、少し縮れ毛になる。顔はややふっくらと丸くなり、心持ち垂れ目になる。体全身が少しむくんだ感じだ。
肉体の変身が一段落すると、魔太郎は驚いたようにルカをまじまじと見つめる。
「あんた、誰?」
魔太郎の口から少年の声ではなく、中年女性のそれが発せられる。
「ここはどこなのよ」
「......」
魔太郎はソファーから立ち会上がり、リビングルールを見渡す。
「そうか。わかったわ。あんたが早乙女ルカね。魔太郎のおもりをやらされる新米刑事。あんたのことは魔太郎から聞いてるわ。だとしたら、ここはあんたの自宅ってとこかしら?」
「あの......あなたは......魔太郎君じゃないの?」
ルカが訊くと魔太郎は大声で笑いだす。
「あたしはミツコ。魔太郎の体を借りてるけど、人格はあんたより年上の女性よ。で、あんた状ちゃんの部下なんだって?」
「状ちゃん?」
「山野辺丈太郎のこと。あんたが刑事になるずっと前から、あたしは状ちゃんの知り合いなの。状ちゃんの奥さんより、あたしの方が彼のことよく知ってるかもしれないわ」
魔太郎の体に宿ったミツコは、キッチンの方へ歩いていく。
「あんた、全然、皿洗ってないじゃないの。こんなじゃ、いつまでたっても嫁に行けないわよ」
「なんですって」
ミツコはシンクにたまった皿を洗い出す。
「そのう.....ミツコさんってお呼びしていいかしら」
ルカはすっかり目の前の少年を大人の女だと思い込んで尋ねてみる。
「魔太郎君って、赤ちゃんのとき北海道で熊に育てられたんですよねえ...」
「ああ、あの話? あたしもよくジェイダーパの職員から聞かされたわ。でもまさか、あんたはそんなデマ信じてるんじゃないでしょうね」
「......」
「赤ん坊の体に布切れが巻いてあって、『裏野魔太郎』って書いてあった。捨てた親がこの子につけた名前......。
でもおかしいと思わない。裏野魔太郎の裏野は、普通に考えて裏野製菓の裏野から来ているのよ。裏野製菓はジェイダーパのフロント企業ね」
ミツコは皿を洗い続ける。
「だったら、魔太郎君の正体は何なんですか?」
「さあ、詳しいことはあたしにもわからないわ。ヨシロウの話では、魔太郎はジェイダーパが開発したミュータントなんだって。バイオテクノロジーだとか......人型軍事最終兵器だとか......ヨシロウはそんなこと言ってたわ」
「ヨシロウって誰ですか?」
皿が一枚、床に落ちて割れる。
突然、ミツコが頭を抱えてうずくまる。
「......グググ........ゲゲゲッ.....グググ」
ミツコの髪は再び短くなり、白髪になる。頬はやせこけ、眼光が鋭く光る。
「ミツコさん、だいじょうぶですか」
ルカは少年の肩を揺する。しかし、ミツコの人格はそこにはなかった。
ふとスマホからチャイム音が聞こえる。
ルカは反射的にポケットからスマホを取り出す。ラインに未登録の見知らぬユーザーからチャットのメッセージが届いている。ユーザーのハンドルネームはヨシロウ......。
――ハジメマシテ。よしろうデス。今、アナタ目ノ前ニイル男ガ自分デス
ルカは白髪頭の少年を見る。少年は目を合わせず、うつむいている。
――驚キマシタカ? 自分ハ失語症デ通常ノ会話ハデキマセン。ソノカワリ、意識ヲ電子情報ニシテ、PCヤすまあとほぉんノめえるデ、他人ト自在ニ意思疎通デキル特殊能力ガ備ワッテイマス
「あなたも魔太郎君の体にいる人格の一人なのね」
ルカが白髪頭の少年に話しかけてみる。
――ハイ
「わたし、ラインであなたなんか登録してないわよ」
――はっきんぐデス。自分ハねっとノ世界ヲ自在ニ操ルコトガデキマス
突然、白髪頭の少年は動物のような奇声を発し、頭を抱えて床に倒れる。
またしても人格交替の発作が起きたのだ。ルカはそう直感した。
しばらくして、少年が起き上がる。髪は黒髪に戻っている。
「今度はあなたは誰?」
少年は無言のまま放心したように遠くを見つめていた。
しばらくするとルカの方を向き、消え入るような小声で言った。
「魔太郎です」
「びっくりしたわ。あなたの中にはいろんな人格が住んでいるのねえ。一体、全部で何人いるの?」
「四人です」
「魔太郎君、ミツコさん、ヨシロウ君。後、一人は誰?」
「もう一人は......そのう......マサユキ君です」
「へえ、そうなんだ。マサユキ君っていう人もいるんだ。彼にも会ってみたいわ」
「だめです。マサユキ君は危険です。彼の人格が出てきたら、ルカさん逃げてください。彼に殺されてしまいます」